2011-05-14
軍司貞則
1冊挫折。
挫折19『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則〈ぐんじ・さだのり〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)/大手芸能プロダクションを描いたノンフィクション。面白い。時間がないため半分でやめる。戦後史として読むことも可能だ。もっと芸能界の暗部に踏み込めば売れただろうに。
日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
・世界中の教育は失敗した
・手段と目的
・理想を否定せよ
・創造的少数者=アウトサイダー
・公教育は災いである
・日本に宗教は必要ですか?
・目的は手段の中にある
面白い動画があったので紹介しよう。
問題はこの問いを「誰が」発しているのか、である。番組内ではムスリムとクリスチャンだ。つまり、「宗教が必要だ」と説く人物は宗教者に限られる。
彼らは当然の如く宗教を語る。だが肝心なことが抜け落ちている。宗教の定義が示されていない。ま、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)にとっては聖典ということになるのだろう。すなわち「教義」である。
数千年間にわたって続いたから、それを「正しい」とするのであれば、最も正しい人類の行為は「戦争」ということも可能だ。確かに教義は変わらないかもしれないが、「解釈」は時代によって変わる。そして思想的に袂を分かった人々が分派を形成するのが宗教の歴史であった。
よく考えてみよう。宗教は教義とそれに基づく行為と考えられているが実際は違う。いかなる宗教であれ、人々を支配しているのは教団である。そして教団が勢力の拡張を目指すところにプロパガンダが生じる。布教とはマーケティング、宣伝、顧客開拓の異名だ。教義に基づくはずの信仰が、教団の政治性に取り込まれているのが実態だ。
教義は言葉にすぎない。言葉は人間にとってコミュニケーションの道具であり、翻訳機能として働く。同じ言葉であっても、人によって意味が微妙に異なるものだ。それゆえ対話とは互いに歩み寄りながら、言葉を手掛かりにして心を探る行為といってよい。
我々は衝撃を受けると「言葉を失う」。あるいはモヤモヤした思いや不安は「言葉にならない」。もの凄いありさまは「筆舌に尽くし難い」。結局、言葉は氷山の一角であり、象徴(シンボル)にすぎないのだ。
言葉で織り成されるのは「思考」である。「悟り」から生まれた宗教が思考の範疇(はんちゅう)に収まるわけがない。簡単な例を示そう。美しい夕焼けを見て、何も考えられなくなるほどの感動を覚えたことは誰しもあるだろう。その光景や感動を「言葉で表現する」ことは可能だろうか? ま、不可能だわな。感動を伝えるのは、あなたの興奮の度合いを示す表情や顔つき、身振り手振りであって、言葉ではない。
じゃ、もう一つ例を挙げるよ。あなたは自転車の乗り方を言葉で説明できるだろうか?
・論理ではなく無意識が行動を支えている/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
とすると、悟りを説明することには限界があると考えるべきだろう。これが「教義の限界」だ。
宗教は組織化された信念ではありません。宗教は真理の探究ですが、それはいかなる国のものでも、いかなる組織化された信念のものでもなく、それはいかなる寺院、教会、あるいはモスクの中にもありません。真理の探究なしには、いかなる社会も長くは存続できないのです。そして真理が存在していないかぎり、社会は必然的に災いを起こすのです。
【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】
「組織化された信念」とは教団性と言い換えてよい。教義に依存し、教団に隷属する宗教は、党の方針に従う政治と瓜二つだ。
宗教者は「宗教を疑う」ことを知らない。このため論理的な整合性を無視して「信じる」ことで超越する。破綻する論理を信じることで、人格も破綻してゆく。ここから差別が芽生えるのだ。信じる者と信じない者とを分け隔て、冷酷さや暴力性が瀰漫(びまん)しはじめる。
キリスト教とイスラム教を見よ。彼らは自分たちの歴史を反省することができない。侵略に次ぐ侵略、女性蔑視、性への偏見、同性愛者の抑圧、奴隷制度、魔女狩りなど、その残虐性は類を見ないほどだ。
かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。この事実が宗教の無力さを証明している。歴史的な宗教は権力者にとっては抑圧の道具として効果を発揮した。
真の宗教は自由を目指す。教団に所属することが信仰ではない。単独であることの至福が宗教なのだ。
・ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
・党派性
・偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
2011-05-11
9.11テロ以降パレスチナ人の死者数が増大/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
・『物語の哲学』野家啓一
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・自爆せざるを得ないパレスチナの情況
・9.11テロ以降パレスチナ人の死者数が増大
・愛するもののことを忘れて、自分のことしか考えなくなったとき、人は自ら敗れ去る
・物語の再現性と一回性
・引用文献一覧
・『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
・物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
・『アメリカン・ブッダ』柴田勝家
・『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
・『悲しみの秘義』若松英輔
・必読書リスト その一
東日本大震災からちょうど2ヶ月が経った。被災地ではまだまだ不如意を強いられている方々が多いことだろう。家族や友人を喪った人々が、今日も体育館のダンボールで仕切られた空間に閉じ込められている。
日本全体で苛立ちが募っている。東京電力や原子力安全・保安院の態度に始まり、政府の対応の悪さ、福島原子力発電所の不透明な現状などを見るにつけ、「これで本当に国家といえるのか?」と疑問の念が湧いてくる。
今日現在でも死者・行方不明者を合わせると2万4834人にのぼる(時事通信)。この事実に対する緊張感が政治家からは殆ど感じられない。顔つきが一変したのは宮城県気仙沼市が地元の小野寺五典〈おのでら・いつのり/自民党〉だけだろう。
地震も津波も天災である。それでも、やり場のない怒りを抑えることは難しい。もし神様がいるなら、5~6発ほどぶん殴ってやるところだ。
とりわけ2001年9月11日、ワシントンとニューヨークで起きた同時多発攻撃事件のあと合州国(ママ)政府の「テロとの戦い」に世界が同調していくなかで、イスラエル軍のパレスチナ侵攻も急速にエスカレートし、2002年3月と4月の両月、それまで二桁だったパレスチナ人の死者数は一挙に200名を越えた。
日常化した銃撃や砲撃、爆撃によって、日々誰かが斃れていく。隣人が、友人が、恋人が、兄弟が、親が、子どもが、夫が……。愛する者を暴力的に奪われるという、人間の生にとって非日常的であるはずの出来事がこの頃のパレスチナでは日常と化し、「遺された者たちの悲嘆はありふれたものとなった」(※アーディラ・ラーイディ著『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』インパクト出版会、2003年)。
人間にとってそのような生を生きるとはいかなることなのか。パレスチナ人がパレスチナ人であるかぎり、そうした生を生きること――あるいは、死を死ぬこと――は仕方のないことだとでも言うように、世界が彼ら彼女らを遺棄しているとき、だからこそ、彼らが生きることを――あるいは死ぬことを――強いられている生の細部にまで分け入って、その生の襞に折り込まれた思いに私たちが触れることが何にもまして切実に求められているのではないか。
【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年/新装版、2015年)】
イスラエルへ勝手に入植してきたユダヤ人の手でパレスチナ人は殺されている。実に1948年から殺され続けているのだ。パレスチナ問題という名称は誤魔化しで、その実体はイスラエル問題である。
イギリスの三枚舌外交とロスチャイルド家の暗躍によってイスラエルは建国した。
もしも震災ではなく外国の軍隊によって数万人の同胞が殺戮されたとしたら、あなたはどうするだろう? パレスチナ人にとってはそれが現実である。
60年を経た今も尚ジェノサイド(大量殺戮)は進行中なのだ。既に三代にわたってパレスチナ人は迫害されている。イスラエルに対する憎悪は沸点に近づきつつあることだろう。本物の若きリーダーが登場すれば、怒りのネットワークは中東地域にまで広がることだろう。
理不尽に耐えることが人類の行く手を阻む。軍の命令とあらば罪なき人々を平然と殺し、他人の家をブルドーザーで破壊するような連中が滅びないわけがない。
ユダヤ人の歴史は悲劇の連続であった。しかし、それとこれとは別だ。岡真理の繊細な情感には共感を覚えるが、もはや文学を論じている場合ではあるまい。
我々は闇を見ることができない/『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明
・我々は闇を見ることができない
・『ゼロからわかるブラックホール 時空を歪める暗黒天体が吸い込み、輝き、噴出するメカニズム』大須賀健
・『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
「宇宙」って時空という意味だったんだね。知らなかったよ。
私たちは宇宙に住んでいる。「宇」は空間を意味し、「宙」は時間を意味する。宇宙はまさに私たちの住む時空だということになる。しかし、私たちは自分たちの住んでいる宇宙がどういうものであるか、完全には理解しているとは思えない。歯がゆいことである。
【『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明(講談社ブルーバックス、2005年)以下同】
で、何が歯がゆいか? 宇宙の目方がわからないのだ。「質量ったって、星の数を勘定すればいい話だろ?」。私もそう思っていた。まず、ばらつきが多すぎる。太陽系9個の惑星の重さは、太陽の質量のたった0.13パーセントにしかならないそうだ。太陽って、そんなに大きかったのか。
・太陽系の本当の大きさ/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
地球の直径(赤道)は1万2756kmである。太陽までの距離は何と1億4959万7870kmもある。つまり地球を1万1727個並べた距離だ。地球がサッカーボールの大きさ(70cm)であれば、太陽は821m離れていることになる。確かに遠いわな。一体全体どうやって惑星を引っ張っているんだろうね?
星の距離は光年という単位で表されるが、これ自体が時空を示している。ちなみに1光秒は29万9792.458kmだ。宇宙は気が遠くなるほどの広がりをもつ。
そして宇宙には目に見えないエネルギーが存在することがわかってきた。しかもこれが宇宙の大半を構成している。
さらに驚くべき「ダーク」がある。ダークエネルギーである。宇宙全体の73パーセントの質量を担うものは、このダークエネルギーと呼ばれるものである。そしてさらに、ダークマターが23パーセントを占める。つまり、私たちが知っている物質の質量は、宇宙全体の質量のたった4パーセントでしかないことがわかってきたのである。
ダークエネルギーという言葉はフリッツ・ツビッキーが1933年に提唱したもの。もちろんダークマター(暗黒物質)にちなんでいる。正体はいまだ不明であるが「真空のエネルギー」と考えられている。
こうなると超ひも理論に近い。
結局のところ、宇宙のダークマターの探求は、素粒子の世界と力の統一理論に深く関係していることになる。
マクロの宇宙とミクロの素粒子の交差点にダークマターがいるかのごとくである。
つまり宇宙を支配しているのは闇なのだ(笑)。
このように星はその質量に応じてある有限の寿命を全うして死んでいく。では死んだあとはどうなるのだろう? 多くの場合、ダークな残骸を残すことになる。宇宙のダークサイドの一員になる。
銀河系の中心には太陽の約300万倍のブラックホールがあると予想されている。標準的なブラックホールの質量は何と太陽の10億倍だってさ。「私って何て小さな人間なんだ!」と悩んでいるそこのあなた。あなたは正しい。
我々は闇を見ることができない。闇は至るところにある。見えている物の裏側は闇なのだ。背後も闇と考えてよかろう。眠っている間も闇に包まれている。もっと凄いのはまばたきという小さな闇だ。映画のフィルムのつなぎ目のように闇が挿入されているのだ。
結局、宇宙のダークが示しているのは「死のエネルギー」なのだろう。人類悠久の歴史を思えば、生よりも圧倒的に死の方が多い。目に見える生を支えているのもまた数多くの死(食料)である。
そう考えると、「私」を成り立たせているのは「反私」なのかもしれない。何らかの量子ゆらぎが絶妙なバランスで存在たらしめているのだろう。これが「私」という場である。
亡くなっていった人々を思う時、単なる思い出以上の不思議なエネルギーを感じる。
・ブラックホールの画像
・人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
2011-05-10
クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ
戦争は儲かる。アメリカが戦争を始めるたびに日本は経済的な発展を遂げてきた。
・アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー
高度経済成長(1954-1973年)からバブルの絶頂(1990年)を迎えようとしたその時、オウム真理教が登場した。地下鉄サリン事件(1995年3月20日)の直前に目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件が起こった(2月28日)が、私は被害者の假谷清志〈かりや・きよし〉さんと同じ町内に住んでいた。
高学歴の若者が新興宗教に取り込まれ、凶悪な犯罪に手を染めた。メディアは色めきたった。誰もが「なぜ?」と口にした。「リアル」という言葉が持てはやされるようになったのは、この頃からだったと記憶している。犯人は宮台真司か。
経済がズタズタになるのと同時に、引きこもり、パラサイト・シングル、ニートが増殖し始めた。当初は現実を拒否する若者たちという括(くく)り方をしていた。
バブルに酔い痴れているうちに人々は生(せい)のリアリティを失っていった。金で手に入るものは全てが虚構であった。ふと気づけば終身雇用が崩壊し、リストラされていた。
資本主義経済というゲームをしているにもかかわらず、日本はいたずらに20年もの歳月を失い続けた。そして東日本大震災に見舞われた。突きつけられたのは「死のリアリティ」であった。
本書は選集である。初心者には不向きだ。翻訳が読みやすいため、何となくわかったような気になるところが危ない。少なくとも10冊以上は読んでから臨みたい。
なぜ私たちは生きているのか?
質問者●私たちは生きていますが、なぜ生きているのかはわかりません。私たちの大多数には、人生は意味をもたないように思われます。私たちの人生の意味と目的を教えていただけませんか?
クリシュナムルティ●今なぜ、あなたはこの質問をされるのですか? なぜあなたは私に人生の意味、人生の目的をたずねているのでしょう? 人生という言葉で何を指しておられるのですか? 人生は意味を、目的をもつのでしょうか? 人生はそれ自体が目的であり、意味なのではありませんか? 私たちはなぜそれ以上のものを求めるのでしょう? 私たちは自分の人生にたいそう不満なので、人生があまりにも空虚なので、あまりに安っぽく、単調で、同じことを繰り返し繰り返し何度もやっているので、何かそれ以上のものが、私たちがしていることを超えるものがほしくなるのです。自分の毎日の生活があまりに空虚で、味けなく、あまりに無意味、退屈で、たえがたいほど馬鹿げているので、私たちは人生はもっと豊かな意味をもたねばならないと言い、それであなたはこういう質問をされるのです。たしかに豊かな生活をしている人、ものごとをありのままに見て、自分がもっているものに満足している人は、混乱していません。彼は明快なので、だから人生の目的とは何かとはたずねません。彼にとっては、生活そのものが始まりであり終わりなのです。
私たちの困難は、ですからこういうことです。生活が空虚なので、私たちは人生に目的を見つけたいと思い、そのために苦闘するのだと。そのような人生の目的は何のリアリティももたない、たんなる頭の先の観念にすぎません。人生の目的が愚かな、鈍い精神、空虚な心によって追い求められるとき、その目的もまた空虚なのです。それゆえ私たちの目的は、どのようにして自分の生活を豊かにするか、お金その他の物によってではなく、内面的に豊かにするかということです。それは何か神秘的なことではありません。あなたが人生の目的は幸福になることだと言うとき、その目的は〔たとえば〕神を見出すことです。が、その神を見出したいという願望は、実は人生からの逃避であり、あなたの神はたんなる既知のものでしかないのです。あなたはあなたが知っている物の方に進めるだけです。もしもあなたが神と呼んでいるものに向かって梯子をかけるなら、たしかにそれは神ではありません。リアリティは逃避の中でではなく、生きることの中でだけ理解されうるのです。人生の目的を追い求めるとき、あなたは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。人生とは関係です。人生とは関係の中における行為です。私が関係を理解しないとき、あるいは関係が混乱しているとき、そのときに私はより豊かな意味を求めるのです。なぜ私たちの人生はこうも空虚なのでしょう? 私たちはなぜこんなにも寂しく、欲求不満なのでしょう? それは私たちが自分自身を深く見つめたことが一度もなく、自分を理解したことがないからです。
【『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2005年)】
原書は『クリシュナムルティ著作集』(邦訳未刊)。「あなたはだれ?」「世界はどこから来たの?」で知られる『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ゴルデル著、NHK出版、1995年)が本国ノルウェーで出版されたのが1991年のこと。日本では一気に自分探し、自己実現ブームが起こり、現在にまで至っている。
クリシュナムルティの言葉は我々を混乱させる。というよりは「混乱している我々の思考」を炙(あぶ)り出す。「なぜ生きるのか?」との問いは、生きるに値せぬ現実から生じる。摩擦、混乱、違和感が孤独へ結びつくと、人は世界から拒絶されたような心境になる。
「周囲から大事にされない」事実が、「いてもいなくてもいい存在」へと追いやる。彼は歩いているのではない。倒れそうになる身体を連続的に支えているだけなのだ。そしてリストラや離婚が子供たちに深刻な影響を与えた。
資本主義経済の競争原理は一切を手段化する。幸福は資本の獲得に収斂(しゅうれん)される。ゲームで問われるのは資本という点数のみである。
少し質問を変えてみよう。「なぜ私たちは働くのか?」。答え――「食うため」。ハッハッハッ(笑)。おわかりだろうか? 我々は「生きるために食べる」のではなくして、「食べるために生きている」のだよ。何という本末転倒であろうか。「なぜ私たちは起床するのか?」「会社へ行くためだ」(笑)。
最後の部分はクリシュナムルティの縁起論といってよい。ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。
最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。
ブッダもクリシュナムルティも「対話の人」であった。つまりコミュニケーションにこそ生の本質があるのだ。「私」という自我意識が消失した瞬間、そこには関係性しか存在しない。
・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
・縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ
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