2011-10-05

私を変えた本


 個人的な覚え書き。人間は人間と出会うことで変わる。触発という言葉は手垢まみれで好きではない。ここはやはり脳内のネットワークが変わるとすべきだろう。本を読むこともまた人との出会いを意味する。

 感動には2種類ある。今までの自分の反応を強化する感動と、それまでにない全く新しい感動である。例えば私は人がバタバタと死ぬ映画を好むが、そのような映画を何本見たところで私が変わることはない。

 面白い本は多い。ためになる本も山ほどある。だが自分の価値観を揺さぶり、思考を木っ端微塵にし、概念を破壊する本は少ない。

 私を変えた本たちを紹介しよう。

『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

文庫 女盗賊プーラン 上 (草思社文庫)文庫 女盗賊プーラン 下 (草思社文庫)

 34歳の時に読んだ。私はどちらかというと積極的――あるいは攻撃的――な平和論者であった。しかし暴力が支配する世界では暴力でしか立ち向かうことができない事実を知った。しかも本書に書かれていることは大昔のことではなかった。プーラン・デヴィは私と同い年だった。世界平和など戯言(たわごと)であることを思い知らされた。

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

ルワンダ大虐殺 〜世界で一番悲しい光景を見た青年の手記〜

 私はキリスト教の運命論を否定して仏教の宿命論を信奉していた。それなりに勉強もしてきたつもりだった。ところがルワンダ大虐殺には全く通用しなかった。わずか100日間で100万人近い人々が殺戮された。もしも殺された原因が過去世にあるとするならば、全ての犯罪は容認されてしまう。レヴェリアン・ルラングァは本書の後半で神との対話を試みて、完膚なきまでに神の欺瞞を暴いている。だがそれで彼が救われるわけではない。私には彼に掛ける言葉がなかった。「生きていてよかったね」ということすらはばかられた。45歳にして迷いは深まり、懊悩(おうのう)する日々が続いた。

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

『石原吉郎詩文集』石原吉郎

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

 読書にはタイミングがある。『女盗賊プーラン』以外はいずれも45歳で読んだ作品である。石原はシベリア抑留者であった。それは国家から見捨てられた経験であった。クリスチャンとしての信仰スタイルも変わらざるを得なかった。石原は平凡な人物であった。しかし彼の目は鹿野武一〈かの・ぶいち〉をしかと捉えた。本書を読んで国家、組織、集団に対する考え方が一変した。

究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」

『一九八四年』ジョージ・オーウェル

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 20代で新庄哲夫訳を読んでいたが、これほど面白いとは思わなかった。管理社会と自由をテーマにした作品であるが、より本質的には集団と権力(≒暴力)の実相を描いている。つまり集団そのものが暴力であると考えることも可能だ。メディア社会(≒高度情報化社会)は人間のつながりをコントロールする関係に変えてしまった。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

 クリシュナムルティを知り、私が抱いてきた数々の疑問は完全に氷解した。初期仏典の意味もわかるようになった。クリシュナムルティとの出会いは人生最大の衝撃といってよい。自由とは離れることであった。

自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 不惑(40歳)と知命(50歳)のちょうど真ん中になる45歳で私は変貌した。自分でも驚いているほどだ。なお適当なカテゴリーがないため「併読」にしておく。

どう生きたらいいかを考えさせる本

IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる


 ・IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる

『超帝国主義国家アメリカの内幕』マイケル・ハドソン

imf

 まったくもって「お見事」。嫌悪感を抱くよりも、笑うことが正しい。発展途上国の貧困を維持するのがIMFの目的だ。ローマクラブが尖兵(せんぺい)となって環境問題に警鐘を鳴らしたのが1972年のこと。それ以来、先進国が決して立つことのない「イス取りゲーム」が始まったのだ。「エネルギーと食糧には限りがある。だからお前たちが先進国になることは絶対に認められない」というのが先進国ルールだ。

 バブル景気で図に乗っていた日本を崩壊させ、ジャパンマネーがアメリカに還流する仕組みをつくった上で京都議定書は採択された。日本をイスから下ろすための新しいルールに基づいてゲームは続行中だ。

 IMFと世界銀行は第二次世界大戦に勝利を収めた連合国の意志に基づく機関で、真の目的は資源の豊富な発展途上国を債務漬けにすることである。そして先進国の人々は娯楽に興じながら、ぶくぶくと肥え太ってゆくのだ。自分で身体を支えることもできない人物よ、汝の名はアメリカなり。政治と宗教が手を組んでいるテレビの映像が示唆的だ。

貧富の差
世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト
経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
利子、配当は富裕層に集中する/『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』河邑厚徳、グループ現代
ウォール街を占拠せよ
グロ-バル化 IMF(国際通貨基金)が貧困を作るときなくならない飢餓/『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会

マイケル・ハワード、プリーモ・レーヴィ


 2冊挫折。

ヨーロッパ史における戦争』マイケル・ハワード:奥村房夫、奥村大作訳(学陽書房、1981年/中公文庫、2010年)/翻訳の文体に馴染めない。中世から第二次世界大戦に至る戦争を中心にヨーロッパ史が描かれている。いつの日か再読する必要がある。

天使の蝶』プリーモ・レーヴィ:関口英子〈せきぐち・えいこ〉訳(光文社古典新訳文庫、2008年)/最初の三つは結構面白かったのだが、「天使の蝶」でガクッとなって挫ける。関口の翻訳が素晴らしい。

2011-10-04

バビヤールのユダヤ人虐殺から70年、ウクライナ


 ウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領は3日、70年前にナチス・ドイツ(Nazi)によるユダヤ人の虐殺が行われたバビヤール(Babi Yar)渓谷を追悼訪問した。
 ナチスは1941年9月29~30日、バビヤール渓谷でユダヤ人3万3771人を殺害した。この虐殺は、近年になってようやく正式な追悼が行われるようになった。
 1941年、旧ソ連当局者をキエフ(Kiev)から追放したナチスは同市を占領し、移住を口実に市内に残ったユダヤ人全員を集めた。
 ナチスはキエフで起きた連続爆発事件の責任をユダヤ人に押しつけた。しかし実際には、爆発はキエフに残った旧ソ連の内務人民委員部(NKVD)要員や、旧ソ連の赤軍が撤退前に残した爆弾によるものだった。
 ナチスはユダヤ人を市郊外のバビヤール渓谷に行進させ、そこで射殺した。
 ソ連の作曲家ドミトリ・ショスタコービッチ(Dmitry Shostakovich)は、1960年代にバビヤールの虐殺を主題に作曲をして、エフゲニー・エフトゥシェンコ(Yevgeny Yevtushenko)の詩「バビヤール」に音楽をつけた。

ホロコースト最大の虐殺

 バビヤールの虐殺はナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の中で最大の虐殺だっただけでなく、大都市で行われた戦時の大がかりなユダヤ人抹殺としても初めてのものだった。
 1943年にキエフから撤退するまで、ナチスはバビヤールを処刑場として利用した。少なくとも10万人のユダヤ人やロマ人、レジスタンス運動家や旧ソ連の受刑者たちが処刑された。だが、殺害された正確な人数については現在も議論の的となっている。
 第2次世界大戦(World War II)のソ連はバビヤールの虐殺を大きく扱うことはなかった。ユダヤ人の苦難に注目が集まれば、最大の戦争被害者はソ連国民だったというソ連政府の主張を妨げるからだった。
 1976年に建立された記念碑は、ユダヤ人について触れていない。1991年にようやく、ユダヤ人犠牲者の記念碑建立が認められた。エフトゥシェンコの詩はこう始まる。「バビヤールに記念碑はない。切り立つ崖は荒くれた墓石のようだ」
 2009年には、サッカー欧州選手権2012(UEFA Euro 2012)の観光客向けのホテルの建設計画が上がったが、市民や国際的な反対を受けて市長が建設を断念していた。

AFP 2011-10-04

「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」という表記は意図的なものだろう。ワシントンに米国国立ホロコースト記念博物館がある。これは常識的に考えてもおかしなことだ。「アメリカ先住民大虐殺記念館」なら理解できる。ユダヤロビーがどれほどの力を持っているかが窺えよう。で、宣伝工作を行っているのがエリ・ヴィーゼルだ。

「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
「アメリカ・ホロコースト記念館: 高くついた危険な誤り」セオドア・オキーフ

イスラエルの作家に「無宗教」認める判決


 イスラエル・テルアビブ(Tel Aviv)の裁判所は前週、同国の作家に対し、公式に登録されている宗教を「ユダヤ教」から「無宗教」にすることを認める判決を下した。2日の同国日刊紙ハーレツ(Haaretz)が伝えた。
 作家のヨラム・カニュク(Yoram Kaniuk)氏は内務省に対し、自身の宗教を「ユダヤ教」から「無宗教」に変更したいと申し出たが拒否されたことを受け、5月に提訴した。
 同紙によると、判決文は「宗教からの自由は、(イスラエルの)基本法の『人間の尊厳と自由』で保護されている人間の尊厳の権利に由来するものだ」と述べた上で、「唯一検討しなければならない問題は、原告が自分の意思の深刻さを証明できたかどうかということだ。自分の要求を法廷に持ち込んだこと以外、原告にいかなる重荷も負わせる必要はないと判断する」と付け加えている。
 カニュク氏は同紙に、「裁判所は個人が自分の良心に従ってこの国で生きる正当性を認めた。この判決では、人間の尊厳と自由は自分のアイデンティティを自分で決められることを意味しているとされた。だから、私は無宗教でも国籍としてユダヤ人を名乗ることができる。非常に興奮している」と述べ、判決を「歴史的」と評価した。
 イスラエル政府は国民を宗教と民族籍によって登録している。民族籍には「イスラエル人」という選択肢はなく、ユダヤ系国民は「ユダヤ人」と登録される。これを不服とした世俗主義者団体は何年も前から、内務省に「ユダヤ人」ではなく「イスラエル人」に置き換えるよう要請している。

AFP 2011-10-04

 これは重要なニュースだ。無宗教の思想性が認められたという事実は重い。それでも尚、人間は宗教的ドグマから解放されない。なぜなら感情を直接支えているのが宗教であるからだ。