2009-07-03

帝国主義による経済的侵略/『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン


 ・信用創造のカラクリ
 ・帝国主義による経済的侵略

『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代

 ポーカーとトレードに共通する心理に迫りながら、「経済とはギャンブルに過ぎない」と断言している。具体的なポーカーネタが多いのだが、無視してもお釣りが来る内容だ。とにかく文章が闊達で警句の趣がある。

 私は以下のテキストを帝国主義による経済的侵略の姿として読んだ――

 昔ながらの生活を送っているある先住民が、10枚の鹿皮と引き換えに、20頭の鹿を殺せるだけの銃と弾薬の提供を受けたとしよう。
 これは素晴らしい取引のように思われる。銃を使えば弓矢を使うよりも狩りがずっと簡単になる。これだけの鹿肉があれば村中を一冬養えるし、取引の後に残った10枚の鹿皮を使って、金属製のナイフや毛布や、そのほか手作業で作るのは骨が折れるか不可能な物品を買うこともできる。
 問題なのは、鹿皮に換算した弾薬の価格がどんどん上がっていくことだ。彼はほどなくして、働きどおしても何とか生きていけるだけの物品しか得られないことに気づく。もはや村中を養うどころか、一家族を養うことすらできない。彼は弾薬の提供者のなすがままになり、飢え死にしたくなければ、いかなる屈辱にも甘んじなければならない。
 とはいえ、元の生活に簡単に戻れるわけでもない。そもそも伝統的な生産環境は複雑で、長い時間をかけてものを収集し、植え付け、乾かしたり風味を付けたりなどして加工する必要がある。こうしたことをおろそかにすると、一からやり直すことは難しい。技術は忘れ去られ、専門家も散ってしまった。
 獲物も捕らえにくくなった。集中的な銃猟が鹿の頭数を減らし、鹿を用心深くさせてしまったからだ。そしておそらく何よりも重要なのは、今や隣人たちが銃を持っているということだ。つまり銃を持たなければ、自分の身を守れない。

【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン:櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】

 経済的発展が伝統文化を破壊する。それだけではない。今まで仲良く暮らしていた人々の間に、不信感を渦巻かせ、敵意を抱かせ、遂には反目させ合うまでに至るのだ。内部に撹乱(かくらん)要因をつくるという手口は、現在のアメリカが中東に対して行っているものだ。

 麻薬や覚醒剤の類いだってそうかも知れない。エシュロンがあるにもかかわらず、いまだに撲滅することができないのは、やる気がないという問題などではなく、大国を動かす権力者のコントロール下にあることを示しているのではないか? きっとアヘン戦争で味を占めたのだろう。販売窓口となっているギャングや暴力団の類いは、完全な支配化に治められている。

 資本主義というシステムの問題は銀行にある。

・信用創造のカラクリ

 銀行が行っているのは、レバレッジ1000倍の貸付業務なのだ。

 だが、アーロン・ブラウンの指摘を踏まえると、お金そのものが問題なのかも知れない。尚、著者はインチキギャンブラーではなく、モルガン・スタンレーの常務取締役である。

 貨幣は等価交換を可能にした。だが、「等価」とは何なのだろう? それを誰が判断するのか? 等価の代表選手といえば金融マーケットである。株式にせよ、為替にせよ、売買が成立するには必ず一対の合意が形成されている。上げ相場だろうが、下げ相場だろうがそれは変わらない。最終的には同じ数だけの売り手と買い手が存在する。だから、「トレード」(交換)というのだ。

 つまり、マーケットが自由競争というルールで機能していれば、価格には根拠があると考えられる。しかし、だ。自由競争で動いているのかね? 例えば、国家単位の年金運用なんぞが恣意的な売買をしちゃいないだろうかね? しているよ。間違いなくしている。それが証拠に、日本は米国債を絶対に売れない。売らないのではなく、「売れない」のだ。

(※1997年)6月23日、米コロンビア大学で講演した橋本首相が「私は何回か、日本政府が持っている財務省証券を大幅に売りたいという誘惑に駆られたことがある」と発言、これを受けてニューヨーク市場の株価が急落した。

【「橋龍『米国債発言』の真意」高尾義一(野村総合研究所研究理事)】

 もちろん、橋本龍太郎は本気で言ったわけではない。所詮ブラフだよ。だが彼はその後どうなったか? 日歯連からの闇献金(※2004年7月に発覚)で葬られてしまった。そして2006年に死去。田中角栄同様、CIAが動いたという噂がある。

 等価交換によって、アメリカは他国を手なずけるのが巧みだ。米国債を保有しているのは、1位が中国で、2位が日本という現状。アメリカを滅ぼすことは簡単だが、心中する覚悟が必要となる。しかも、だ。アメリカが崩壊すれば、「これからは誰が物を買ってくれるんだ?」ってな話になってしまう。

 人類の未来を長期的に見渡せば、物々交換にした方がいいのかも知れない。

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2009-06-28

時間の複層性/『死生観を問いなおす』広井良典


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサスキリスト教を知るための書籍
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世(宗教とは何か?

 ・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
 ・時間の複層性
 ・人間とは「ケアする動物」である
 ・死生観の構築
 ・存在するとは知覚されること
 ・キリスト教と仏教の時間論

・『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
・『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

必読書リスト その五

 広井良典は時間を捉え直すことで、死生観を問い直す。果たして時間は主観なのか客観なのか。また時間は一種類しかないのか。そして広井は、時間の複層性を注視する――

「時間のより深い次元」ということをやや唐突な形で述べたが、たとえて言うと次のようなことである。川や、あるいは海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが、「時間」についても言えることがあるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間瞬間に過ぎ去り、変化していく時間。この「カレンダー的な時間」の底に、もう少し深い時間の次元といったものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって意味を与えられている、とは考えられないだろうか?

【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)以下同】

 考えさせられる指摘である。例えば、受精してから誕生に至る十月十日(とつきとおか)の間に、新生児は進化の過程を辿るといわれる。何とはなしに、羊水の中で人類の悠久の歴史が流れているような印象を受ける。あるいは、DNA的時間というのも存在するかも知れぬ。一本の川を宇宙の歴史と考えれば、それこそ無数の時間が流れていそうだ。

 広井の考察は時間と空間との関係に及ぶ――

 こうなってくると、時間と空間とは相互に独立したものではなく、互いに関係し合ったものとなる。つまり、例えば先にふれたようにシリウスまでの距離は8.6光年、一方七夕の彦星であるアルタイルまでの距離は16光年だそうなので、ということは私たちはいつも「8.6光年前のシリウス、16光年前のアルタイル」を同時に見ていることになり、いわば異なる過去に属する星々を「いま」見ていることになる。単純に言えば、「遠い」星ほどその「古い」姿を見ているわけであり、時間と空間はこうして交差する。私たちは宇宙の「異なる時間」をいまこの一瞬に見ている、といってもよいだろう。

 これまた座布団を三枚差し出したくなるような例え話だ。浦島太郎は竜宮城で数日間を過ごしたが、地上では700年が経過していた。こうした時間の複層性が示しているのは何か?――

 つまり、時間というものは、「世界そのものの側」に存在するのではない。それは認識する「人間の側」にあるもので、世界を見る際の枠組み、色メガネのようなものである。

 時間は「私が認識する」ものだった。主観。なぜなら、変化を観測する人物がいないと時間は存在しないからだ。人類が滅亡した時点で時間は消失する。それでも納得できなければ、宇宙が消滅した時点で時間は存在しなくなると言っておこう。

 この相対化の方向を、極限まで推し進めたのがアインシュタインだった、ということができる。相対論の体系では、先にもふれたように、絶対時間、絶対空間の存在は否定され、時間や空間は、事象を観測する主体(座標系)を特定して初めて意味をもつことになる。つまり、時間や空間は認識主体との関係でまさに「相対的」であり、それらとは別に唯一の客観的な時間・空間が存在しているのではない。したがって、異なる個人、たとえばAさんとBさんとは異なる「時間」の中に存在していることになる(ただし、これは光速の有限性ということがあって初めて出てくる結論だから、光速が有限であることがほとんど無視できるような地球上の現象に関する限りは、そうした時空の相対性は事実上無視できるものになる)。
 ふり返って見ると、カントの段階では、先にふれたように時間は世界の側から「人間の側」にもって来られたが、それでもなお、人間の世界の内部では、ある普遍的な、絶対的な(唯一の)時間が存在していたのだった。それがアインシュタインの相対論に至ると、時間はおのおのの個人によって異なるものとなり、唯一の「絶対時間」なるものは存在しなくなる。つまり共通の“時間という色メガネ”すら実は存在しない、というのが相対論の結論である。ニュートンからカント、マッハ、アインシュタインへの歩みは、したがって絶対時間あるいは「直線的時間」というものが解体してゆく歩みであるということもできる。

 まったくもって凄い展開になっている。これは思索の要あり。ある人物の人生を生と死で結べば、それは「直線的時間」といえよう。だが、死へと向かいつつある我々の時間は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとウロウロすることが珍しくない。しかも、時間というものは過ぎてしまえば一瞬なのだ。

 若くして亡くなる人がいると心が痛む。だが、我々は資本主義に毒されてしまい、人生七十年という平均値を8時間労働のように考えている節がある。更に恐ろしいことに、人生そのものを仕事量で判断する傾向すらある。

 広井良典の知的作業は永遠をも峻別しながら、豊穣なる時間を志向している。

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広井 良典
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・野家啓一
・死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人
・光は年をとらない/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン