2014-10-04

山野井泰史、菅沼光弘


 2冊読了。

 71冊目『垂直の記憶』山野井泰史〈やまのい・やすし〉(山と溪谷社、2004年/ヤマケイ文庫、2010年)/沢木耕太郎の『』を読めば本書に進まざるを得ない。自由に生きる人は少なからずいる。山野井はそれに加えてきれいな生き方をしている。夫妻ともにコマーシャリズムやプロパガンダとは無縁だ。決して我慢しているわけではなく本人は「物欲がない」と言う。凍傷で大半の指を失っても山への情熱は衰えることがない。妻の妙子は元々指先を殆ど失っていたが、あのギャチュン・カンで第一関節から切断する羽目となる。それでも畑仕事をし、リハビリを重ねて料理全般を行う。幸せのあり方を深く考えさせられる。山野井が登攀するのは素人からすれば崖である。一歩誤れば死に直結する。多くの仲間が山で死んでいった。だからこそ、そこで生は輝きを放つ。クライマーは現代の僧侶であると私は考える。もちろん丸山直樹の『ソロ 単独登攀者 山野井泰史』も読む予定だ。

 72冊目『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘(徳間書店、2012年)/ぶったまげた。ここまで書いて大丈夫なのか? びっくりするようなことが次々と出てくる。孫崎享の『戦後史の正体』を読んだ人は必読のこと。TPPについてこれほどわかりやすい解説もない。「スパイの見識」に驚嘆した。

2014-10-03

Anna-Wili Highfield のペーパースカルプチャー(紙の彫刻)








視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
視覚と脳
騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル
視覚的錯誤は見直すことでは解消されない

2014-10-02

土俗性と普遍性/『涙の理由』重松清、茂木健一郎


【茂木】普遍性が、ある種の土俗性を切り捨てたところに成り立っている。そこに、忸怩(じくじ)たるものを感じるのかもしれない。

【『涙の理由』重松清、茂木健一郎(宝島社、2009年/宝島SUGOI文庫、2014年)】

 茂木健一郎が精力的に対談本を出し、佐藤優がそれに続いたような印象がある。「どれどれ」と思いながら開いたところ、そのまま読み終えてしまった。初対面の中年男二人がちょっとぎこちない挨拶を交わし、茂木がリードしながら会話が進む。この二人、実は少年時代から抱えている影の部分が似ている。

 茂木の指摘は小説に対するものだが、そのまま宗教にも当てはまる。民俗信仰(民俗宗教)が世界宗教に飛躍する時、儀式性よりも理論が優先される。ここで民俗的文化が切り捨てられる。それを個性と言い換えてもよかろう。つまり味を薄めることで人々が受け入れやすい素地ができるのだろう。これが妥協かといえば、そう簡単な話でもない。

 唐突ではあるが結論を述べよう。私はインディアンのスピリチュアリズムは好きなのだが、ニューエイジのスピリチュアリズムは否定する。両者の違いは奈辺にあるのだろうか? それが土俗性であり、もっと踏み込めばアニミズムということになろう。

 一神教や大衆部(大乗仏教)は神仏を設定することで土俗性を破壊する。そして必ず政治的支配(権力)と結びつく。日本が仏教を輸入したのも国家戦略に基づくものであった。

 そう考えるとよくわかるのだが、ブッダやクリシュナムルティの教えは最小公約数的な原理を示しているだけで、特定の神仏への帰依を強要するものではない。手垢まみれになった宗教という言葉よりも、根本の道というイメージに近い。

ジェノサイドの恐ろしさ/『望郷と海』石原吉郎


 ・目次
 ・ジェノサイドの恐ろしさ

『海を流れる河』石原吉郎
『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 確認されない死のなかで
   ――強制収容所における一人の死

百万人の死は悲劇だが
百万人の死は統計だ。
アイヒマン

 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、【ひとりひとりの死】がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害において自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。

【『望郷と海』石原吉郎:岡真理解説(筑摩書房、1972年/ちくま学芸文庫、1997年/みすず書房、2012年)】

『望郷と海』が復刊された。みすず書房は最初から売れないものと決め込んだのだろう。3240円は高い。重複した内容が多いので『石原吉郎詩文集』の方がオススメできる。

 本書を「日本版 夜と霧」と評する向きもあるようだが的外れだ。石原吉郎は日本版プリーモ・レーヴィであり、本書は「日本版 アウシュヴィッツは終わらない」というべきだろう(『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ)。石原は長く生きたが、その末期(まつご)まで酷似している。

 強制収容所は労働を強制する場所だ。働けなくなればその場で殺されることも珍しくはない。石原自身何度も目の当たりにしてきた。彼らは単なる労働力であって人間と見なされることがない。石炭や石油と同じくエネルギーに例えることも可能だろう。

 石原が抱いた恐怖は存在に関わるものだ。まずシベリア抑留という国家から見捨てられた立場があり、次にいつ殺されるかわからない情況がある。つまり彼らは二重に否定された存在なのだ。

 人は尊厳を奪われるとただの動物と化す。石原は帰国後、失語症となり実際に言葉まで失った。

 血で書かれた言葉は石に彫(ほ)られた文字のように重い。その目方に耐えることのできる下半身の力が読み手に求められる。そんな本だ。

望郷と海 (始まりの本)
石原 吉郎
みすず書房
売り上げランキング: 182,218

2014-10-01

宮城谷昌光


 1冊読了。

 70冊目『三国志読本』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(文藝春秋、2014年)/ソフトカバーで1620円という値段を見れば、販促本と思われても仕方がないだろう。ところがどっこいそれで終わっていない。構成の勝利だ。11人との対談と語り下ろしが収められている。本当は白川静との対談だけ読むつもりであった。全員の名前を挙げると、水上勉、井上ひさし、宮部みゆき、吉川晃司、江夏豊、五木寛之、平岩外四、藤原正彦、秋山駿、マイケル・レドモンド。最後の3人が本当に面白かった。『月刊 文藝春秋』で10年の長きにわたって続いた連載が完結。三国志読本であると同時に秀逸な宮城谷昌光入門となっている。宮城谷は対談も上手くて驚いた。