@chinakoten_bot
中国古典名言bot 知る者は言わず、言う者は知らず ~ 老子 http://bit.ly/2Xt9AS
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2011-11-02
巧すぎて鼻につく文章/『樹の花にて 装幀家の余白』菊地信義
・巧すぎて鼻につく文章
・『悲しみの秘義』若松英輔
文は「あや」と読むことからもわかるように、「かざる」という意味がある。文身(いれずみ)とは「身をかざる」こと。
菊地信義は著名な装幀家である。本を飾るのが仕事といってよい。それにしても文章が巧みだ。巧すぎて鼻につくほどである。逆立ちしてもかなわない。
5丁目の酒場ルパンには開業以来使われているショット・グラスがある。このグラスで飲みたくてウィスキーのストレートを覚えた。どこにでもありそうな外形だが、内側の縁から底へ円錐状に穿(うが)たれていて、ウィスキーが注がれるとカウンターへ琥珀の弾丸がすっくと立つ。
グラスを指先でつまむようにしてそっと口へ運ぶ。一口すすりこみ薬指をグラスの底へあてがい中指で胴を巻きこむと、腰のあたりがわずかにくびれていて指の腹へひたと添っている。女人の細い腰へ端なくも腕を回してしまった、そんな心地で二口目を口にする。
このショット・グラスは昭和3年、ルパン開業の折に先代の女主人(80歳を超えた今も健在だが店へは出ていない)のご主人がデザインして作らせたもの。口造りは正確で厳しいくらいだが、長年のウィスキーとの馴染がおっとりと仕立てたのか、口当たりはすこぶるやさしい。
【『樹の花にて 装幀家の余白』菊地信義(白水社、1993年/白水Uブックス、2000年)以下同】
広く知られた太宰治のポートレートだが、この店がルパンである。永井荷風や坂口安吾も常連だったようだ。
夏休みの季節になると銀座にも子供たちの姿が目に付く。銀座が生活の場でもあるとあらためて思い知る。歌舞伎座裏。仕事場の向いの一角がこの夏空地になった。夕刻なにげなく見下ろすと、いち早く闇を溜めたそこで5~6人の少年が両手を翼のように拡げ舞っている。地面を銀色が転がっていく。空罐を順に蹴って回して遊んでいるらしい。儀式でもあるように、蹴り終えた少年たちも無言で舞い続けている。最後の少年がひときわ濃い闇の辺りへ罐を蹴り込んでしまうと、一斉に路地へ走り去る。幻でも見たように銀色が消えた先を見つめていた。
「鼻につく」と書いたのは私の好みにすぎない。例えば私は中央線の新宿より西側(八王子方面)の地域が嫌いだ。何となく山の手感がある。下町と比べると明らかに洗練されたお洒落な店が多い。私は強烈な違和感を覚える。鎌倉も苦手だ。道を歩いているだけで「悪かったな、どうせ俺は下町だよ」と嘯(うそぶ)きたくなる。
菊地の文章を読んでいると全く同じ感慨に駆られる。もちろん菊地に罪はない。にもかかわらず、「ケッ、気取ってんじゃねーよ」と毒づきたくなるのだ。
わかってる。所詮、貧乏人のひがみだ。こちとら、素敵な場所に用はない。
横断歩道を歩く人がみんな堅実に生きていると思えてしまう。鞄を提げた女人の腕の小さな痣も心にしみる。
これは確か、飲み明かして朝帰りをする場面だ。おお嫌だ嫌だ。何て嫌な文章なのだろう。
東京ってえのあね、貧富の差が激しいところなんだよ。道産子の私がいうのも何だが。
ユネスコ、パレスチナの加盟を承認 米は反発し拠出金停止
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10月31日の採決で、パレスチナを正式な加盟国として迎え入れることを決めた。米政府はこれに反発し、ユネスコへの拠出金を停止すると発表した。
総会での採決の結果は賛成107、反対14で、棄権が52だった。可決の発表を受け、会場からは大きな拍手がわき起こった。
米国務省のヌーランド報道官は、この結果に「遺憾」を表明。「時期尚早であり、中東和平という共通の目標を台無しにする」決定だと述べた。
米国からユネスコへの拠出金は年間8000万ドル(約63億円)に上り、ユネスコの予算の22%を占めるとされる。同報道官は、米国が11月に予定していた6000万ドルの拠出を中止すると言明した。米国の法律には、パレスチナ解放機構(PLO)に「加盟国と同等の地位」を認める組織には資金を出さないとの規定がある。
ユネスコのボコバ事務局長は採決を受け、「最大の拠出国である米国からの資金が失われる可能性がある」と懸念を表明。国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長も同様の懸念を示していた。
一方、パレスチナ指導部はユネスコ加盟を「重要な勝利」として、すでに申請している国連加盟への第一歩と位置付けた。国連機関にパレスチナの加盟が認められたのは初めて。パレスチナ解放通信(WAFA)は同日夜、世界保健機関(WHO)への加盟申請に向けて準備が進んでいると伝えた。
【CNN 2011-11-01】
日本政府は米国債を売却してユネスコを断固支援すべきだ。
2011-11-01
縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編
ヴェーダとウパニシャッド(ヴェーダの一部)を参照し、インド哲学から六派哲学~六師外道に至り、輪廻と解脱を確認し、梵我一如に辿りついたところで既に1時間以上を経過している。
ものを書く行為には正確さが求められるが、書こうと思っていたことを失念しそうだ。大体、今更私がインド思想史を正確に記述したところで何の意味もない。少々の間違いがあったとしても独創的な見解を示すのが先だ。
もう疲れてしまったのでメモ書き程度にとどめておく。
まず現在の私の見解を述べておこう。日本の仏教はその殆どが鎌倉仏教といってよい。最大の問題はなにゆえ鎌倉時代から宗教的進化が見られないのかということに尽きる。本来であればニュートン力学や、アインシュタインの相対性理論、はたまたゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、量子力学、超弦理論などに対して応答する必要があった。
これを避けたことによって全ての宗教は文学レベルに堕したと私は考える。物語力は既に宗教よりも科学の方が上回っている。
前置きが長くなってしまった。本書は仏教入門として非常に優れている。記述も正確だ。
アーリヤ人のインド侵入以前にインダス河の流域に高度な文明が発達していたことが、インド考古学調査団の発掘調査によって判明した。ハラッパー、モヘンジョダロを二大中心地として、紀元前2300年ころから1800年ころまでの間栄えていたとされる。
その出土品によれば、シュメール文化との関係が深く、アーリヤ文化とはまったく性質が異なっている。この文明の担い手は現在南インドに居住するドラヴィダ人の祖先であったとする説が有力であるが、確実なことはいまだ不明である。
【『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)以下同】
・インドに歴史文化がない理由
インダス文明は、アーリア人が五河(パンジャブ)地方に侵入する以前に衰えてしまっていたといわれるが、現段階ではよくわかっていない。ともあれ、鉄器をもちいるアーリア人が、銅器をもちいていたムンダ人やドラヴィダ人などのインドの原住民たちを圧倒し、支配したことは事実である。
紀元前1500年ごろ――あるいは紀元前13世紀ごろ――インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちは、ヒンドゥークシュ山脈を越えて五河地方を占拠した。これ以後、今日にいたるまで、インド文化の中核となっているのは、このインド・アーリア人である。彼らはギリシア人やゲルマン人と同じ祖先をもつ人種であり、インド人の思弁の中には、ギリシア哲学やドイツ哲学の思索の道筋と似たものが見出される。
【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】
・インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
つまり東洋と西洋の文化が激しくぶつかり合い、アーリア人支配という政治的側面からヴェーダが作成された。
ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。
で、インドはカースト制度に束縛されていた。
なお、四姓の原語はヴァルナといって「色」を意味し、もともとは白色のアーリヤ人とそうでない非アーリヤ人を区別するために用いられたことばである。
社会の安寧秩序を守るための宗教といってよい。いまだにインドはカースト社会であることを踏まえると、人間の脳は簡単に数千年も縛られることが理解できる。強靭な物語力だ。
ちょっと気になったのだが、「ヴァルナ」はひょっとすると色法(しきほう)と関係があるかもしれない。
ウパニシャッドにおける重要な思想の一つに、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)がある。
これは知らなかった。そうするとブッダが説いた解脱とどう違うのかね? 梵我一如の違いだけだとすれば、実にわかりにくい。
こうしたテーマが厄介なのは、当時の人々が何に束縛されているかを知らなければ、ブッダの目指した自由がわからないことだ。
またインド哲学でいうところの「我」と、デカルトが見出した「我」は似て非なるものだと思う。仏教が説く我(が)は当体や主体という意味で、自我とはニュアンスが異なるように感ずる。
ことに『スッタニパータ』にみられる無我説は極めて数が多い。
なにものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた水の少ないところにいる魚のようなものである。(777)
ここでは、なにものかを「わがもの」「われの所有である」と考えることを否定している。執着、我執、とらわれの否定、超越として無我が説かれている。
また『律蔵』の中で、釈尊は五比丘(びく)に向かって次のように説いている。
比丘たちよ、この色は我ではない。もし色が自己であるなら、この色が病いにかかることはないであろう。また、色について、わたしの色はかくあれ(健康であれ)、かくなることなかれ(老いないように、死なないように)といえるであろう。しかし、色は我ではないから、病いにかかるし、あれこれと(自由に)することはできない。……この受が我であろうか。……この想が……この行が……この識が我であろうか。
このように、色(しき/肉体)及び四種の精神(受・想・行・識)の働きをあげ、そのどれもが我と呼べるものではないとしている。
無我という語は主に初期仏教や部派仏教で用いられるが、大乗仏教ではこれを「空」の語で表現することが多くなった。
これで一つわかった。諸法無我であるがゆえに、諸法実相は三諦(さんたい)における縁起となるのだ。大乗仏教は諸法無我=空としたため、中道実相に不要な付加価値を与えてしまったのだろう。
釈尊の教説「四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。
【三諦説「空・仮・中」:日本タントラヨーガ協会】
つまり実体としては縁起しか存在しないのだ。
縁起とは「縁(よ)りて起こること」である。「縁りて」とは条件によってということであり、あらゆるものは種々さまざまな条件に縁って(縁)、かりにそのようなものとして成り立っている(起)ことである。
縁起とは人間関係といった意味での関係性ではない。生命次元の相互性・関連性を意味する。
この縁起を特に法と名づけ、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」とも「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」とも説かれている。そしてこの縁起の法則は、たとえ仏が世に出ても出てなくても永遠に変わることのない真理であるといわれる。
縁起がダルマ(法)なのだ。
私論を開陳させていただこう。大乗仏教は部派仏教に対抗するために、バラモン教的政治性を取り込んでしまったのだろう。また差別化を計る目的で教義も豊穣な――あるいは過剰な――論理構造を築かざるを得なかった。その過程で梵我一如の影響を受けてしまったのだ。これが一念三千であると考えられる。
諸法無我は現代科学が証明しつつある。量子レベルで見れば我々の肉体は蜘蛛の巣や綿飴みたいにスカスカだ。そこに微弱な電気が流れ、なぜだかわからないが「私」が立ち上がるのだ。そして哲学的に吟味すれば、「私」とは世界から分断された存在に他ならない。
鎌倉仏教は大乗と密教をミックスした日本オリジナルの宗教である。現代においては大乗から部派仏教、そして初期経典へとさかのぼり、ブッダ本来の教えを辿るべきだと私は考える。大乗仏教から政治性や運動性を除かないと、単純なプラグマティズムに堕す恐れがあるからだ。
・無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か
・無我に関するリンク集
・ウパニシャッドの秘教主義/『ウパニシャッド』辻直四郎
・無明とは/『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ
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