・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・ブッダの教えを学ぶ
本書で取り上げる『ノコギリのたとえ』というお経は『鋸喩経』とも訳される中部経典のお経ですが、読んでみるとその豊かな物語性とともに、私たちの心に直接訴えかけてくる迫力に驚かされます。
【『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ、日本テーラワーダ仏教協会出版広報部編(日本テーラワーダ仏教協会、2004年)以下同】
で、長部と中部の違いについては以下の通り。
長部経典は、哲学的なものもありますが、ほとんどは仏教の一般的な教えです。それに対して中部経典は、哲学的なところを、きめ細かく、項目を厳密に、論理的に話しているお経が集めてあります。
最初に巻末の経典テキストを読むのがいいだろう。
「比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるノコギリで手足を切断しようとします。その時でさえも、心を汚す者であるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだ――と。また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見出だせますか」
「尊師、見出せません」
「比丘たちよ、それ故に、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出しなさい。それは、長きにわたり、あなたたちの利益のため、安楽のためになるでしょう」と。
ノコギリの歴史は古く紀元前1500年前からあった(エジプト)という。ブッダが喩(たと)えたのは暴力的な極限状況だ。どのような目に遭っても慈しみを持ち、怒りを捨て、恨みから離れなければならない。
「怒りの毒」はかくも恐ろしいのだ。「たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない」との一言は単なる教訓ではない。「絶対に怒らない」という覚悟が問われるのだ。
弟子の中には私のようにブッダの言葉を軽く考える者もいたに違いない。「なるべく怒らないようにしよう」「少しずつ怒りを克服しよう」などと。だがこの経典を読むと意識が一変する。一瞬でも怒りに汚染されてしまえば自らが不幸になるのだ。
感情は関係性から生まれる。「私を怒らせたあんたが悪い」というのが我々の言い分だ。つまり「私は悪くない」。私は正しい。だから私は恨みを抱いて仕返しをする。私は罵る。私は殴る。そして私はノコギリであんたの手足を切断する。
生きることは苦である(四諦の苦諦、四法印の一切皆苦)。苦の原語(パーリ語)「dukkha」(ドゥッカ)には空しいという意味もある。脳は意味(≒物語)を求める。所詮、何をどうしたところで無意味であることを思えば、人生はやはり苦であろう。苦と苦との束(つか)の間に楽を求めてさまよう人生に過ぎない。
輪廻(りんね)の本質も苦である。ブッダは菩提樹の下で悟った後にそれを十二支縁起(十二因縁)として確認した。要するに輪廻して苦しみ続ける主体(自我)のメカニズムが解き明かされたのだ。
ま、あまり勉強していないのでここからは適当に書いておく。まず「無明(むみょう)に縁りて行(ぎょう)が起こる」。行の原語はサンカーラ(パーリ語)・サンスカーラ(サンスクリット語)である。行は行為・業(ごう)のこと。無明は「迷い」とされるが、私はむしろ「錯誤」と考える。すなわち我々は世界をありのままに正しく認識することができない。これが無明である。十二支縁起は苦という反応を瞬間に即して解いたものだろう。行は志向性や潜在的形成力などという小難しい言葉で説明されるが、「反応の発動・起動」である。無明を無意識、行を意識としてもいいように思う。意識した瞬間にカルマ(業)が定まるのだ。
簡単に述べよう。無明によって怒り(感情)が湧く。無明を滅すれば怒りは湧かない。無明を滅し涅槃に達した人はノコギリで手足を切られても怒らない。だからノコギリで手足を切られても怒らないほどの自分自身を築け。きっとそういことなのだろう。怒りという猛毒の恐ろしさが伝わってくるではないか。
日蓮の遺文(いぶん)に似た文章がある。
縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切りどうをばひしほこを以てつつき足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦多宝十方の諸仏霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し諸天善神は天蓋を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしやあらうれしや。(日蓮『如説修行抄』:真蹟はないが日尊による写本がある)
手紙の末尾には「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と添えてある。より一層の残虐性が加えられ、しかも南無妙法蓮華経という題目を唱えよという信仰の次元に内容が変質している。換骨奪胎というよりは改竄というべきか。日蓮は「当(まさ)に知るべし瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」真蹟曽存)と怒りを容認していた。政治にコミットしたのも日蓮の怒りの為せる業(わざ)であった。日蓮系教団が分裂に分裂を繰り返してきたのも頷ける話である。
ノコギリの喩えを思えば、それ以外のことはいくらでも我慢のしようがある。小さないざこざから小さな怒りが生まれ、社会の中で怒りは支流となり、やがて大きな流れを形成する。原発反対デモもナショナリズムも同じ顔をしているのは怒りが原動力となっているためだ。私は生来、物凄く短気なのだが、今日からは頭に来ることがあったら「ノコギリ! ノコギリ! ノコギリ!」と心の中で三度唱えようと思う。
怒りの無条件降伏―中部教典『ノコギリのたとえ』を読む (「パーリ仏典を読む」シリーズ)
posted with amazlet at 18.06.08
アルボムッレスマナサーラ
日本テーラワーダ仏教協会
売り上げランキング: 135,049
日本テーラワーダ仏教協会
売り上げランキング: 135,049
・鋸の復原を通して古代人と対話/『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一