私は、バッハにおけるキリスト教の役割を軽視する考えには、絶対に反対である。バッハにとってこれほど大切だったものを尊重し、その内容を知り、その影響を考えることは、正しいバッハ理解のための不可欠の条件であると思う。その意味では、聖書の勉強がたいへん役に立つ。
だが、だからといってバッハを、キリスト教に閉じ込めてはならない。バッハを教会で聴くのはいいものだが、演奏の場を教会に限るべきではないだろう。それと同じように、バッハのメッセージも、当時の教会の教えにすべて還元されるべきではない。むしろわれわれは、バッハがその教えの上に立ちながら、いかに国境と時代を超えた作品を作り出したかに、目を注ぐべきである。
バッハの人間理解に深さが感じられるのは、彼が人間の概念を、いつも人間を超えたものとの関係においてとらえているからではないだろうか。
【『J・S・バッハ』礒山雅〈いそやま・ただし〉(講談社現代新書、1990年)】
我が音楽の嗜好は20代でロックからブラックミュージックへと進み、ワールドミュージックを経て沖縄ポップスに辿り着いた。そして40代の後半になってTha Blue HerbとSIONの歌声に耳を委ねている。そんな私だが「一曲だけ選べ」と言われたら、迷わず『マタイ受難曲』と答える。バッハと出会ったのは丸山健二の小説でのこと。
・丸山健二と『マタイ受難曲』/『虹よ、冒涜の虹よ』丸山健二
直ちに名演との誉れ高いカール・リヒター指揮の1958年盤を取り寄せた。丸山の形容は決して大袈裟なものではなかった。
礒山のリベラルな精神が見事にバッハを捉える。リベラルとは中途半端を意味しない。常に別の可能性を模索し得る柔軟な精神性を指すのだ。
世界はイデオロギーという絵の具で色分けされている。つまり「所属」を通して人間を判別するのだ。どの国家、どの宗教、どの政党、どの学校、どの企業、どの地域に所属しているのか? 氏素性(うじすじょう)というのも一緒である。
我々はありのままの人間を見つめる前に敵か味方かを問うのだ。これは多分本能に基づいているのだろう。石器時代であれば、「騙(だま)される」ことは死を意味する。
それゆえ世界の挨拶は「味方であること」を示すサインとなっている。握手は利き腕に武器を持っていない証拠であるし、日本のお辞儀は人間の急所である頭部を相手に差し出す行為だ。ハグも攻撃され得る距離に身を委ねる営みである。
例えば礒山とは反対にクリスチャンとしてのバッハを論じることも可能だろう。しかしバッハという人物の幅を狭めることで、多くの共感を獲得することは困難であろう。
礒山が見つめるのは「人間バッハ」である。視点の高さがバッハという地平を豊かに広げる。
・バッハはリズム、モーツァルトはメロディ、ワーグナーはハーモニー/『J・S・バッハ』礒山雅
・バッハ「マタイ受難曲」カール・リヒター指揮
・「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」バッハ