2020-01-25

レファレンス「動物の群れに関する本」


「動物の群れに関する本」を探している。ただし次のものは除く。『群れのルール 群衆の叡智を賢く活用する方法』ピーター・ミラー、『群れはなぜ同じ方向を目指すのか?』レン・フィッシャー、『群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序』郡司ぺギオー幸夫。また心理学の集団力学(グループダイナミクス)ではなく、進化における群れの優位性を示す内容のもの。

 因みに地元図書館で教えられたのは『動物集団の遺伝学』野沢謙(名古屋大学出版会、1994年)のみ。

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Jean Moral


2020-01-22

世俗化とは現実への適応/『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世


『科学と宗教との闘争』ホワイト
『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ
『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
『世界史とヨーロッパ』岡崎勝世
・『4日間集中講座 世界史を動かした思想家たちの格闘 ソクラテスからニーチェまで』茂木誠

 ・世俗化とは現実への適応
 ・ガッテラー『世界史』(1785)~普遍史から世界史へ

キリスト教を知るための書籍
世界史の教科書

 ヨーロッパの18世紀は、「啓蒙主義の世紀」とも言われる。啓蒙主義は名誉革命後イギリスのジョン・ロック、ヒューム等に始まり、とりわけ18世紀半ばのモンテスキュー『法の精神』(1748)、ビュフォン『博物誌(自然誌)』(1749刊行開始)、ヴォルテール『ルイ14世の世紀』(1751)、『百科全書』(1751刊行開始)、ルソー『人間不平等起源論』(1755)等々以後は、ヨーロッパ思想界を支配したからである。
 この「啓蒙主義」について筆者は、その中心的役割を「聖書において啓示され、教会によって保証され、神学において合理化され、説教壇から説かれてきた、人間と社会と自然を理解するための聖書にもとづく来世志向の枠組みときっぱり手を切ること」(見市雅俊訳『啓蒙主義』岩波書店、2004、104)に置くポーターの理論が、最も適切と考えている。「きっぱり」の度合いには、実際には国情や個人の状況によるグラデーションがある。しかし、例えば、「聖俗革命」を通じて、この時代に思考の枠組みが「神-自然-人間」から「自然-人間」へと転換した。啓蒙主義の特徴を「世俗化」に置くこともしばしば行われる。それは、「千年王国論」のように人間と社会と自然を「聖書にもとづく来世志向の枠組み」によって理解するのではなく、これら各々の領域の独自性を認め、その領域自体が持つ論理を追求し、その領域に見合う独自の言葉を通じて表現するようになったことを意味している。またアメリカの科学史家ハーバーがこの時代に「時間革命」の始点を置いているのは、そこで自然研究が「聖書の啓示」から独立し、しかも聖書的時間の支配が破られ、長大な「時間」のなかで自然の歴史が語られ始めたからであった。

【『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世〈おかざき・かつよ〉(講談社現代新書、2013年)】

 世俗化という概念を知ったのは伊藤雅之を読んでからのこと。白いハンカチが少しずつ薄汚れて、しまいには雑巾となるようなイメージで捉えていた。聖俗に清濁を重ねてしまっていたのだ。実は違った。世俗化とは現実への適応なのだ。それは宗教側からすれば妥協を伴う苦い変化なのだが、一人ひとりの価値観を尊重する姿勢でもある。組織論でいえば軍隊こそ理想形であるが社会としては平等性(民主)に軍配が上がる。

 大雑把な西洋史の流れとしてはルネサンス(14-16世紀)~宗教改革(16世紀)~科学革命(17世紀)~啓蒙思想(18世紀)~フランス革命(18世紀)~産業革命(18世紀)と変遷する。魔女狩りをしながらも100年単位で長足の進歩を遂げてきたところにヨーロッパの凄みがある。

 啓蒙とは「蒙(もう)を啓(ひら)く」と読む。啓蒙主義(啓蒙思想)の「蒙(くら)さ」とは聖書絶対主義を意味する。すなわち科学革命を通してバイブルの絶対性に亀裂を入れた精神性であった。天体と地層の観測が聖書の記述とそぐわず、散々こねてきた屁理屈も通らなくなった。古文書は現実の前に敗れた。教会は知的な探究にブレーキをかけることができず妥協の道を選んだ。革命とは権威の失墜によって知性が花開く時代である。

「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記冒頭、本書より)。フム。現代の常識からすれば「その前に空間があるだろうよ」と批判することはたやすい。これは我々がビッグバン理論を知っているためだ。知は力であり視点を押し上げる。ところがキリスト教と遭遇した日本は神の思想に恐れをなすこともなく実際的な批判をし得た。私の疑問はそれほどの知性を持ちながらも、なにゆえリベラル・アーツや科学革命が起こらなかったのかという一点に尽きる。実用志向が神という視点の高さに追いつけなかったのだろうか?

 普遍史をプロテスタントの立場からニュートン的方法で書き換えたウィリアウム・ウィストン(1667-1752年)は天地創造から1696年までを5705年と計算していた。当時のヨーロッパはシナ文明の古さに苦慮したのが偲(しの)ばれよう。中世の人々にとって終末は遠い未来のことではなく間もなく訪れる瞬間であった。

 ニュートン物理学が普遍史を揺さぶり、18世紀末に登場した考古学が木っ端微塵にした。ニュートンは人類史の中で突出した天才であったが神から自由になることはなかった(ユニテリアン主義だった)。ところが科学の方はニュートン以降、呆気(あっけ)なく神を追い越してしまった。

 科学は普遍史の時間観を変えたわけだが、それでもやはり宗教と科学に共通する最大のテーマは時間である。なぜなら人間は時間的存在であるからだ。