2014-08-07
プリーモ・レーヴィ著『溺れるものと救われるもの』が朝日選書で復刊
アウシュヴィッツ生還から40年、レーヴィの自死の1年前に本書は刊行された。 善と悪とに単純に二分できない「灰色の領域」、生還した者が抱える「恥辱」、人間が持つ最も恐ろしい悪魔的側面を描いた「無益な暴力」、アウシュヴィッツが風化することへの恐れを論じた「ステレオタイプ」……これらは実際に地獄を体験した者でなければ語れない。
アウシュヴィッツは、生存者のその後の人生にもつきまとった。生き残ったものたちは、生きる喜びを奪われ、いわれのない罪の意識と戦い続けた。 生還以来、その体験を証言し続けてきたレーヴィは何を思い、生きたのか? そして、地獄を生き抜いた者が、なぜ自ら死を選んだのか――?
世界中の哲学者、歴史家が、アウシュヴィッツを語るうえで欠かせないとした古典的名著が、朝日選書として待望の復刊。
・嘘、悪意、欺瞞、偽善/『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ
2014-08-05
2014-08-04
2014-08-03
すき屋の失敗の本質に関する考察
ワタミもゼンショーも、上層部が「新興宗教・やれば出来る教」にハマってしまって現場が後戻り出来ないくらいにブラック化してしまった(しかも上層部は「なんで出来ないんだ?」と本気で思っていた)のが問題の根幹であって、労働環境の是正は待ったなしなんだけどもうそれだけでは復活出来ない。
— ktgohan(斬祓中) (@ktgohan) 2014, 8月 1
新聞よりタメになる。/吉野家の「牛すき鍋膳」が成功し、すき屋の「牛すき鍋定食」が大失敗したのは何故か?すき屋の失敗の本質に関する考察 - Togetterまとめ http://t.co/UdMCBiASpG
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 8月 3
さしずめ「一人第三者委員会」。ゼンショーは@ktgohan氏にひれ伏して教えを請え。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 8月 3
2014-08-01
斎藤秀雄の厳しさ/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪
・若き斎藤秀三郎
・超一流の価値観は常識を飛び越える
・「学校へ出たら斃(たお)れるまでは決して休むな」
・戦後の焼け野原から生まれた「子供のための音楽教室」
・果断即決が斎藤秀三郎の信条
・斎藤秀雄の厳しさ
・『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』民主音楽協会編
トウサイ(※斎藤の逆さ言葉)グループといわれた黒柳守綱は、斎藤と家族ぐるみの付き合いをしていた。夫人朝はこのように語る。
「音楽でそのほかの人たちは斎藤さんの域まで行ってないわけよ。ローゼンシュトックさんも涙を流して、指揮棒を折って、僕がこんなに一生懸命になってやっているのにわかってくれないかというのは、しばしばでしたね。そして、(練習所の)ご自分の部屋に入っちゃうのね、それで斎藤さんとか黒柳とかチェロの橘(常定)さんとかが謝りに行くわけ。今だったらコンクールに受かったような人がぞろぞろいるわけだけど、そのころはプロとはいってもおそまつなものだったと思うんですよ。斎藤さんは厳しいでしょう。だから皆はその厳しさに耐えられないの。ところが、本当に音楽の好きな人は、うちの主人なんかもそうだけれど、それをありがたいと思うのよ。もうなんて言われても。
うちでカルテットの練習をやってて、黒ちゃんそこのところ違うんじゃないかな、なんていわれると、うちのパパは顔が真っ青になってこめかみがびりびりするの。彼にとっては知らないで気がつかないでいたっていうことは屈辱的だったと思うのね。それで練習が済んでから、私がパパにね、あんなふうに言われてよく癇癪起してやめたって言わないのね、っていったの、家庭ではすぐそうだったから。お膳蹴っ飛ばす、テーブル引っ繰り返すなんてわけない人だったから。そうしたらね、僕は他のことでは我慢しないけど、こと音楽についてはどんな屈辱も受けるって、それを屈辱と思わないって。自分は知らないんだからそれを教えてもらえるっていうことがありがたくて仕様がないって。斎藤さんのことは尊敬してたから」
【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)以下同】
守綱は黒柳徹子の父親である。夫人の名は「ちょう」と読む。
音楽に対して妥協を知らぬ斎藤への敬意が伝わってくる。斎藤の厳しさは児童や学生に対しても変わらなかった。
それでやっと先生のレッスンが受けられるようになったわけです。灰皿投げられたり、譜面台蹴飛ばされたりしながら……。(西内荘一:元新日本フィルハーモニー交響楽団首席チェリスト)
斎藤宅でまだ指揮のレッスンのあったころ、小澤征爾は斎藤の怒りに靴もはかずに飛び出し、そのまま裸足で家に帰った。オーケストラの雑用をひとりでかかえ、指揮の勉強もままならないころだった。翌日、母があやまりにいって、靴をとってきた。秋山(和慶)も、斎藤の怒りに腰が抜けるようになって動けなくなったことがある。
オーケストラの練習では遅刻は決して許されないことだった。全員が揃うまで、生徒は楽器を構えて待っていた。斎藤は人間が社会生活で身につけるべき基本的な礼儀や作法にも厳しい教師だった。生徒は音楽と一緒にそれを教え込まれた。
生徒たちはまず初めに斎藤のレッスンを受けるとき、必ずこう言われた。
「プロになるか、そのつもりなら教える」
女子の場合はこうである。
「お嫁にいって音楽をやめる人には教えたくない。それでもやるか」
10歳ほどの年齢の子供たちは、それを聞いて、たいへんなことになったと感じた。毎週ただレッスンを受けて弾いていればいい教師とは違う、と子供心に焼きつけられた。子供でもプロになる決意ができるかどうかが、斎藤の洗礼でもあった。
親が死んだのか、と練習を休んだ者には言った。片手を■疽(ひょうそ)で手術したと訴えても、もう一方の手は使えるといって練習を休むことは許さなかった。
この厳しさが一流の音楽家を育てたのだろう。それも一人、二人ではない。クラシック界の夜空にきらめく星のような人材群を斎藤はたった一人で輩出したのだ。詳細については動画を参照せよ。
・齋藤秀雄生誕100年記念展:民主音楽協会
・サイトウ・キネン・オーケストラ
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