・『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
・『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
・行間に揺らめく怒りの焔
・新自由主義に異を唱えた男
・『交通事故学』石田敏郎
・『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司
・必読書リスト その二
かつて、東京、大阪などの大都市で路面電車網が隅々まで行きわたっていたころ、いかに安定的な交通手段を提供していたか、想い起こしていただきたい。子どもも老人も路面電車を利用することによって自由に行動でき、街全体に一つの安定感がみなぎる。たとえ、道路が多少非効率的に使用されることになっても、また人件費などの費用が多くなったとしても、路面電車が中心となっているような都市が、文化的にも、社会的にもきわめて望ましいものであることを考え直してみる必要があるであろう。この点にかんして、西ドイツの都市の多くについて見られるように、路面電車の軌道を専用とし、自動車用のレーンとのあいだに灌木を植えて隔離し、適切な間隔を置いて歩行者用の横断歩道を設けているのは、大いに学ぶべきであろう。
【『自動車の社会的費用』宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉(岩波新書、1974年)以下同】
宇沢弘文が亡くなった。新自由主義の総本山シカゴ大学で経済学教授を務めながら、猛然とミルトン・フリードマン(『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン)に異を唱えた人物だ。
本書は教科書本である。興味があろうとなかろうと誰が読んでも勉強になる。何にも増して学問というものがどのように社会に関わることができるかを示している。宇沢は日本社会が公害に蝕まれた真っ只中で自動車問題にアプローチした。
高度成長がモータリゼーションを生んだ。だが政治は高速道路をつくることに関心が傾き、狭い道路をクルマが我が物顔で走り、人間は押しのけられていた。私が子供の時分であり、よく覚えている。
自動車を極端に減らすことは難しい。さりとて道路行政も向上しない。そして人々は移動する必要がある。そこで宇沢が示したのは路面電車であった。眼から鱗が落ちた。何と言っても小回りが効くし公害も少ない。更に事故も少ないことだろう。現在、Googleなどが自動運転のクルマを開発しているが、むしろ路面電車の方が自動運転はしやすいのではあるまいか?
そして、いたるところに横断歩道橋と称するものが設置されていて、高い、急な階段を上り下りしなければ横断できないようになっている。この横断歩道橋ほど日本の社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴したものはないであろう。自動車を効率的に通行させるということを主な目的として街路の設定がおこなわれ、歩行者が自由に安全に歩くことができるということはまったく無視されている。この長い、急な階段を老人、幼児、身体障害者がどのようにして上り下りできるのであろうか。横断歩道橋の設計者たちは老人、幼児は道を歩く必要はないという想定のもとにこのような設計をしたのであろうか。わたくしは、横断歩道橋渡るたびに、その設計者の非人間性と俗悪さとをおもい、このような人々が日本の道路も設計をし、管理をしていることをおもい、一緒の恐怖感すらもつものである。
今となっては歩道橋もあまり利用されていない。私なんかは既に10年以上渡った記憶がない。結局、経済成長を優先した結果、人が住みにくい環境になってしまった。戦後だけでも50万もの人々が交通事故で死亡している(戦後50万人を超えた交通事故死者)。この数字は原爆の死亡者(広島14万人、長崎7.4万人)に東京大空襲の死亡者(10万人超)を足した数より多いのだ。まさに「交通戦争」と呼ぶのが相応しいだろう。
宇沢の声が政治家の耳に届いたとはとても思えない。交通事故の死亡者数が1万人を割ったのも最近のことだ。しかもその数字は24時間以内のものに限られている。碩学(せきがく)は逝った。だがその信念の叫びは心ある学徒の胸を震わせ、長い余韻を響かせることだろう。