2012-04-24

レオポルド・ストコフスキーとの対談/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ


 ・クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの
 ・あなたは「過去のコピー」にすぎない
 ・レオポルド・ストコフスキーとの対談

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト

 真の対話は化学反応を起こす。著名人による対談は互いに太鼓を抱えて予定調和の音頭を奏でるものが多い。対話の中身よりも、むしろ名前が重要なのだろう。あるいは肩書き。ま、形を変えて引き伸ばした営業や挨拶みたいな代物だ。

 私はクラッシクをほとんど聴かないのでレオポルド・ストコフスキーの名前を知らなかった。フィラデルフィア・オーケストラの著名な指揮者だそうだ(当時)。クリシュナムルティ33歳、レオポルド・ストコフスキー46歳の時の対談が収められている。

 まずはレオポルド・ストコフスキーの指揮を紹介しよう。




 レオポルド・ストコフスキーの戸惑う様子が各ページから伝わってくる。クリシュナムルティ特有の文脈を異次元のもののように感じたはずだ。ストコフスキーは戸惑うたびに注意を払い、問いを深めている。

クリシュナムルティ●直観は、英知の極致、頂点、精髄なのです。

【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)以下同】

 直感、ではない。直感は「感じる」ことで、直観は「捉える」ことだ。第六感のような感覚的なものではなく、英知の閃(ひらめ)きによって物事をありのままに見通す所作(しょさ)である。

 直観という瞬間性に時間的感覚はない。主体と客体の差異も消失する。そこに存在するのは閃光(せんこう)の如き視線のみだ。

 我々は普段見ているようで見ていない。ただ漫然と眺めているだけだ。あるいは概念やイメージというフィルター越しに見てしまう。つまり、ありのままを見るのではなくして、過去を見ているのだ。これはクリシュナムルティが一貫して指摘していることだ。

ストコフスキー●私はかねがね、芸術作品は無名であるべきだと思ってきました。私が気にかけていた問いはこうです。詩、ドラマ、絵あるいは交響曲は、その創造者の表現だろうか、それとも彼は、想像力の流れの通路となる媒介だろうか?

 本物の芸術は作り手の意図を超えて、天から降ってくるように現れる。意思を超越した領域に真理や法則性が垣間見えることがある。ストコフスキーが只者でないことがわかる。

 無名性は永遠性に通じる。作者の名前を付与したものは自我の延長にすぎないからだ。何であれ世に残すことを意図したものは死を忌避していると考えてよい。

 私は大乗仏教の政治性に激しい嫌悪感を抱いているが、その無名性には注目せざるを得ない。

 クリシュナムルティは次のように応じた。

「創造的なものを解放するためには、正しく考えることが重要です。正しく考えるには、自分自身のことを知らなければなりません。自分自身を知るためには、無執着であること、絶対的に正直で、判断から自由でなければなりません。それは、自分自身の映画を見守るように、日中、受け入れも拒みもせずに、自分の思考と感情に連続的に気づくことを意味するのです」

「無執着≒判断から自由」という指摘が鋭い。我々は何をもって判断しているのか? 本能レベルでは敵か味方かを判断し、コミュニティレベル(社会レベル)では損得で判断している。判断を基底部で支えているのは所属や帰属と考えてよさそうだ。

 社会人として、大人として、親として、日本人として、「それはおかしい、間違っている」と我々は言う。相手を断罪する時、私は「社会を代表する人物」みたいな顔つきをしているはずだ。集団には必ず不文律があるものだが、結局のところ「村の掟」と同質だ。

「判断から自由」――これこそが真のリベラリズムといえよう。せめて判断を留保する勇気を持ちたい。

「いったんはじめられ、正しい環境を与えられると、気づきは炎のようなものです」 クリシュナムルティの顔は生気と精神的活力で輝いた。「それは果てしなく育っていくことでしょう。困難は、その機能を活性化させることです」

「正しい環境」とは脳の環境のことであろう。すなわち思考を脇へ置くことを意味する。思考から離れ、判断から離れることが、自我から離れる=自我からの自由を示す。

「自由な思考」という言葉は罠だ。思考は過去への鎖であり、自我への束縛であり、最終的に牢獄と化すからだ。哲学の限界がここにある。

2012-04-23

ヴェルナー・ゾンバルト、村松恒平


 1冊挫折、1冊読了。

戦争と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト:金森誠也〈かなもり・しげなり〉訳(論創社、1996年/講談社学術文庫、2010年)/原著刊行は1913年。第一次世界大戦が翌年のこと。「戦争がなければ、そもそも資本主義は存在しなかった」との指摘が重い。詳細を極める内容についてゆけなかった。

 22冊目『達磨 dharma』村松恒平(メタ・ブレーン、2009年)/やられた。文章道場は本書の販促が目的だったのだろう。巧みなマーケティングといえる。つまり村松はメールマガジンをソーシャル・ネットワーキングとして活用したのだ。B5判の薄い本で、本文は左ページのみ。短篇というよりは掌編である。ページの余白部分に言葉の響きが広がる。小説自体は「フーン」といった程度ではあるが、味わい深いのは確かだ。

2012-04-22

本当の戦争の話をしよう




本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

米兵は拷問、惨殺、虐殺の限りを尽くした/『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン
ティック・クアン・ドック
画像検索:ベトナム戦争
罪もない少年を殺害し、笑顔で記念撮影をする米兵(アフガニスタン)
米兵、上半身吹き飛んだ遺体と笑顔で記念撮影(アフガニスタン)

「知性とは何か」茂木健一郎



G1サミット2012 第10部分科会 知性とは何か

知性とは何か。太古から人は言語を生み、火を使い、森羅万象の中に法則性を見出すことによって進歩を遂げてきた。闇の深淵に何があるのかという畏怖と探求心は、宗教を生み
­出し、天文学をつくり、ロケットを発明した。見えないものを見ようとする知性は、新たな世界観を育み、世界を変革する力となって、人類をいまだ知らざる土地へと連れて行く­。宇宙を回遊し、インターネットでつながれた情報の海を泳ぎながら、現代における知性は、どのような世界を夢想するのだろうか。脳科学者の茂木健一郎氏が語る知性とは。(­文中敬称略。肩書は2012年2月12日登壇当時のもの)。

スピーカー:
茂木健一郎 脳科学者

聴き手:
國領二郎 慶應義塾大学 教授

2012年2月12日 於:青森

【みどころ】
・才能とは「非典型的な知性」であり、これこそがグローバル社会で求められている
・知性のあり方、学力観を問い直さないと、日本はあぶない
・自然科学者が英語、文系学者が日本語で研究することが相互交流を分断している
・TOEICという検定試験のようなもので英語力を図るのはおかしい
・英語を学ぶ真の意味は、世界の知のバトルや現場の息吹を知るため
・圧倒的な知性の持ち主は、ペーパーテストなしでも話して、書いたものを見ればわかる
・遺伝の相関係数は平均50-60%、あとは環境によって決まる
・スティーブ・ジョブズのように「欠落」が非典型的な知性をはぐくむこともある
・美人は収束進化、皆の顔を平均的にしたものが美人。一方天才は収束的でなく、脳の特定部位の部分最適による
・大事なのはソーシャル・センシティビティ、グループで互いに能力を補い合うことで素晴らしいものを生み出せる
・面倒くさいことを粘り強くすると、脳の回路が活動しジェネラル・インテリジェンスは上がる
・非典型的な知性の育み方はケース・バイ・ケースで脳科学的にも不明
・パッション(受難が語源)、苦しんだ人、欠落した人が持つもの
・天才は、意識が押さえている無意識をうまく「脱抑制」できる人
・何が起こるかわからない状況にも適応できる知性を、いかにはぐくむか

◎茂木健一郎

感動する脳 (PHP文庫) 生命と偶有性 生きて死ぬ私 (ちくま文庫) 空の智慧、科学のこころ (集英社新書)