2017-01-02

機械の字義/『青雲はるかに』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光

 ・友の情け
 ・機械の字義

『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「ちかごろは田圃(でんぽ)にも機械とよばれるものがはいってきております。ひとつを押すとほかが動くというしかけでして……」
「機械か……。機はともかく、械は罪人をしばる桎梏(かせ)のことだ。人はおのれを助けるためにつくりだしたからくりによって、おのれをしばることになるということか。械とはよくつけた名だ。わしもその械にしばられるひとりか」
 范雎〈はんしょ〉は鼻で哂(わら)った。

【『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(集英社、1997年/集英社文庫、2000年/新潮文庫、2007年)以下同】

 宮城谷作品を支えているのは白川漢字学である。支那古典というジャングルの中で宮城谷は迷う。自分の居場所もわからなくなった時、白川静の漢字学が進むべき方向を示してくれた。白川の著作を読むと「たったの一語、たったの一行で小説が1000枚書ける」と宮城谷は語る(『三国志読本』文藝春秋、2014年)。

 白川静が明らかにしたのは漢字の呪能(じゅのう)であった(『漢字 生い立ちとその背景』白川静)。神との交流から始まった漢字に込められた宗教的次元を解明したのだ。漢字が表すのは儀礼と祈りだ。

 機械は作業や労働を楽にする。人類の特徴の一つに「道具の使用」がある。厳密に言えばサルも道具を使うため、正確には「道具を加工し利用する」。道具・機械の歴史は小型の斧(おの)からスーパーコンピュータにまで至るわけだがこの間(かん)、人類が進化した形跡は見られない。械が「罪人をしばる桎梏(かせ)」であれば退化した可能性を考慮する必要があるだろう。

 計算機(電卓)やコンピュータは脳の働きを補完する。私は日に数十回はインターネットを検索しているが、脳の検索機能が低下しているように感じてならない。デジカメや録音機器なども記憶の低下を助長していることだろう。

 レイ・カーツワイルは2045年に人工知能がヒトを凌駕すると指摘している(『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル)。その時、械の意味は「コンピュータの進化を阻むヒト」に変わっているかもしれない。

青雲はるかに〈上〉 (新潮文庫)青雲はるかに 下巻三国志読本

友の情け/『青雲はるかに』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光

 ・友の情け
 ・機械の字義

『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「いずれにせよ、わしのように門地も財産もない男が、国政にかかわる地位に昇ってゆける門戸をひらけるのは、乱のあとしかない」
 と、范雎〈はんしょ〉は断言した。
「それは、わかる」
 鄭安平〈ていあんぺい〉はそういったものの、うなずかなかった。かれは、だが、といって首をかしげ、
「乱により入(い)らば、すなわちかならず乱を喜び、乱を喜ばばかならず徳を怠(おこた)る、ということばがある。なんじの将来のためには、乱れた国へはいるのは、賛同できぬ」
 と、はっきりいった。
 范雎〈はんしょ〉は鄭安平〈ていあんぺい〉をみつめた。范雎の目に複雑な色がでた。大梁にきて、このような愛情のある忠告をきいたのは、はじめてである。

【『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(集英社、1997年/集英社文庫、2000年/新潮文庫、2007年)以下同】

 タイトルに陳腐の翳(かげ)がある。復讐譚(ふくしゅうたん)に愛する女性を絡めるといったエンタテイメント性をどう評価するかで好みが分かれることだろう。

 范雎〈はんしょ〉は中国戦国時代(紀元前403-221年)に生まれ、平民から宰相(さいしょう)にまで上(のぼ)り詰めた人物である。

 激しく揺れる時代は思春期と似ている。幼さを脱却して大人へと向かう時、自我は伸縮し反抗的な態度が現れる。歴史もまた同じ道を歩むのだろう。

 自分が形成されるのは13歳から23歳までの10年間と言い切ってよい。この時期における友情は眩(まばゆ)い光となって自分の輪郭をくっきりとした影にする。人格は縦(たて)の関係で鍛えられるが、豊かな情操を養うのは横のつながりである。

 上昇志向の強い范雎〈はんしょ〉は鄭安平〈ていあんぺい〉という友を得て圭角が取れてゆく。

 数日後、鄭安平〈ていあんぺい〉は「餞別(せんべつ)だ」と言って、有り金を范雎〈はんしょ〉に手渡す。

 ところが范雎〈はんしょ〉は志半ばにして帰ってきた。

「すまぬ」
 と、いった。鄭安平〈ていあんぺい〉のような男には、みえもきどりもいらないであろう。心を裸にして詫びるしかない。
「なにをいうか。わしはむしろ安心したのよ」
「そうか……」
 と、范雎〈はんしょ〉はいったが、鄭安平の意中をつかみかねた。
「そうよ。わしの心配は、もしやなんじが小さな成功を獲得して帰ってきたら、どうしよう、ということであった。大きな成功を得るには長い年月がいる。わしもなんじも、一代での偉業を夢みている。父の遺徳がない者は、父のぶんまで徳を積まねばならぬ。早い成功は、みずから限界をつくる。そうではないか」
 抱懐しているものを、いきなりひろげたようないいかたであった。
 ――こういう男か。
 范雎は心に衝撃をうけた。
 鄭安平をみそこなっていたつもりはないが、この男の胸のなかにひろびろと走っている大道がみえなかったおのれを愧(は)じた。なるほど天下で偉業をなす者は、若いうちから頭角をあらわしていない。暗い無名の青春をすごしている。管仲〈かんちゅう〉がそうであり、呉起〈ごき〉や商鞅〈しょうおう〉もそうである。なぜそうなのか。つきつめて考えたこともなかったが、鄭安平のいう通りかもしれない、と范雎はおもった。

 学友の中にあって大言壮語を放つ范雎〈はんしょ〉を見て、「あの男のちかくにいれば、おもしろい世がみられるか」と鄭安平〈ていあんぺい〉は思った。そんな小さな心の振幅から生涯にわたる友情が生まれた。鄭安平は後に将軍となる。

青雲はるかに〈上〉 (新潮文庫)青雲はるかに 下巻

2017-01-01

過去を一掃する/『本を書く』アニー・ディラード


『石に話すことを教える』アニー・ディラード

 ・過去を一掃する

 あなたの手の内で、そしてきらめきの中で、書きものはあなたの考えを表現するものから認識論的なものに変わっていく。新しい領域にあなたは興奮する。そこは不透明だ。あなたは耳を澄ませ、注意を集中させる。あなたは謙虚に、あらゆる方向に気を配りながら言葉を一つ一つ注意深く書いていく。それまでに書いたものが脆弱で、いい加減なものに見えてくる。過程(プロセス)に意味はない。跡を消すがいい。道そのものは作品ではない。あなたがたどってきた道には早や草が生え、鳥たちがくずを食べてしまっていればいいのだが。全部捨てればいい、振り返ってはいけない。

【『本を書く』アニー・ディラード:柳沢由実子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(パピルス、1996年)】

 年が明けた。数えであれば今日、私は54歳となる。満年齢の使用は1950年(昭和25年)以降である。存在している者に対して「0歳児」とはいかにもおかしな呼称で、数え年の方が人に優しい気がする。

 同じ文章であっても「書く」ことと「打つ」ことは違う。「書く」ことには豊かな身体性がある。「打つ」という単調な運動は文章を神経症的な性質に貶(おとし)める危険が伴う。作家がワープロを使うようになってからワンセンテンスが長くなったという指摘がある。単調が冗長を促すのだろう。

 齢(よわい)を重ね、過去が長くなると慣性や惰性の力が働く。ところが知らず知らずのうちに体も心も衰えている。今までやってきたことを踏襲しているつもりでありながらも、実はどんどん閉鎖的な姿勢や態度となりがちだ。疑わなければ新しいものは出てこない。

 過去を重んじるな。足跡を残すのは泥棒に任せよ。捨てれば捨てるほど身は軽くなる。本当に大切なものは捨てようとしても捨てることができない。

 変わらぬ世界にあって変えることができるのは認識である。世界は変わらなくとも世界観を変えることは可能だ。そのためには過去を一掃する必要がある。プライドも誇りも不要だ。ただ柔らかな精神とありのままを見つめる瞳を持てば十分だ。

本を書く

2016-12-28

アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ


 1冊読了。

 175冊目『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ:茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)/再読。訳者の名前を明記していないのはPHP研究所の片手落ちだ。茂木の名前で商売をしようとの魂胆が見え見え。神経科学から悟りにアプローチした労作で後に花開く認知科学に与えた影響は大きい。再読して気づいたのは量子論的視点を欠いていることと、受動的なアプローチ(絶対的一者)と能動的アプローチ(神秘的合一)の論述に混乱が見られる。尚、前者は仏教で後者は人格神宗教を示す。巧緻な文章と研究に関する自負が強い割には視点の飛躍がない。「すべてのスピリチュアル体験は、瞬間的に大発生した電気化学的な刺激が脳の神経経路を駆けめぐる現象に還元できてしまう」という地点にとどまっている。いずれにせよ本書が突きつけたテーマに関して全ての宗教が応答を求められている。既に書評済みである。

2016-12-27

菅沼光弘、黒沢隆朝


 1冊挫折、1冊読了。

台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝〈くろさわ・たかとも〉(雄山閣、1973年)/戦前の現地調査に基づいた学術書である。写真も豊富で尚且つ楽譜や歌詞に至るまでが網羅されており、A5判で500ページ強の大冊である。Difang(ディファン/郭英男)の歌に衝撃を受け、映画『セデック・バレ』に魂を掴まれ、とうとう本書にまで辿り着いた。前半が合唱、後半が楽器となっているが前半だけ飛ばし読み。思いも寄らぬイレギュラーボールがあり鎌倉仏教の謎が一つ解けた。近代における学問の姿勢が険しい山の頂上を目指す姿を思わせる。それに比べると現代の学問は賢(さか)しらな情報や技術論に終始しているのではないか。本書は音楽の始原にまで迫る重要な研究で音楽史に一石を投じる内容となっている。

 174冊目『この国を脅かす権力の正体』菅沼光弘(徳間書店、2013年)/一冊読み落としていた。これで菅沼本は全て読破。序盤がまったりしていて挫けそうになったが中盤から俄然盛り上がる。例の如く日本を取り巻く米中韓の綱引きをインテリジェンスで読み解く。拉致被害者に関して驚くべき記述あり。金融に関する指摘は瞠目に値する。その辺の経済学者よりもはるかに鋭い。菅沼や佐々淳行が生きている内に情報機関を作らないと大変な損失となる。