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■(サイ)の発見
・文字は絶対王朝から生まれる
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『漢字 生い立ちとその背景』白川静
「あ!」と思った。
日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来なければ、文字は生まれて来ない。(白川静)
【『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽(平凡社、2001年)以下同】
私は漢字のマンダラ性を見抜きながらも絶対性には思い至らなかった。しかもその理由が振るっている。
神聖王朝というと、そういう異民族の支配をも含めて、絶対的な権威を持たなければならんから、自分が神でなければならない。神さまと交通出来る者でなければならない。神と交通する手段が文字であった訳です。
これは統治のために使うというような実務的なものではない。(白川静)
法の制定や布告のためかと思ったのだが完全に外れた。「呪」の義を想う。呪いと祝いは距離をはらみながらも同じ一点から生まれるのかもしれない。それは縦の直線なのだ。真上から見れば点と化すことだろう。
権威とはそれ自体が「新しい世界」なのだ。人々が知り得ぬ世界観を提示することで権威は保たれる。私が「オーソリティ」(権威)と認めるのは、私の知り得ぬ世界を提示する人に限られる。すなわち「王」は「世界」であり、「世界」とは「王」が規定するのだろう。
本書で一番面白かったのは岡野玲子(漫画家)との対談である。白川は「狂う」の語義について語る。
白川●「くるう」という言葉は、「くるくる回る」という場合の「くる」ね、あの「くるくる」と同じ語源で、獣が時に自分の尻尾を追い掛けるようにしてくるくる回ったりしますね、ああいう理解出来ん動作をする、それが「くるう」なんです。
理解を超えたものが「新しい世界」を提示する。ああ、そうか。「世界」とは「理解」なのだ。自分のわかっている――あるいは「わかっている」と錯覚している――範疇(はんちゅう)こそが「世界」である。
白川●だから「狂」というのは本当に気が触れてしまったというのではなくて、一種の異常な力が自分の内にあると考えられる状態を、本当は「狂」という。本当に狂うてしまったのでは話にならんのでね。狂うたような意識の高揚された状態、それが「狂」なんです。平常的なものを全部否定する。平常的なものの中にある限りはね、ものは少しも改革されない。既成の枠の中にきちんと納まってしまっておって、これはもう力を失っていくだけであって、新たな力を発揮するということは出来ませんわね。そういう風な状態にある時に、「狂」という、新しい創造的な力というものがそれを打ち破る。
つまり「狂」とは抑えきれないマグマなのだろう。最初の噴火があり、次々と大地が火を放つと、そこに「新しい山」ができる。これが「新しい世界」なのだ。人々が理解できるのはマグマが冷め、定まった形状になってからのことである。
岡野の応答がまた凄い。
岡野玲子●それで、実際に笛をを吹いた時にどういう変化があるのかというのを知らなくてはと思って、神社にお参りして、自分で実際に笛を吹いてみる、歌を歌ってみる。そして歌う前と歌った後ではどう違うのかっていうのを自分で体験しました。
実際に違うんです。笛を吹く前と吹いた後では、もう、その社から流れてくる力とか、その社に向かって見た時に、そこの社に見える色であるとかが、全部変わってくるんですね。
あたかも、この世界を創造した神の発言のようだ。「息を吹き込むこと」で世界は作られるのだ。内部世界と外部世界をつなぐのは「呼吸」である。ヨガや瞑想で呼吸を重んじるのは当然だ。自律神経系で唯一コントロールできるのが「呼吸」なのだ。
呼吸は有作(うさ)と無作(むさ)との間を行き来する。そして呼気と吸気の間に「死」が存在する。呼吸はそれ自体が生死(しょうじ)を表している。
白川が自分の仕事を振り返る。
白川●いや自分でもね、ほんとうに僕が書いたのかなあって思う時がある。瞬(またた)く間にやったからな。『字統』は一年で書いてしまったでしょ。『字訓』も一年で書いてしまった。『字通』はね、用例などを吟味しておったから、それで手間がかかった。
これが「狂う」ということなのだ。何かに取り憑(つ)かれ、何かに動かされ、気がつくと何かが出来上がっている。真の力とは自力と他力との融合である。内なる「狂」が外なる「秩序」と化す。ここに芸術が立ち現れる。
白川は「ものが見えるということはね、一つの霊的な世界だから」と語り、「3200年昔。僕が見ておるのはな。3200年昔の世界なんや」と心情を吐露する。彼は漢字を通して3200年前の「人間」を見つめていたのだろう。空間ではなく時間を見つめる眼差しに畏怖の念を覚える。