2010-04-03

陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男/『たった一人の30年戦争』小野田寛郎


『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎

 ・陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男
 ・人間が怖かった
 ・残置諜者の任務を全うした男

『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月
・『奇蹟の今上天皇』小室直樹
『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市
『洞窟オジさん』加村一馬

 1972年(昭和47年)1月24日、横井庄一がグアム島で発見された(画像)。帰国した横井は「恥ずかしながら帰って参りました」と語った。


 それから2年後の1974年3月10日、今度はフィリピンのルバング島で小野田寛郎がフィリピン軍に投降する。戦後29年目のことであった。

 実はこの二人には大きな相違があった。横井は川でエビを採っていたところを地元の猟師に発見され、住んでいた洞窟から救出された。これに対して小野田は戦争が続いているものと確信し、所期の任務を遂行していたのだ。戦後、幾度となく捜索が行われたにもかかわらず、小野田は米軍による偽装行為であると思い込んでいた。接触に成功した鈴木青年のことも小野田は全く信用していなかった。最終的に谷口元少佐が現地を訪れ、新たな命令を口達(こうたつ)し、武装解除、投降に至るのである。

 小野田寛郎は足掛け30年もの長きにわたり、たった独りで戦争を続けていたのだ。

 初めは4人で行動していた。終戦から4年後に一人が逃亡した。9年後には一人が射殺された(島田庄一)。そして盟友の小塚金七も1972年に射殺された。それでも小野田はルバング島の動向を掌握し、日本軍がやって来ることをひたすら信じた。何が彼をしてそこまで駆り立てていたのだろうか。

 私はこの“戦後30年”、必死で、人の2倍のスピードで人生を生きてきた。
 帰還の記者会見で「30年のジャングル生活で、人生を損したと思うか」と聞かれ、「若い、意気盛んな時期に、全身を打ち込んでやれたことは幸福だったと思う」と答えた。

【『たった一人の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(東京新聞出版局、1995年)以下同】

 二十歳(はたち)の小野田は中国語に堪能であったことから、陸軍中野学校二俣分校で訓練を受けることとなる。

 当時、陸軍には校名を見ても内容がわからない学校が二つあった。「中野学校」と「習志野学校」である。この二校だけは、陸士や歩兵学校、通信学校などと違って、参謀総長の直轄であった。
 わかりやすくいえば、中野学校はスパイの養成機関、習志野学校は毒ガス、細菌戦の専門家教育である。「こりゃ、えらいところへ回された」というのが、私の正直な気持ちだった。
 中野学校の教育方針は「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」というものだ。

 通常、軍人であれば捕虜となった時点で「負け」を意味する。戦陣訓には「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と謳われていた。しかし諜報活動を行う中野出身者は違った。捕虜になっても尚、敵軍の情報を収集し、チャンスがあれば偽情報を流すことも可能であった。スパイにとって最大の仕事は「報告すること」である。死ぬことは絶対に許されなかった。

 校風は当時では考えられないほど自由奔放で、国体を批判しようが、八紘一宇(はっこういちう)を疑おうがおとがめなし。むしろ「天皇のために死なず」という気風すらあった。
 自分たちが命を捧げる対象は、天皇でもなく、政府、軍部でもなく、日本民族である。民族を愛し、民族の捨て石となって喜んで死ぬことができるか──を問うた。
 こんな精神教育の上に立ち、命も名もいらぬ人間として諜報技術を叩き込まれた。
 軍人の規範とされた戦陣訓には「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々(いよいよ)奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」とある。
 しかし中野学校では、「死ぬなら捕虜になれ」と教えた。捕虜になって敵に偽情報をつかませるのだ。そのため“擬装投降”という戦術まであった。
 だが、功績を認めてくれるのは組織上層部だけで、世間には汚名を着せられ、人知れず朽ち果てていく。これが秘密戦士の宿命であった。
 では、秘密戦にたずさわる者は、いったい何をよりどころにすればいいのか。中野学校はこれをひと言で表現した。
「秘密戦とは誠なり」である。

 中野教育は一種のエリート教育であったと考えるべきだろう。一般の軍隊よりも一段高い視点から戦争を捉えていることからそれが窺える。ただし、功に生きることは許されない。飽くまでも黒子であり忍びという存在に徹することが求められる。

 中野の訓練は、「一を見て十を知る」という観察眼に重きが置かれた──

 たまに教官と浜松の街に外出するのも、息抜きでなく“候察”(こうさつ)の実地教育である。
 ある工場の前を通った。煙突から黒煙や黄色い煙があがっていた。
「工場の使用燃料は何か?」「何を生産し、その数量は?」「従業員数は何人か?」
 教官から矢継ぎ早に質問がとぶ。私たちはしどろもどろだった。
 候察ではメモは一切禁止されていた。敵に捕まったとき、証拠を残さないためだ。私はルバング島の30年、この習性で一切メモはとらず、日にちから行動まですべてを頭の中に記録してきた。

 そして小野田に命令が下された──

 私への口頭命令は次のようなものであった。
「小野田見習士官は、ルバン(グ)島へ赴き同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」
 この命令が、以後30年、私の運命を支配することになる。

 更に付け加えられた──

 小柄で、温和な風貌をした横山師団長は、私にじっと目を注いで静かな口調で命令した。
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか。重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」

 この言葉が小野田を30年間支配したのだ。そして百数十回にわたる戦闘を展開した。

 1972年の捜索には小野田の家族も参加し、拡声器で呼び掛けている。小野田は至近距離から確認した。にもかかわらず小野田は姿を現さなかった。なぜか? それは諜報戦に身を投じた者の宿命であった。小野田はあらゆる情報を「疑う」習性に取りつかれていたのだ。

 小野田寛郎こそは、陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男だった。何という運命のいたずらか。

 彼の30年間を「単なる勘違い」と嘲笑できる人物は一人も存在しないことだろう。彼が不幸であったと言う人すらいないことだろう。同じ30年間を漫然と過ごしてきた日本人の方が圧倒的に多かったはずだ。

 私は軍国主義やナショナリズムに対して常々嫌悪感を抱いているが、小野田の中に結晶した戦前の何かに魅了されてやまない。

 投降後の行動もことごとく軍人の様式に貫かれている。小野田は殺されることを覚悟で軍刀をフィリピン軍司令官に差し出す。司令官は一旦受け取った後、その場で小野田に軍刀を返した。フィリピンのマルコス大統領(当時)は、小野田の肩を抱き「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦(ゆる)します」と語った。小野田は現地住民を殺傷していたため、死刑になってもおかしくはなかったのだ。

 ルール、教育、命令、約束……。これらは日常生活にもあるものだ。そこには往々にして利害が絡んでいるものである。内側から見れば正義だが、外側から見ればエゴイズムに映ることも決して珍しくはない。

 小野田はルバング島の住民を震え上がらせた。帰国後、住民達からのメッセージが伝えられた──

 私が帰還後、厚生省の招待で西ミンドロ州知事夫妻とマニラ地区空軍司令官夫妻が東京にやってきたことがある。私は陸軍中野学校の同期生たちと、彼らを東京の街に案内した。
 銀座のクラブで飲んでいるとき、突然、州知事夫人が改まった顔で「ミスター・オノダに島の女性と子供たちからメッセージがあります」といった。場が一瞬、緊張した。
「島の男たちは30年間、大変怖い思いをしました。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子供には危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした」
 私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。性欲は私欲であって、国のために戦うのに必要のないものだ。戦闘力も敵意もない女性や子供は、戦いには無関係だっただけである。

 小野田という人間の真髄がここにある。本書を読みながら、とめどなく涙がこぼれる。だが、私の心を打つものの正体がいまだにつかめないでいる。

たった一人の30年戦争
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小野田寛郎さんという人の、本当の素晴らしいところ
教科書問題が謝罪外交の原因/『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘
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小善人になるな/『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通

2010-04-02

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔


 ・大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった

『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その四

 貿易の二大スターは織物と砂糖だそうだ。万人が欲するヒット商品が現れた時、世界はどのように動くかがわかりやすく描かれている。こういう本が学校の教科書であれば、学習は「強いて勉める」必要はなくなることだろう。さしずめ現代であれば、石油や兵器が砂糖同様に世界を席巻しているはずだ。

 砂糖は当初、薬としても利用されていたという──

 じっさいのところ、砂糖には、驚くほど多くの用途や「意味」がありました。ルネサンス以前の世界では、イスラムの科学の水準がヨーロッパのそれなどよりはるかに高かったのですが、そのイスラムの医学では、砂糖はもっともよく使われる薬のひとつでした。中世のヨーロッパでも、事情は同じです。砂糖が本格的に使われはじめた16〜17世紀には、砂糖には、結核の治療など10種類以上の効能が期待されていました。

【『砂糖の世界史』川北稔(岩波ジュニア新書、1996年)以下同】

 当時はまだ食欲が満たされるような生活ではなかったであろうから、カロリーが高く、真っ白い砂糖が薬として使用されることに全く不思議はない。初めて味わった人であれば、ドラッグを服用したような感覚に捉われたことだろう。

 インドを支配したことによって、イギリスでは紅茶がもてはやされるようになる。そして紅茶に砂糖を入れる習慣が上流階級の間で生まれた。イギリス大衆はこうした嗜好(しこう)に憧れを抱いて真似るようになる。砂糖をもっと生産する必要があった。そして、そのための労働力も確保しなければならなかった──

 砂糖と奴隷制度の悪名高い結びつきは、こうしてすでにイスラム教徒が世界の砂糖生産を握っていた時代から、はじまりました。(8世紀)


 16世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ人が大西洋をこえて、カリブ海やブラジル、アメリカ合衆国などに運んだ黒人奴隷は、最低でも1000万人以上と推計されています。なかでも、ポルトガル人とイギリス人、フランス人がこの非人道的な商業を熱心に展開したのです。

・動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 いつの時代も平和に暮らす人々が暴力にさらされた。平和は暴力に対してあまりにも無力だった。イギリスの豊かな生活を支えるために、黒人は鞭を振るわれながら働かされた。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の正義は、独善となって異民族に襲い掛かる。戦争を始めるのは必ず彼等である。神の名を借りた暴力は手加減することを知らない。神の僕(しもべ)以外は虫けら同然だ。人種差別も同様で、差別する側は常に白人である。そして元はといえばアブラハムの宗教であるにもかかわらず争いが絶えることがない。

 人類最大の詐欺こそは「神」であると私は思っている。人間は神の似姿として造られたなんて、まことしやかに伝えられているがそれは逆だ。人間を投影したものが神なのだ。大体、いるのであれば、もっと頻繁に顔を出せって話になるわな。氷河期の時も、戦争の時も神様は一度だって姿を現した例(ためし)がないよ。神が存在するなら、これほどの怠け者は他に見当たらない。きっと神隠しにでもあったのだろう。

 奴隷の労働によって生み出された価値は、そっくりイギリスに持ってゆかれた──

 産業革命がまずイギリスに起こったのも、奴隷や砂糖の商人たちの富の力によるのだ、と主張する意見もあるくらいです。

 つまりイギリスという名前の大泥棒がいたってことだ。泥棒野郎はいまだにでかい顔をしてのさばっている。これがジェントルマンの国の正体だ。

 人類の癌はキリスト教、白人、欧米、ナショナリズムである。これに替わる新たな文明の台頭が待たれる。

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ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
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黒人奴隷の生と死/『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
黒船の強味/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八