・目次
・エリ・ヴィーゼルはホロコースト産業の通訳者
・誇張された歴史を生還者が嘲笑
・1960年以前はホロコーストに関する文献すらなかった
・戦後、米ユダヤ人はドイツの再軍備を支持
・米ユダヤ人組織はなりふり構わず反共姿勢を鮮明にした
・第三次中東戦争がナチ・ホロコーストをザ・ホロコーストに変えた
・1960年代、ユダヤ人エリートはアイヒマンの拉致を批判
・六月戦争以降、米国内でイスラエル関連のコラムが激増する
・「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘
・ホロコーストは「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観」
・ザ・ホロコーストの神聖化
・ホロコーストを神聖化するエリ・ヴィーゼル
・ホロコースト文学のインチキ
・ビンヤミン・ヴィルコミルスキーはユダヤ人ですらなかった
・『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
・『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』武田知弘
著者のノーマン・G・フィンケルスタインは、ホロコースト産業によって後々捏造(ねつぞう)された歴史を「ザ・ホロコースト」と呼び、実際に起こった歴史的事実を「ナチ・ホロコースト」と表現し、厳密に区別している。
第二次世界大戦の余韻が残っていた時期、ナチ・ホロコーストはユダヤ人だけの事件とは考えられていなかったし、ましてや歴史に唯一無二の事件という役割をあたえられてなどいなかった。組織的アメリカ・ユダヤはむしろこれを普遍的な文脈に位置づけることに腐心していた。ところが六月戦争後、ナチの最終的解決の枠組みに過激な変化が起こった。ジェイコブ・ネウスナーは当時を振り返り、「1967年戦争以後に登場し、アメリカのユダヤ思想を象徴するものとなった主張がいくつかあるうちで、最初の、そしてもっとも重要なもの」は、「ホロコーストは……人類史上に比べるもののない唯一無二のもの」という主張だった、と述べている。また歴史家デイヴィッド・スタナードはその啓発的な論文で、「ホロコースト聖人伝作家の小規模産業が、神学的熱狂の精力と創意を総動員して、ユダヤ人の経験は唯一無二のものだと言い張っていた」と嘲笑している。要するに、唯一無二のものという教義は意味をなさないのである。
根本的に言えば、あらゆる歴史的事件はどれも唯一無二であって、少なくとも時間と場所はすべて違っている。またすべての歴史的事件には、他の事件とは違う固有の特徴もあれば共通する点もある。ザ・ホロコーストの異様さは、その唯一性を無条件で決定的なものとしていることだ。無条件の唯一性を持った歴史的事件などあるだろうか。概してザ・ホロコーストについては、この事件を他のできごととまったく違う範疇に位置づけるために、固有の特徴ばかりが取り上げられている。しかし、他の事件と共通する多くの特徴が些末なものと認識されなければならない理由は、決して明らかにされない。
【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン/立木勝訳(三交社、2004年)】
「ナチ・ホロコーストはユダヤ人だけの事件とは考えられていなかった」というのは極めて重要な指摘である。ただし、これは今後も様々な人の手で検証する必要がある。著者の指摘通りであれば、「ナチスによる大量虐殺」が「ナチスによる“ユダヤ人”大量虐殺」と書き換えられたことになる。
ホロコースト産業は、唯一無二という絶対性を脚色し、被害を誇大にしてみせた。国際的な関心が寄せられれば、当然金も集めやすくなる。まして、国家予算から引き出すことができれば、疑念を抱く人々も出てこない。大衆は自分の財布にしか興味を持たないものだ。
「絶対」という言葉を連発するのは小学生である。それも3年生くらいか。私の記憶によれば、指切りげんまんをしなくなった頃から、「絶対」を使うようになったはずだ。これは、概念や抽象化が不確かなためだろう。言葉の定義すら曖昧なため、「絶対性」に固執するのだ。
一方、信仰者も「絶対」を濫用(らんよう)する。「神のご加護と裁きは絶対です」――ヘエ、そうかい。じゃあ、ルワンダのクリスチャンが大量虐殺されていた時、神様は昼寝でもしたのか?(レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』晋遊舎、2006年)
いずれにせよ、科学的根拠や論理的整合性を欠いた「絶対」ほど危険なものはない。世界中の原理主義という原理主義を支えているのは「絶対性」なのだから。
・『パレスチナ 新版』広河隆一
・文学者の本領/『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクション第2巻』竹山道雄:平川祐弘編
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