2014-04-24

宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド


ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 ・進化宗教学の地平を拓いた一書
 ・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
 ・宗教と言語
 ・宗教の社会的側面

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

“人類学または歴史学に知られているなかで、論理的に宗教と考えられる活動を持たない社会はない。たとえ計画的に宗教の根絶をめざした旧ソビエト連邦のようなところであっても”と人類学者ロイ・ラパポートは書いている。
 ラパポートによれば、宗教的建造物を作(ママ)るのに必要な時間、労力、費用、さらに聖戦や供犠などを考えると、宗教が人類の適応(自然淘汰への反応として起きる遺伝的変化)に貢献しなかったと想定するのはむずかしい。“もし気まぐれや見せかけだったとしたら、これほど労力を要する行為は、まちがいなく淘汰圧で排除されていただろう……宗教はたんに重要なだけでなく、人類の適応に欠かせないものだった”と1971年に書いている。
 しかし長いあいだ、ラパポートの考察を引き継ぐ研究はおこなわれなかった。ひとつには、いかなる人間の行動であれ、遺伝的に決定されていると人類学者が考えたがらなかったからだ。

【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)以下同】


 ロイ・ラパポートに関するウェブ情報は驚くほど少ない。以下の論文(PDF)で紹介されている程度だ。

コミュニケーションにおける儀礼的諸相の再考察 「連帯」と「聖なるもの」をめぐって:松木啓子

 ラパポートが指摘しているのは「機能としての宗教」である。養老孟司も解剖学的見地から同様の主張をしている。

 脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」
 これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
 循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。

【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

「人間は五蘊仮和合(ごうんけわごう)である」とブッダは説いた。肉体(色蘊〈しきうん〉)と精神(受蘊〈じゅうん=感受作用〉、想蘊〈そううん=表象作用〉、行蘊〈ぎょううん=意志作用〉、識蘊〈しきうん=認識作用〉)という五つの要素が仮に結合した状態であると。心が機能であるとすれば、我(が)もまた機能なのだろう。

ザ・ユニット 米軍極秘部隊』のシーズン4第17話でこんな科白(せりふ)があった。「ヘリなんてのは――600万個の部品が空中に浮いているだけだ」。おわかりだろうか? 部品600万個仮和合がヘリコプターの本質なのだ。バラバラであってはヘリは機能しない。つまり人間の意識とは内燃機関(エンジン)が爆発した状態を指すのだろう。それゆえ動かぬヘリコプターは600万個の部品を並べた状態と変わらない。

 ここでちょっと引っ掛かるのは「遺伝」という言葉の扱い方だ。ニコラス・ウェイドは「母親が我が子を守る」例を引いているが、遺伝情報とは「形質が伝わる」ことであり、DNAに書かれているのは「蛋白質のつくり方に関する情報」である(『DNAがわかる本』中内光昭)。

 リチャード・ドーキンスが創案した「ミーム」(『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店、1991年)であれば理解できる。本能と学習の議論をすっ飛ばして「遺伝」を語るのはどうかと思う(※「刷り込み」を参照せよ)。

 なぜ宗教は進化した行動と考えられるのか。言語と比較するとわかりやすい。言語と同じく宗教は、遺伝的に形成された学習能力の上に築かれた複雑な文化的行為である。人は自分の社会の言語と宗教を学ぶ本能を持って生まれてくる。しかしどちらの場合にも、学ぶ内容は文化から与えられる。言語と宗教が(基本的形態はよく似ているにもかかわらず)社会ごとに大きく異なるゆえんである。
 言語が、早い時期に進化した多くの行動(音を聞いたり、発生させたりする神経系の働きなど)の上位で働くように、宗教行動もいくつかの洗練された能力(音楽に対する感受性や、道徳的本能、そしてもちろん言語そのもの)を土台としている。言語同様、すべての社会の宗教行動はある特定の時期に発達している。まるで生来の学習プログラムが作動しはじめたかのように。
 言語と同じく、宗教行動はもっとも重要な社会的行動だ。人はひとりで話すことも祈ることもできるが、どちらもほかの人々とおこなったときにもっとも豊かな意味を持つ。ともにコミュニケーションの手段だからだ。


 これまた危うい展開の仕方だ。言語はコミュニケーションの手段ではあるが、言語獲得以前におけるコミュニケーションの可能性を否定することはできないためだ。鳥や魚の群れが一瞬にして方向転換するようなコミュニケーションのスタイルがヒトにもあったかもしれない。逆に考えれば、言語を使わなければコミュニケーションできなくなったと捉えることもできよう。「心の進化」は同時に「本能の退化」を意味する。

 きっと言語の獲得はヒトに対して進化的な優位性になったことだろう。だが人類は言葉を「争いの道具」にしていることも事実である(『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ)。そして現在に至るまで言語と宗教は人間同士を不幸な戦闘状態に置いている。

 人は個人としてではなく、社会的集団として生き延びる。そして社会性生物にとって何より重要なのは、メンバーが互いに意思疎通するためのコミュニケーション能力だ。言語が最上位にあるため、宗教やジェスチャーなど、ほかのコミュニケーション手段が正当に評価されないことが多いけれども、言語が考えを伝えるシステムであるのと同じく、宗教行動は共通の価値と感情を伝えるシステムである。このシステムを効果的にする遺伝的変異は、自然淘汰でただちに強化されただろう。自然淘汰が、個体レベルと同じように集団レベルでも起きた場合(こちらのほうが通常)には、なおさらそれが言える。集団レベルでの淘汰は、進化生物学者のあいだでも議論のあるところだが、もっとも厳しい反対論者でもその存在を否定しているわけではない。ほとんどの場合においておそらく重要ではなかった、と言うだけだ。後述するように、人類の進化には特殊な状況がある。それが通常よりはるかに強く、集団の選択に作用したと考えられる。

 ここでいう「選択」は「淘汰」と同義である。「宗教行動は共通の価値と感情を伝えるシステムである」との指摘が重要だ。私が「新しい時代の教祖になり得るのは歌手である」と考えているのも同じ理由による。

 言語と歩調を合わせて進んできた宗教が千数百年前にテキスト化という進化を遂げた(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。これを私は「宗教の歴史化」と考える(『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘)。

 人類は社会的なつながりから政治的意識が芽生え、そして歴史的存在へと至ったのだろう(『歴史とは何か』E・H・カー)。しかしながら文字はコミュニケーションを拒む(『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ)。

 クリシュナムルティは「理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます」と語った(『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ)。沈黙の静謐(せいひつ)の中に通うコミュニケーションもある。言葉の限界を超えるにはもう一段進化する必要がある。

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰
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唯脳論 (ちくま学芸文庫)
養老 孟司
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言語概念連合野と宗教体験/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
ソクラテスの言葉に対する独特の考え方/『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ

『日本株スーパーサイクル投資』宮田直彦(扶桑社、2014年)

日本株スーパーサイクル投資

「アベノミクス相場第二幕は、2016年にやってくる!」――そう断言するのは、プロも認めるテクニカルアナリストの宮田直彦氏。エリオット波動というテクニカル分析を用い、相場を見たところ、「歴史は繰り返される」「長期的に見ると、上昇の流れにある」と言う。
 日経平均は3万円へと向かっていくのが見えた――。そんな超強気相場「スーパーサイクル」に突入しつつあるのである。本誌では、過去起きた事例を歴史とともに振り返り、そして中長期の展望などを解説。さらに、宮田氏によるリアルな取引実例も紹介している。株初心者のみならず、今後の相場が気になるすべての方には必読だ。

2014-04-23

忠誠心がもたらす宗教の暗い側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド


ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 ・進化宗教学の地平を拓いた一書
 ・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
 ・宗教と言語
 ・宗教の社会的側面

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 宗教は強固で独特な社会を作り上げるので、それぞれの文化の決定的な特徴となり、西欧キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教など、偉大な文明へと発展した。
 一方、宗教には行きすぎた激しい忠誠心がもたらす暗い側面もある。内部の反抗者や、正統派の妨げになると見なされた者には残忍な行動がとられる。社会は宗教の名のもとに審問をおこない、異端や魔女と見なした人々を処刑し、異神を崇める人々を拷問にかけたり、追放したりしてきた。
 社会が外敵と戦うとき、宗教はほぼかならず重要な役割を担う。決まって戦争を正当化し、支持するために用いられてきたし、キリスト教とイスラム教、プロテスタントカトリックシーア派スンナ派などのあいだに、多くの戦争を引き起こしてきた。ただ、そんな宗教戦争も、飢えたように生贄を求めたアステカ王国ほど残忍ではない。アステカでは毎日、ときには1回の儀式で何千という人々が生贄にされ、彼らの血が太陽神への食物として捧げられていた。
 宗教とは何か。宗教は人の営為のなかでも、もっとも高潔で崇高なものを引き出しうるが、同時にもっとも残虐で卑劣なものも呼び起こす。宗教は世代から世代へと伝えられる聖なる知の集積にすぎないのだろうか。それとも、たんなる社会遺産をはるかに超えるものであり、何かを崇拝しようとする、深く根づいた本能的衝動から生まれるものなのだろうか。

【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)】

 僭越ながら私が一言で述べよう。「土地の結びつきを感情的――あるいは精神的――なつながりに深めるのが宗教である」と。裏切り者を叩く――あるいは殺す――のはイニシエーション(通過儀礼)そのものである。組への忠誠を誓う暴力団構成員を見れば一目瞭然だ。

 もう一歩深く考察すれば組織化と権威の問題が複雑に絡んでくることがわかる。権威については以下の書籍を必読のこと。

脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090316/p1">服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威/『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 自分が他人に比べてあまりものが見えず、また、あまり遠くまで見えないと納得している者は、他人によって容易に【操られる】、あるいは【導かれる】。だから、彼は可能な対抗行為を自覚的に放棄するのである。彼は他人から色々な行為を被るが、それらに反対せず、それらに抗議せず、それらを議論せず、問いを発することさえしない。彼は他人に「盲目的に」追随するのである。

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介〈いまむら・しんすけ〉訳(法政大学出版局、2010年)】

 いつの世も新しい時代の扉を開くのは一人の天才である。そして科学なき時代は宗教の時代であった。音楽や文学・芸術も宗教行為として機能したことだろう。また何らかの予知能力やヒーリング能力を発揮したと想像される。人々が天才に注目し、彼――あるいは彼女――の言葉に耳を傾けた時、そこに宗教が生まれた。新しい儀礼は新しい社会の誕生を象徴する。それは脳の回路の劇的な変化を示すものだ。このようにして人類の物語は更新され続けてきた。今、人類の物語は経済で止まっているように見える。

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権威の概念 (叢書・ウニベルシタス)
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共産主義の正体 偽善的な環境運動の根底にあるものは?

2014-04-22

宗教は恐怖に基いている/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル


偶然性
イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
残酷極まりないキリスト教
・宗教は恐怖に基いている

 宗教は本来、主として恐怖に基いているとわたしは考えます。それはある意味においては、未知のものに対する恐怖であり、またある意味では、あらゆる悩みや論争にあつて、そばから援助する兄を持つているという風に感じたい希望なのです。恐怖――神秘的なものに対する恐怖、敗北の恐怖、死の恐怖――がこのこと全体の基礎なのです。恐怖は残酷さの親です。それ故残酷さと宗教とが手に手を取つて行つたとしても不思議ではありません。なぜならば恐怖はそれら二つのものの基礎なのですから。この世のなかで、今やわれわれは、少しはものごとが解るようになり始めました。そして一歩一歩、キリスト教徒の宗教、教会、あらゆる古い教えに反対して、のしあげてきた科学の助けによつてそれらのことを、少しは支配し始めることができるようになりました。科学は人類がかくも永い間そのなかで住んできたところの気の弱い恐怖を克服するのにわれわれを助けることができます。これ以上創造的な拠り所をさがしまわることなく、これ以上、天に同盟者を造り出すことをせず、教会がこの何十世紀のあいだなしてきたような類の場所にではなくて、この世を住むに適しい場所にするため、この地上のここにおけるわれわれ自身の努力に目をむけるために、科学はわれわれを教えることができますし、われわれ自身の心も、われわれに教えることができると思います。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)

【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】

 直訳調で実に読みにくい。半世紀以上経ていることだし、そろそろ新訳が出てもいい頃合いだろう。

 未知への恐怖がわかりやすい動画があるので紹介する。パプアニューギニアのある部族が初めて白人と遭遇した際のドキュメンタリー映像である。彼らの反応から色々なことを考えさせられる。我々だって火星人と遭遇すれば大差はないことだろう。時間のない人は2番目の動画を見よ。








初めて白人と接触したパプアニューギニアの部族の反応 : カラパイア

 宗教が人々の不安に付け込んでいることは誰もが知っている。この動画を見ると無知にも付け込んでいることが理解できる。白人が文明の利器を使って「私は神だ」と宣言すれば、そこに宗教が生まれたことだろう。

 死者を葬るところから宗教は発生したと思われるが、天変地異に対する恐怖が宗教を不可欠なものとしたに違いない。一寸先は闇である。現代の教団はその暗さを利用して信者を獲得する。昔は動物や人間を生け贄としたが、今日では時間とカネに応じて安心が供給される。信じる者はすくわれる。足元を。

 女性に向かって「俺を信じろ」というのは大抵の場合、結婚詐欺を目的としている。嘘をつく時は必ず「俺の目を見ろ」と囁く。確かに信じる行為なくして我々の生活は成り立たないが、何を信じ何を信じないかは個人の自由であって他人が強要することではない。

 人は空腹を感じると食べ物を欲する。同じように不幸を感じると幸福を欲する。そして病気になると健康を欲する。食べ物は買えるが、幸福や健康は買うことができない。そこで宗教の出番となる。根拠のない希望を与えるのが彼らの仕事だ。

 希望といえば聞こえはいい。それが単なる願望や欲望であったとしても。多くの宗教が行っていることは現実に目を閉ざすことだ。目をつぶれば不幸に対して不感症になることができる。

 熱烈な信仰者は熱烈な共産党員と同じ表情をしている。マルチ商法で成功した連中はどこか教祖っぽい雰囲気を醸し出す。

 本物の宗教的感情は恐怖から離れた位置に存在する。恐怖心は必ず依存を目指す。あらゆる不確実性を受け入れ、それを楽しむことがよりよい人生を送る秘訣であろう。特定の宗教は必要ない。

宗教は必要か (1968年)