・悪しき「私化」の進行
・社会学者が『妖怪人間ベム』を鮮やかに読み解く
・国民的物語「忠臣蔵」に代表される「意地の系譜」と「集団主義」
文化は世代間で継承される。つまり、世代を超えて継承される普遍性があるわけだ。思い切り簡単に言ってしまえば、「老若男女みんなの好きな物語」となる。
「好き」とは「逆らえない状態」である。なぜか心が惹かれる、魅了される、虜(とりこ)になる――何らかの不満・鬱積・抑圧がカタルシスを求めて、かような内面的状況に至るのだろうと私は想像している。
熊田一雄は、継承される文化としての「忠臣蔵」に注目する――
それでは、近代日本における覇権的男性性はいかなる種類のものだろうか。関東学院大学の細谷実の研究をヒントに私なりに考えてみた。それは時代に応じて微修正を繰り返しながらも、基本的には「忠臣蔵」という国民的物語(四十七士的男性連帯)に代表される「意地の系譜」と「集団主義」にかたちづくられているといえないだろうか(そしていまでも依然としてある程度まではかたちづくられている)。 ここで言う忠臣蔵幻想とは、1702(元禄15)年に起こった史実としての赤穂浪士討ち入り事件のことではなく、事件を題材に日本人が300年間にわたって、時代によって微修正を繰り返しながら延々と紡ぎ続けてきた「国民の物語群」総体のことを指す。討ち入り事件発生直後から、江戸の庶民の世論は四十七士をスーパースターとみなした。庶民はこの事件を幕藩体制に対する「叛乱」の物語としてとらえ、世論に配慮した幕府は事件を「忠義」の物語という解釈を与え、両者は吉良上野介をスケープゴートとすることで一致し、この時点で四十七士は当時の日本社会の全階級から「男のなかの男たち」と称賛されることになった。
【『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄〈くまた・かずお〉(風媒社、2005年)以下同】
「覇権的男性性」とは、オーストラリア人の社会学者ボブ・コンネル(※性転換後、レイウィン・コンネルに改名)が提唱した概念で、「覇権的(hegemonic)/従属的(subordinated)/周縁的(marginarized)」という類型のこと。ジャイアン、スネ夫、のび太が見事に当てはまっている。固定されたヒエラルキー――あるいはステレオタイプによる人間関係――を掻き回すトリックスターがドラえもんなのだろう。
「史実としての赤穂浪士討ち入り」と「国民の物語群としての忠臣蔵」という二重性は、「ナチ・ホロコースト」と「ザ・ホロコースト」(ノーマン・G・フィンケルスタイン著『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』三交社、2004年)と響き合う。事実から創出された物語という点において。
私は少なからずドラマを何度か見ており、大佛次郎〈おさらぎ・じろう〉の『赤穂浪士』も読んでいるが、まったく感情移入することができなかった。道産子特有の淡白さのゆえかと思ったがそうではない。私の目には、浅野内匠頭が短気な男として映った。であるからしてこの物語は、激情に駆られて刃傷沙汰を起こした主君のために、四十七士が犠牲になったというアウトラインとなり、主従関係という封建時代の矛盾を示した物語にしか見えないのだ。
しかし、私が何をどう主張しようとも、年末になれば「忠臣蔵」がテレビで放映されることだろう。こうした文化そのものに、私は日本人特有の「短慮」を感じてしまう。
熊田一雄は、「忠臣蔵」という物語に込められたテーマを、「プロジェクトX」に結びつける――
「意地の系譜」と「集団主義」の持続力を見せつけているのが、NHKのテレビ番組「プロジェクトX」(放映は2000年から)の国民的人気である。この番組では、「挑戦者たち」に女性が参加していても、ナレーションは必ずといっていいほど「その時、ひとりの男が立ち上がった」で始まり、男性の私生活(家事・育児・介護)は基本的には切り捨てられている。もちろん、「集団主義」がある程度は後退し、「男女共同参画社会」と少なくとも表面ではうたわれる時代に対応して、時々アリバイ工作程度には男性の私生活に触れることはけっして忘れられていないのだが。そして、「男の意地」を貫き通して、「挫折から最後には再生した」男たちの「男泣き」で締めくくられ、集団主義の男性の連帯が称揚され、中島みゆきの曲『地上の星』が、男たちを力づける「妹の力」(伝統的民俗信仰において兄弟を支える姉妹の霊力)として利用されている。
こいつあ、お見事。ジェンダー論の切れ味を鮮やかに示している。思想や価値観は、語り手次第でいかようにでも面白くなるという証拠だ。
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