・ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
・進化宗教学の地平を拓いた一書
・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
・宗教と言語
・宗教の社会的側面
・普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
“人類学または歴史学に知られているなかで、論理的に宗教と考えられる活動を持たない社会はない。たとえ計画的に宗教の根絶をめざした旧ソビエト連邦のようなところであっても”と人類学者ロイ・ラパポートは書いている。
ラパポートによれば、宗教的建造物を作(ママ)るのに必要な時間、労力、費用、さらに聖戦や供犠などを考えると、宗教が人類の適応(自然淘汰への反応として起きる遺伝的変化)に貢献しなかったと想定するのはむずかしい。“もし気まぐれや見せかけだったとしたら、これほど労力を要する行為は、まちがいなく淘汰圧で排除されていただろう……宗教はたんに重要なだけでなく、人類の適応に欠かせないものだった”と1971年に書いている。
しかし長いあいだ、ラパポートの考察を引き継ぐ研究はおこなわれなかった。ひとつには、いかなる人間の行動であれ、遺伝的に決定されていると人類学者が考えたがらなかったからだ。
【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)以下同】
ロイ・ラパポート/onologue - Roy Rappaport http://t.co/rCD1Jqu5ao
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 24
ロイ・ラパポートに関するウェブ情報は驚くほど少ない。以下の論文(PDF)で紹介されている程度だ。
・コミュニケーションにおける儀礼的諸相の再考察 「連帯」と「聖なるもの」をめぐって:松木啓子
ラパポートが指摘しているのは「機能としての宗教」である。養老孟司も解剖学的見地から同様の主張をしている。
脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」
これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。
【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】
「人間は五蘊仮和合(ごうんけわごう)である」とブッダは説いた。肉体(色蘊〈しきうん〉)と精神(受蘊〈じゅうん=感受作用〉、想蘊〈そううん=表象作用〉、行蘊〈ぎょううん=意志作用〉、識蘊〈しきうん=認識作用〉)という五つの要素が仮に結合した状態であると。心が機能であるとすれば、我(が)もまた機能なのだろう。
『ザ・ユニット 米軍極秘部隊』のシーズン4第17話でこんな科白(せりふ)があった。「ヘリなんてのは――600万個の部品が空中に浮いているだけだ」。おわかりだろうか? 部品600万個仮和合がヘリコプターの本質なのだ。バラバラであってはヘリは機能しない。つまり人間の意識とは内燃機関(エンジン)が爆発した状態を指すのだろう。それゆえ動かぬヘリコプターは600万個の部品を並べた状態と変わらない。
ここでちょっと引っ掛かるのは「遺伝」という言葉の扱い方だ。ニコラス・ウェイドは「母親が我が子を守る」例を引いているが、遺伝情報とは「形質が伝わる」ことであり、DNAに書かれているのは「蛋白質のつくり方に関する情報」である(『DNAがわかる本』中内光昭)。
リチャード・ドーキンスが創案した「ミーム」(『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店、1991年)であれば理解できる。本能と学習の議論をすっ飛ばして「遺伝」を語るのはどうかと思う(※「刷り込み」を参照せよ)。
なぜ宗教は進化した行動と考えられるのか。言語と比較するとわかりやすい。言語と同じく宗教は、遺伝的に形成された学習能力の上に築かれた複雑な文化的行為である。人は自分の社会の言語と宗教を学ぶ本能を持って生まれてくる。しかしどちらの場合にも、学ぶ内容は文化から与えられる。言語と宗教が(基本的形態はよく似ているにもかかわらず)社会ごとに大きく異なるゆえんである。
言語が、早い時期に進化した多くの行動(音を聞いたり、発生させたりする神経系の働きなど)の上位で働くように、宗教行動もいくつかの洗練された能力(音楽に対する感受性や、道徳的本能、そしてもちろん言語そのもの)を土台としている。言語同様、すべての社会の宗教行動はある特定の時期に発達している。まるで生来の学習プログラムが作動しはじめたかのように。
言語と同じく、宗教行動はもっとも重要な社会的行動だ。人はひとりで話すことも祈ることもできるが、どちらもほかの人々とおこなったときにもっとも豊かな意味を持つ。ともにコミュニケーションの手段だからだ。
ニコラス・ウェイド/onologue - Nicholas Wade http://t.co/5c2MxPTDXG
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 4月 24
これまた危うい展開の仕方だ。言語はコミュニケーションの手段ではあるが、言語獲得以前におけるコミュニケーションの可能性を否定することはできないためだ。鳥や魚の群れが一瞬にして方向転換するようなコミュニケーションのスタイルがヒトにもあったかもしれない。逆に考えれば、言語を使わなければコミュニケーションできなくなったと捉えることもできよう。「心の進化」は同時に「本能の退化」を意味する。
きっと言語の獲得はヒトに対して進化的な優位性になったことだろう。だが人類は言葉を「争いの道具」にしていることも事実である(『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ)。そして現在に至るまで言語と宗教は人間同士を不幸な戦闘状態に置いている。
人は個人としてではなく、社会的集団として生き延びる。そして社会性生物にとって何より重要なのは、メンバーが互いに意思疎通するためのコミュニケーション能力だ。言語が最上位にあるため、宗教やジェスチャーなど、ほかのコミュニケーション手段が正当に評価されないことが多いけれども、言語が考えを伝えるシステムであるのと同じく、宗教行動は共通の価値と感情を伝えるシステムである。このシステムを効果的にする遺伝的変異は、自然淘汰でただちに強化されただろう。自然淘汰が、個体レベルと同じように集団レベルでも起きた場合(こちらのほうが通常)には、なおさらそれが言える。集団レベルでの淘汰は、進化生物学者のあいだでも議論のあるところだが、もっとも厳しい反対論者でもその存在を否定しているわけではない。ほとんどの場合においておそらく重要ではなかった、と言うだけだ。後述するように、人類の進化には特殊な状況がある。それが通常よりはるかに強く、集団の選択に作用したと考えられる。
ここでいう「選択」は「淘汰」と同義である。「宗教行動は共通の価値と感情を伝えるシステムである」との指摘が重要だ。私が「新しい時代の教祖になり得るのは歌手である」と考えているのも同じ理由による。
言語と歩調を合わせて進んできた宗教が千数百年前にテキスト化という進化を遂げた(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。これを私は「宗教の歴史化」と考える(『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘)。
人類は社会的なつながりから政治的意識が芽生え、そして歴史的存在へと至ったのだろう(『歴史とは何か』E・H・カー)。しかしながら文字はコミュニケーションを拒む(『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ)。
クリシュナムルティは「理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます」と語った(『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ)。沈黙の静謐(せいひつ)の中に通うコミュニケーションもある。言葉の限界を超えるにはもう一段進化する必要がある。
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