・『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
・『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・ユーザーイリュージョンとは
・エントロピーを解明したボルツマン
・ポーカーにおける確率とエントロピー
・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
・対話とはイマジネーションの共有
・論理ではなく無意識が行動を支えている
・外情報
・論理の限界
・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
・神経系は閉回路
・『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
・『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
・意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
・『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
・必読書 その五
言い換えればこうなる。私たちに物が見えるのは、そもそも網膜からのメッセージ(これからしてすでに、たんに網膜が感知した光以上のもの)を受け取ったからではない。外界からのデータを内的活動と内部モデルに結びつけるための、広範囲にわたる内的処理の結果だ。しかし、こう要約すると、二人の主張が正しく伝わらない。実際には、マトゥラーナとヴァレーラは、外界から何かが入ってくることをいっさい認めていない。全体が閉回路だと二人は言う。神経系は環境から情報を収集しない。神経系は自己調節機能の持つ一つの完結したまとまりであって、そこには内側も外側もなく、ただ生存を確実にするために、印象と表出――つまり感覚と行動――との間の整合性の保持が図られているだけ、というわけだ。これはかなり過激な認識論だ。おまけに二人は、この見解自体を閉鎖系と位置づけている。とくにマトゥラーナは、認識論に見られる数千年の思想の系譜と自説の関連について議論するのを、断固拒絶することでよく知られている。完璧な理論に行き着いたのだがから、問答は無用という理屈だ。
【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)】
ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラはオートポイエーシス理論(1973年)の提唱者である。
「神経系は閉回路」であるとの指摘は、「世界は五感の中に存在する」という私の持論と親和性がある。閉回路と言い切ってしまうところが凄い。例えるなら池が私であり池に映った映像が世界である。映像は池そのものに接触も干渉もしない。つまり閉回路である。と言ってしまうほど簡単なものではない。
私の乏しい知識と浅い理解で説明を試みるならば、まず宇宙が膨張しているのか静止しているのかという問題があって、そこからエントロピーに進み、どうして生物はエントロピーに逆らっているのかという疑問が生まれ、散逸系というアイディアが示され、自己組織化に決着がつくと思われたまさにその時、オートポイエーシス論が卓袱台(ちゃぶだい)を引っくり返したわけである。
個人的には科学が唯識に追いついた瞬間を見た思いがする。人生は一人称である。縁起という関係性はあっても因果は自分持ちだ。
「私」は閉鎖系である。コミュニケーションというのは多分錯覚で実際は「自分の反応が豊かになる」ことを意味しているのだろう。人が人を理解することはない。ただ同調する生命の波長があるのだろう。ハーモニーは一つであっても歌う人がそれぞれ存在する状態を思えばわかりやすいだろう。違和感を覚えるのは音程やスピードが合わないためだ。
私があなたの手を握ったとする。物理学的に見れば手と手は触れ合ってはいない。これは殴ったとしても同様である。必ず隙間がある。もしも隙間がなかったら私とあなたの手は合体するはずである。厳密に言えば「握られた圧力を脳が感じている」だけなのだ。つまり私とあなたが一つになることはない。
これからヒトが群れとして進化するならば必ず「識の変容」があるはずだ。その時言葉を超えたコミュニケーションが可能となる。