2013-01-14

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 第一 蛇の章

一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘〈びく〉)は、この世とかの世をともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 数え50歳にしてスッタニパータと取り組む。実は数年前に一度読んでいるのだが、その時は「フーン」としか思わなかった。46歳でクリシュナムルティと巡り会った。その後ブッダの言葉は一変した。自分でもびっくりした。乾いたスポンジが水を吸うようにスーッと染み込んできた。

 ルワンダ大虐殺を知り、私は変わった。むしろ思想的に行き詰まったといった方が正確だろう。45歳になった直後のこと。それまでに築いてきた価値観がまったく通用しなかったのだ。1年ほど煩悶と懊悩の間を行ったり来たりしていた。そんな私にとってクリシュナムルティの言葉は光明となった。

『スッタニパータ』は最古の経典である。このため原始仏教と称されることもあるが、「原始」という表現は誤解を生じかねない。それゆえ私は初期仏教と表記する。また、古いことそれ自体に価値があるわけではなく、「より正確なブッダの言葉」を探るべきだと考える。飽くまでも「誰か」が伝えた言葉で、「誰か」が翻訳した言葉である事実を念頭に置く必要があろう。テキストを真に受けることはブッダの姿を人影に隠してしまうようなものだ。

 スッタとは縦糸のことで「経」と訳される。スマナサーラ長老は「式=フォーミュラ」としている。縦に時間を貫くのが経であれば「理」(ことわり)すなわち理法と考えてよかろう。ナンバーが打たれているのは一つ一つが独立した式であるため。

 蛇の毒は脈動によって波のように押し寄せ、波紋を広げ、余韻を伸ばしてゆく。「よくも俺を馬鹿にしたな」「私に恥をかかせたわね」――怒りは痛みから生まれる。まさしく蛇に噛まれたようなものだ。だがその毒は自分の内側に拡大してゆくのだ。そして我々は毒を吐き捨てる機会を虎視眈々と窺う。

 果たして毒蛇に噛まれた人が毒蛇を追い掛けるだろうか? 蛇を打ちのめし、切り刻んだところで毒が消えるわけでもない。しかし我々が日常で行っているのはこういうことである。国家や民族も同様だ。人類全体が毒=怒りに駆られて行動している。

 怒りを制するためには怒りをただ観察する。否定するのはダメだ。否定は抑圧となるため怒りの根が深まってしまう。「あの野郎、俺のことを馬鹿にしやがって」「今度会ったら何か言い返してやろう」「一発殴ってやろうかな」「仲間を集めて袋叩きにするか」「いざという場合に備えてサバイバルナイフでも買っておくか」「あんな奴は生きている価値がないな」「いっそのこと……」――私は怒りやすい方なのでよくわかるが、怒りは常に殺意をはらんでいる。怒りは大なり小なり相手の死を願っているのだ。

 今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。
 切に義人を思う。義人とは何か、── 怒ることを知れるものである。

【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)】

 不正を憎み、社会を改革してゆくことは正しい。敗戦後の混乱から学生運動に至るまでの時期は「怒りの季節」であった。それで何かが変わったのかもしれないし、変わらなかったのかもしれない。社会の制度や仕組みが変わっても、そこにはいつも変わらぬ人間の姿があった。

 正義から発せられた怒りが正しければ、人類が行ってきた革命はもっと上手くいってしかるべきではないか? 共産主義だって成功したはずだろう。真正なる怒りは必ず暗殺に向かう。その意味では革命もテロも一緒だ。

「殺したい」との願望をありのままに見つめる。私は殺人鬼だ。あいつとこいつと、そうだあの野郎も殺してしまいたい。あんな人間を育てた親も殺そう。近所に住んでいた連中も同罪だ。あいつと同じ民族も絶滅させるべきだ。同じ種を滅ぼすべきかもしれない……。殺意は巡り巡って自分に向けられる。

 これが数千年間にわたって繰り返されてきた人類の歴史だ。脱いでしまえば旧(ふる)い皮に価値はなくなる。

 実際にやってみると至難ではあるが、修行と心を定めて行っていると怒りが静まる時間が短くなる。怒りっぽい私が言うのだから本当だ。


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2013-01-13

『みさおとふくまる』伊原美代子(リトル・モア、2011年)

みさおとふくまる

 いつも一緒のおばあちゃんと猫。日々、畑仕事に精を出すみさおおばあちゃんと、猫のふくまるの日常を写し取った写真集。季節ごとに色彩を変える、表情豊かな風景のなか、一人と一匹が、寄り添い、見つめ合いながら暮らしています。



「お日様の下を生きる事ができれば、すべてが好日。今日もいい日だね、ふくまる」。

 12年前、著者の伊原美代子さんは、みさおおばあちゃんを撮影しはじめました。おばあちゃんの生きた証を残したい、という思いだったそうです。そんなある日、家の納屋で、おばあちゃんは一匹の子猫と出会いました。

「ふくまる」という名前には「福の神様が来て、すべてが丸く治まるように」というおばあちゃんの願いが込められています。87歳になった今も、毎日畑へでかけるおばあちゃん。そして、それにお伴するふくまる。青々とした田んぼ、咲き誇る花々、丸々と実る果実……。色鮮やかに、豊かな表情をみせる風景のなか暮らす、一人と一匹の姿が写真で綴られていきます。気づけばおばあちゃんとふくまるが出会って8年。すっかり耳の遠くなってしまったおばあちゃんと生まれつき耳が不自由なふくまるは、いつも見つめ合い、お互いを感じ合っています。

 青い空に白い雲がプカプカと浮かぶ頃、おばあちゃんとふくまるは今日も畑へ出かけます。

 日常の尊さ、美しさ、かけがえのなさが詰まった一冊です。

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冨田勲「イーハトーヴ交響曲」feat.初音ミク


冨田勲「イーハトーヴ交響曲」世界初演... 投稿者 dm_508cda0a95f7e

イーハトーヴ交響曲

2013-01-12

デイヴィッド・リンドリー


 1冊読了。

 3冊目『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー:阪本芳久訳(早川書房、2007年)/参った。読み物としては『宇宙をプログラムする宇宙』よりこちらの方が上。天体物理学の博士号をもつサイエンスライターだけあって一筋縄ではゆかない。時に堂々と批判を加える。不確定性原理そのものが科学界の量子的存在として誕生した模様がドラマチックに描かれている。アインシュタインvsボーアの論争が圧巻でハイゼンベルクの影が薄れてしまうほどだ。そしてプランク、ゾンマーフェルト、ボルン、パウリ、シュレーディンガー、ド・ブロイ、ディラックといった豪華キャストが脇を固める。彼らの人間臭さを描写することで読者は不確定性原理の呼吸と汗を感じることができる。晩年のアインシュタインは実に性格が悪い。阪本芳久の訳はどれも素晴らしい。2000円以下に抑えたところに早川書房の気合いが感じられる。尚、関連書は既に紹介済みだ。

2013-01-10

「エイズ」の真実


 フランス人医師エチエンヌ・ド・アルヴァン氏へのインタビュー。