2012-12-31

2012年に読んだ本ランキング


2011年に読んだ本ランキング

『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(下) 1901-2006年』と小室直樹著『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』を書いていなかったので、今年読了した本は72冊である。挫折本が異様に多いのは、いよいよ余生が残り少なくなっており取捨選択を厳しくしているためだ。なお昨年同様クリシュナムルティは入れていない。また小説も除いた。

奇貨居くべし』宮城谷昌光
楽毅』宮城谷昌光

黄金旅風』飯嶋和一
神無き月十番目の夜』飯嶋和一

とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ

 次に小室直樹と苫米地英人も除いた。

悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹

現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
利権の亡者を黙らせろ 日本連邦誕生論 ポスト3.11世代の新指針』苫米地英人

 更に今年最も大きな収穫ともいえるアルボムッレ・スマナサーラ長老も除いた。

怒らないこと 役立つ初期仏教法話 1』アルボムッレ・スマナサーラ
怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ
心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話 3』アルボムッレ・スマナサーラ

 石原吉郎関連も除いた。

シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ではまず番外から紹介しよう。

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』関岡英之
地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
ブッダの人と思想』中村元
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上) 1492-1901年』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(下) 1901-2006年』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー
完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』マーシャ・ガッセン
複雑で単純な世界 不確実なできごとを複雑系で予測する』ニール・ジョンソン

 次にベスト10。判断が難しいため同立順位が複数あることをご了承願おう。

 10位 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩
 9位 『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ
 8位 『カウンセリングの技法』國分康孝
 7位 『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
 6位 『通貨戦争 影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉
 6位 『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉
 5位 『放浪の天才数学者エルデシュ』ポール・ホフマン
 5位 『My Brain is Open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記』ブルース・シェクター
 4位 『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
 3位 『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
 3位 『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
 2位 『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
 1位 『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2013年に読んだ本ランキング

2012-12-29

2012-12-27

街の灯りに浮かぶ富士山


 あるいはいち早く達した夜の位置から街を見下ろしているのかもしれない。

Mt.Fuji Night View

2012-12-25

まばたき:脳リセットの働き? 大阪大などのチームが発表


 まばたきするのは脳をリセットし、新たな展開に備えるため――。こんな可能性があるとの研究結果を大阪大や情報通信研究機構未来ICT研究所(神戸市)のチームがまとめ、24日付の米科学アカデミー紀要電子版に発表した。

 映像を見ている時、まばたきをするのと同時に、脳で活発に働いている領域が一瞬変化することから得た分析。中野珠実大阪大准教授は「目を閉じることで、物語の流れに区切りをつけて注意を解き、情報処理を円滑にしているとみられる」としている。

 ヒトは毎分15~20回まばたきする。目を潤すには毎分3、4回で十分で、頻繁なまばたきの理由は謎。(共同)

毎日jp 2012-12-25

 眠りは「小さな死」で、まばたきは「ミクロな死」というのが私の持論だ。つまり、まばたきするごとに世界は新しく構成されている。多分それが真実だ。

2012-12-24

石原吉郎、トマス・ウルフ、他多数


 15冊挫折。

解錠師』スティーヴ・ハミルトン:越前敏弥訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2011年)/語り口がちょっと。

泡沫桀人列伝 知られざる超前衛』秋山祐徳太子(二玄社、2002年)/2ページでやめる。

はじめての人の電卓操作入門塾』浜田勝義(かんき出版、2010年)/イマイチ。

ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』ヴィトルト・リプチンスキ:春日井晶子訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2010年)/書き出しが冗長。

望郷と海』石原吉郎:岡真理解説(みすず書房、2012年/筑摩書房、1972年/ちくま学芸文庫、1997年)/石原の文章は血で書かれている。苦しみのあまり読み通すことができず。気安く読める作品ではない。人生の節目節目で本書を開くことになることだろう。

天使よ故郷を見よ(上巻)』トマス・ウルフ:大沢衛訳(新潮文庫、1955年/三笠書房、1952年)/フォントが小さい上、旧漢字であった。ブラッドベリが絶賛した作品だ。

20世紀英米文学案内6 トマス・ウルフ』大澤衛編(研究社出版、1966年)/本の堅牢な作りに驚く。これは参考資料として。

科学哲学講義』森田邦久(ちくま新書、2012年)/文章がわかりにくい。

』中谷宇吉郎〈なかや・うきちろう〉(岩波新書、1938年/岩波文庫、1994年)/雪国の惨状を知るに連れて私の内側にムラムラと怒りが湧いてきた。で、パタンと本を閉じた。

科学の方法』中谷宇吉郎〈なかや・うきちろう〉(岩波新書、1958年)/良書。が、古い。

雪の結晶』ケン・リブレクト:矢野真千子訳(河出書房新社、2008年)/これはオススメ。美しい結晶写真が多数配されている。雪って透明なんだってさ。六角形の不思議に眩暈(めまい)を覚える。

ドン・キホーテ 前篇1』セルバンテス(岩波文庫、2001年)/他の本が面白すぎるため挫ける。若いうちに読んでおくべきだったな。ひょっとするとキリスト教のパロディなのかもしれない。200ページまで。

「漢字廃止」で韓国に何が起きたか』呉善花〈オ・ソンファ〉(PHP研究所、2008年)/漢字廃止で論理的思考ができなくなったとすれば、英語圏はどうなるのか?

祈りの海』グレッグ・イーガン:山岸真訳(ハヤカワ文庫、2000年)/イーガンの作品はどうも訳文が肌に合わない。

人生の科学 「無意識」があなたの一生を決める』デイヴィッド・ブルックス:夏目大〈なつめ・だい〉訳(早川書房、2012年)/前置きが長い。訳者の賛辞も「売り」が入っていて薄気味悪い。散文だと思って読むべきだろう。

無垢の自信/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 組織や集団についてあれこれ考えていた時期があった。2年ほど前のことだ。いくつかツイートを紹介しよう(※リンク切れあり)。


















 あとは以下の検索結果を参照してもらいたい。

集団:検索結果

 その答えをクリシュナムルティが示す。ツイートが多くなってしまったので所感は割愛する。

無垢の自信

 私たちは、監獄の中の反逆という問題について話していました。つまり、すべての改革者や理想家、ある結果を生み出そうと絶えまなく活動している他の人たちが、彼ら自身の条件づけの壁の中、彼ら自身の社会構造の中、大勢の集団的意志の表現である文明の文化的な型の中で、いつも反逆しているようすについて、です。それで今、もしも自信とは何か、それはどのようにわいてくるのかがわかったならば、価値があるだろうと思うのです。
 自信は創意によって出てきます。しかし、型の中での創意は、【自我】の自信をもたらすだけであり、それは自我のない自信とはまったく違っています。君たちは、自信を持つとはどういうことか、知っていますか。自分の手をつかって何かをしたり、木を植えて育てたり、絵を描いたり、詩を書いたり、大きくなってから橋を架けたり、何か経営の仕事をきわめてうまく果たすなら、自分には何かができるという自信がつきますね。しかし、私たちが今知っている自信は、いつも監獄の中に――共産主義でもヒンドゥー教でもキリスト教でも――社会が私たちのまわりに築いた監獄の中にあるでしょう。監獄の中の創意は確かに、ある種の自信を生み出します。なぜなら、自分には何かができると感じるからです。モーターを設計したり、とても良い医者や優秀な科学者などになれるのです。しかし、社会構造の中で成功したり、監獄の内部を改革し、もっと明るくし、装飾したりする能力によって出てくるこの自信という感情は、本当は【自我】の自信です。自分には何かができると知って、それをするとき自尊心を感じます。自尊心のないまったく異なった自信が出てくるのです。それで、この二つ――自我の自信と自我のない自信の違いを理解できるなら、私たちの生において大きな意義を持つだろうと思うのです。
 君たちは、バトミントンやクリケットやサッカーのようなゲームを、とてもうまくやれるとき、ある種の自信の感覚を持つでしょう。自分はかなり上手だという感じがします。数学の問題を解くのが早ければ、それもまた自信の感覚を生み出します。社会構造の中の行為から自信が生まれるとき、そこにはいつもおかしな傲慢さが伴っているでしょう。いろいろなことができたり、業績を上げる力を持つ人の自信はいつも、この自慢や、「それをするのは私だ」という感情に染まっています。それで、業績を上げたり、監獄の中で社会改革をもたらす行為そのものに、自慢とか、【私】がそれをした、【私】の理想が重要だ、【私】の仲間が成功したという感情があるのです。この「私が」「私の」という感覚が、社会的な監獄の中で表現される自信に、いつも伴っているのです。
 君たちは理想家がどんなに傲慢なのか、気づいたことがないですか。ある成果をもたらしたり、大改革を成し遂げる政治的指導者がうぬぼれて、自分たちの理想や業績にのぼせているのに気づいたことがないですか。彼らは、彼ら自身の評価では、とても重要です。政治演説を少し読み、改革者を名乗る人たちを何人か見てごらんなさい。彼らはまさにその改革の過程において、彼らの自我を涵養していることがわかるでしょう。彼らの改革派、どんなに広範囲でもやはり監獄の中にあり、したがって破壊的であり、究極的には人間にもっと多くの悲惨と葛藤をもたらすのです。
 そこで、君たちがこの社会の全構造、文明と呼ばれる集団的意志の文化の型に精通し、そのすべてを理解してそこを離れ、ヒンドゥー教でも共産主義でもキリスト教でも、自分特有の社会の監獄を離れるならば、そのときには慢心に汚れていない自信が出てくることに気づくでしょう。それは無垢の自信です。それは、完全に無垢であるために何でもしてみる子供の自信に似ています。新しい文明をもたらすのは、この無垢の自信でしょう。しかし、社会の型の中にとどまるかぎり、この無垢の自信は生じてこないのです。
 注意して聴いてください。語り手は少しも重要ではないのです。しかし、君たちが言われていることの真実を理解することは、とても重要です。というのも、それが教育でしょう。教育の機能とは、君たちを社会の型にはめこむことではありません。反対に、君たちが完全に深く充分に理解して、それによって社会の型を離れるのを助け、自慢のない個人であるよう、本当に無垢であるがために自信を持つように、君を助けることなのです。
 私たちのほとんどみなが、社会に合わせる方法やその改革方法だけに関心を持っていることは、大きな悲劇ではないでしょうか。君たちのする質問のほとんどが、この態度を反映していることに、気づいたことがありますか。君たちは実際は、「どうすれば社会に合わせられるのですか。そうしなければ、お父さんやお母さんはなんて言い、僕はどうなってしまうでしょう」と言っているのです。こういう態度では、君たちが持っているいかなる自信、いかなる創意も滅んでしまいます。そして、君たちはたくさんのロボットのように学校や大学を出て、たぶん大いに有能になるのでしょうが、創造の炎がありません。それで、自分の住む社会、環境を理解して、まさにその過程においてそこを離れることが、とても重要であるわけです。
 これは世界中の問題でしょう。人間は生への新しい応答、新しいアプローチを求めています。なぜなら、ヨーロッパでもロシアでもここでも、古い方法が腐敗しかけているからです。生は絶えまない挑戦です。そして、単により良い経済秩序をもたらそうとするだけでは、その挑戦への完全な応答にはなりません。その挑戦はいつでも新しいのです。そして、文化、国民、文明は新しいものの挑戦に完全に応答しきる力がないとき、滅んでしまうのです。
 君たちが適切な教育を受けず、この無垢のとてつもない自信を持たないならば、必然的に集団に吸収されて、凡庸性の中で迷ってゆくでしょう。名前に少し肩書きを加えたり、結婚して子供を持ち、それで君たちは終わりでしょう。
 私たちのほとんどは怯えていますね。君たちの親も怯えているし、教師も怯えているし、政府や宗教も君たちが完全な個人になるのではと怯えています。なぜなら、彼らはみな君たちに、環境や文化の影響の監獄内に安全にとどまってもらいたいからです。しかし、社会の型を理解することで打ち破り、したがって自分の心の条件づけに縛られないのは、個人だけなのです。新しい文明をもたらしうるのはそのような人たちだけなのです。単に順応するだけの人たちや、自分が他の型によって作られているため、特定の型に抵抗する人たちではありません。神や真理の探究は、監獄の中ではなく、むしろ監獄を理解して、その壁を破るところにあるのです。そして、自由へと向かうこの動きこそが、新しい文化、異なった世界を創造するのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


福島の白菜のおばあちゃん


2012-12-23

目撃された人々 30



目撃された人々(旧)

福島県で児童の甲状腺異常が激増



福島県の児童における甲状腺がん・甲状腺異常の発生-「通説」をたてにした事態の「否認」

2012-12-22

「私に投資してください!」 Invest in Me ! 2012~プラン・ジャパン

全世界で陰謀犯罪者 大量逮捕のテレビ報道近し


全世界で陰謀犯罪者、大量逮捕のテレビ報道近し 2012

間近に迫るテレビ報道:10000人の世界陰謀メンバーの大量検挙

 間もなく、世界中で多くの陰謀犯罪メンバーたちが大量逮捕されることを目撃するでしょう。これらの検挙は借金と貧困の条件を押し付ける現在の経済システムから人類を解放す­­る新しいシステム導入への最後の障害物の排除を意味します。

 このことを実現するために、長年にわたり、陰に隠れて、一所懸命尽くしてきた多くの男性、女性が存在します。彼らは人類に新しいシステムを提示することに努力を続けていま­­す。このシステムは直ちに人類に富の再分配を行い、一般に考えられている普通の生活から人類を解放するでしょう。

 科学技術は他の制圧されていた要素は開放され、この移行に助けになります。

 これらの大量逮捕のニュースは突然現れ、強烈なものしょう。準備をしていていない多くの人たちにはなぜ起きているのかを理解することに関して、大量の人間が留置されるのを­­、目の当たりにして、ショックを受けたり、混乱するかもしれません。

 しかし、検挙される大量の男性、女性たちは、皆さんを永久に奴隷化するために従事してきました。

 いくつかの大手メディアグループはこれらの出来事について報道し、何が起きたのかを時系列に公開する手助けをすることに合意済みです。これらの検挙はテレビで放映され、完­­全にみなさんと完全に共有されます。こうすることは世界の人々に対する義務だからです。そして、世界の人々はこの瞬間、この出来事を目撃し、人類を支配、搾取してきたこ­れ­らの大量の人間たちから開放されることを意味するのです。

 巧妙な工作による支配は終わり、人類は新しい人生に突入します。このことを心に留めておけば、これらの検挙を恐れを持たずに見ることができるし、私達の世界に対する彼らの­­存在の意味が理解できます。

 このような開放への情報に対する情報源がたくさん存在しています。この情報を希望する人たち、あるいは希望しない人たちにも伝わるように要請します。少なくともこの件につ­­いて事前に親しんでほしいのです。この情報を広く伝える努力は重要なことで、これは恐怖を取り除き、衝撃を減らすことに役立ちます。

 間もなく、真の自由が皆さんのもとに戻されます。

Best Of Just For Laughs Gags - 厄介ないたずら

Bird on Glass


 鳥は教えてくれる。傷つけ合う世界にいても静かに佇(たたず)むことができると。そして翼を持った精神のみが飛翔を可能にするのだ。

コピーに関する覚え書き


 ってなわけで、早速引用させてもらおう。

・即時性(Immediacy) コピーよりも速いこと
・個人化(Personalization) 個人に最適化されていること
・解釈(Interpretation) コピーの価値を上げるための付加価値を持つ情報
・信憑性(Authenticity) コピーを手に入れるときの特別な体験
・アクセスしやすいこと(Accessibility) 取りやすく見やすいこと
・具体化(Embodiment) 情報に実体を持たせること
・後援(Patronage) 作者との関係性
・見つけやすいこと(Findability) 目につく場所に情報を存在させること

「情報のコピーが無料になった中で、コピーできない8つの価値」Heartlogic

 ここから我が「宗教OS論」に結びつけることを目論んだのだが、如何せん思索不足である。というわけで中途半端な解説となることを許されよ。

 生命連鎖という歴史の主役は遺伝子だ。つまり生命の営みは遺伝子複製を目的としている。そして文化・文明は学習という名のコピーで維持されるわけだ。子は親のコピーであり、人類は神のコピーなのだ。宗教行為を見よ。コピーそのものではないか。

 人間の脳は凄まじいポテンシャルを秘めている。

脳という宇宙
「世界の全情報処理能力」は「ヒトの脳」に匹敵

 しかしながら実際は思考速度が遅いため、情報量は限られている。

脳の情報量とコンピュータの情報量について計算してみました
情報過剰は思考を駄目にする
人間の脳は限界に達しているのかも!?

 仮に17.5GBあったとしても、私の場合は明らかにメモリ不足だ。加齢が上書き更新を困難にしつつある。忘却とは忘れ去ることなり。

 レイ・カーツワイルはイノベーション(技術革新)が「記憶のダウンロード&アップロード」を可能にするだろうと告げている。

 では、わたしとは誰なのか? たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルのほうなのか、コピーのほうなのか、それともその両方なのだろうか? おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳を形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。
 だが、この見方には問題がある。わたしの身体と脳を構成する特定の粒子の集合は、じつは、ほんの少し前にわたしを構成していた原子や分子とはまったく異なるものなのだ。われわれの細胞のほとんどがものの数週間で入れ替わり、比較的長期間はっきりした細胞として持続するニューロンでさえ、1か月で全ての構成分子が入れ替わってしまう。微小管(ニューロンの形成にかかわるタンパク質繊維)の半減期はおよそ10分である。樹状突起中のアクチンフィラメントに至っては約40秒で入れ替わる。シナプスを駆使するタンパク質はほぼ1時間で入れ替わり、シナプス中のNMDA受容体は比較的長くとどまるが、それでも5日間で入れ替わる。
 そういうわけで、現在のわたしは1か月前のわたしとはまるで異なる物質の集合体であり、変わらずに持続しているのは、物質を組織するパターンのみだ。パターンも又変化するが、それはゆっくりとした連続性のある変化だ。「わたし」とはむしろ川の流れが岩の周りを勢いよく流れていくときに生じる模様のようなものなのだ。実際の水の分子は1000分の1秒ごとに変化するものの、流れのパターンは数時間、時には数年間も持続する。
 つまり、「わたし」とは長期間持続する物質とエネルギーのパターンである、と言うべきだろう。だが、この定義にもまた問題がある。いずれこのパターンをアップロードし、オリジナルとコピーが見分けられないほど正確に、自分の身体と脳を複製できるようになるからだ(そうなると、わたしのコピーが、「レイ・カーツワイル」を見分けるチューリングテストに合格しかねない)。

【『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル:井上健監訳、小野木明恵、野中香方子〈のなか・きょうこ〉、福田実訳(NHK出版、2007年)】

 福岡伸一が同じことを言っている。「生命とは動的平衡にある流れである」(『生物と無生物のあいだ』)、「ミクロのレベルではたまたまそこに密度が高まっている分子の、ゆるい『淀み』でしかない」(『もう牛を食べても安心か』)と。つまり自我を支えているものは「記憶という情報」なのだ。

 では実際に私がコピーされたとしよう。一体全体どちらの私が本物であるのか?

『スター・トレック』の転送装置で、星の地上にいる人が宇宙船の中にビームで転送されるとき、何をやっているかというと、その人のいる地上の空間の素粒子状態、つまり情報状態を全部スキャンしているのです。そしてそのスキャンした状態を宇宙船の中に移動させているわけです。
 簡単にいえばコピーするということでしょうか。もちろん、思考も記憶も全部一緒にコピーをしています。それを移動と呼んでいるだけなのです。
 ただし、コピーだけでは移動ではありません。ただの複製になってしまうため、オリジナルの消去もあわせて行っているのです。
 スコッティーが転送してくれたときに、たまたま宇宙船が攻撃されて、オリジナルの消去ができなかったとしたら、オリジナルとコピーが同時に存在することになります。
 そして、しばらくしてからスコッティーに、「ごめん、あなたの転送は終わった。したがってこれからあなたを消去します」といわれてしまうわけです。
 では、どちらが本物か。
 それは、移動した方が本物なのです。それがインテンショナリティ、つまり意思という考え方です。
 移動するという意思が反映されているのは移動後のほうです。
 理論上は、寸分たがわず、魂まで含めた完全コピーではあります。しかし、移動という意思は複製された側にあるわけですから、結果として、オリジナルのあなたは消去されるべき存在になってしまうのです。

【『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(角川春樹事務所、2009年)】

「コピーという意思」に軍配が上がるというのだ。だから親が先に死ぬのか(笑)。私の完全コピーが100体あったとすれば、100番目のコピーが本物となる。ただし、これは「自我の固有性」にまつわる問題であって、各コピーの環境が異なるわけだから当然それぞれの人生は別物だ。

移動(コピー)した方が本物

 社会にも進化にも常にコピーという同調圧力が働いている。コピーし損なった者は弾かれる。美しいコピーを競うのが「受験」だ。

 彼は一瞬私を優しく見つめ、それから言った。「あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです。例えば羨望や怒りなどのどんな感情も、過去の結果なのです。羨望について、それを抑圧したり、それを何かあるいは何らかの行為にしようとするなど、あなたが何をしようと、それもまた過去の結果なのです。そのように、あなたはたんに経験の輪のなかを動いているだけなのです」

【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

 コピーは「過去への依存」である。自我の大半は親や教師、友人、本、メディアによって書き込まれたものだろう。真の悟りとは意味から離れ、時間から離れ、自我を白紙に洗い戻す営みに違いない。これが「即時性」だ。

ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき苫米地英人、宇宙を語る私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

パソコンが壊れた、死んだ、殺した
移動(コピー)した方が本物
レイ・カーツワイル
苫米地英人

2012-12-18

ケビン・カーター「ハゲワシと少女」


 1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載され、1994年のピュリッツァー賞に輝いた。スーダンの飢餓を捉えた一枚の写真は、「報道か人命か」というセンセーショナルな議論に発展した。受賞から1ヶ月後、ケビン・カーターは自動車内に排気ガスを引き込んで自殺した。

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1枚の写真が招いた騒動
「ハゲワシと少女」のカメラマン自殺~“人命か報道か”の論議の中で
「ハゲワシと少女」~報道のエゴ

 ・ウガンダの飢餓
 ・暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ

ピュリツァー賞 受賞写真 全記録

ローマ法王もツイッターでブロックするレベル


2012-12-16

【注意報】「北ミサイル発射」 海外紙は「ロケット」と表記


選挙の集計システム


【北朝鮮ミサイル】韓国国防相、解体情報「確認したことない」


127 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2012/12/13(木) 07:21:20.04 ID:Fffli0Da [1/2]

ミサイル、ミサイルとは言うけれど
別に日本やアメリカに撃ち込んでやろうと
開発しているわけじゃないからね
開発したミサイルをイランを始めとした反米諸国に売り込む

その為には『これだけ飛びます』という実演が必要
イランにミサイルを売られるとイスラエルまで届くのでアメリカは必死w
日本に撃ち込まれるぞ!!と嘘をついてまで巻き込もうとしている

日本はとっくの昔に射程圏内で これほどの飛距離は必要ないんだわ

丁寧語とか、礼儀正しく書いてみる日記2

2012-12-15

『20世紀SF』(全6冊)河出文庫

20世紀SF〈1〉1940年代―星ねずみ (河出文庫) 20世紀SF〈2〉1950年代―初めの終わり (河出文庫) 20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻 (河出文庫)

20世紀SF〈4〉1970年代―接続された女 (河出文庫) 20世紀SF〈5〉1980年代―冬のマーケット (河出文庫) 20世紀SF〈6〉1990年代―遺伝子戦争 (河出文庫)

レイ・ブラッドベリ


 1冊読了。

 70冊目『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ:小笠原豊樹〈おがさわら・とよき〉訳(河出文庫、2011年/集英社、1978年/集英社文庫、1982年)/河出書房新社から復刊。20年振りに再読した。「読む官能」ともいうべき刺激に溢れている。やはり小説は年をとらないと読めないものだ。そこそこ面白かったと記憶していたが、そんなレベルではなかった。ダフネ・デュ・モーリア著『鳥 デュ・モーリア傑作集』、福永武彦著『廃市・飛ぶ男』、山本周五郎著『日日平安』、ちくま日本文学の『中島敦』、それに本書を加えて短篇集ベスト5としたい。467ページのどこにも隙(すき)がない。本が涎(よだれ)だらけになってしまった(ウソ)。

人が一番嘘をつくのは選挙の前だ


2012-12-12

ウゴ・チャベス 世界人権委員会批判・シリア国家主権尊重 2012年8月1日

ロン・ポール「イラン制裁は戦争行為 米国の干渉はシリアを解放しない」


 2012年8月1日。

シリア情勢 コフィ・アナン辞任 冷戦の様相 2012年8月3日

リチャード・E・サイトウィック、デイヴィッド・M・イーグルマン、片山一良、アルボムッレ・スマナサーラ


 4冊挫折。

脳のなかの万華鏡 「共感覚」のめくるめく世界』リチャード・E・サイトウィック、デイヴィッド・M・イーグルマン:山下篤子訳(河出書房新社、2010年)/リチャード・E・シトーウィック、改めリチャード・E・サイトウィックの新著。表記については山下があとがきで言いわけをしている。カラー図版が多く気合の入った作りだ。個人的な関心が低下してしまい読了できず。

月曜閑談』サント・ブーヴ:土居寛之訳(冨山房百科文庫、1978年)/ウェブで小林秀雄が書いた文章に目が止まり、直ぐ取り寄せた。最初っから「覚書と断想」しか読むつもりはなかった。わずか17ページではあるが十分お釣りがくる。小林が翻訳した『我が毒』も読んでみたい。

ブッダのことば パーリ仏典入門』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2008年)/後回し。中村本の後で読むことに。

沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ、2009年)/これまた中村本の後に回す。仏典テキストは片山訳を採用している。六師外道の内容が詳しく書かれている。元々は「仏教以外の教えを説いている6人の高名な先生」との意味であるという。沙門果経はアジャータサットゥ(阿闍世王)とブッダの対話が基調となっている。観無量寿経と比較することで大衆部の政治的狙いが見抜けるようにも思う。

GDPに占める生活保護費の割合


2012-12-10

シリア情勢 ダマスカスの戦いが始まった 2012年7月19日

イスラエルにおける洗脳教育

外科医オーベルラン ガザの証言を出版


 パレスチナのガザ地区で爆撃による麻痺患者に手術を施すフランス人医師クリストフ・オーベルラン氏。著作『ガザの時評2001年-2011年』の出版に際して。

アイガー北壁のスピードクライミング

Eiger - North Face

Eiger North Face.

Eiger north face

 スイスの登山家、ウエリ・シュテック氏が、三大北壁と呼ばれる難関ルート、アイガー北壁(高さ1800mの岩壁)を2時間47分で登った時の映像






 スイスのガイド、Dani Arnold(27) が、アイガー北壁をヘックマイヤールート経由で、4/20 に 2時間 28分というタイムで登頂しました。これまでの記録はウエリ・シュテックが 2008年に出した 2時間 47分という記録でした。Dani は 4/20 の 9:05 に北壁の基部をスタートし、山頂には 11:33 に到達しています。北壁の登攀ルートとしてはメジャーなルートであることから、トレースが残っていたりと条件が良かったようです。彼は、パタゴニアの Torre Egger の冬期初登などの記録を持っています。


 因みにアウトドアブランドの「ザ・ノースフェイス」はアイガー、グランドジョラス、マッターホルンの北壁(三大北壁)に由来する。ロゴの右側に描かれている三つのドームがそれ。

the-north-face-logo

『神々の山嶺』夢枕獏

愚かさをありのままに観察し、理解する




Q――粗野な心も敏感になれるのでしょうか。

 質問を、言葉の裏の意味を聴いてごらんなさい。粗野な心も敏感になれるのでしょうか。私の心は粗野だと思い、敏感になろうとするなら、敏感になろうとするその努力こそが粗野なのです。どうかここを見てください。感心していないで、見てごらん。ところが、私が粗野であることを、変えたがらずに、敏感になろうとせずに認識したり、粗野とは何かを理解しはじめて、日々の生活でそれを――私の欲張った食べ方や人々と接するときの粗々しさ(ママ)、誇り、傲慢、習慣や思考の粗雑さを観察するなら、そのときはその観察こそが【ありのまま】を変革するでしょう。
 同様に、私は愚かなので、智慧を得なくてはならないと言うなら、智慧を得ようとするその努力はもっと大型の愚行にすぎません。なぜなら、重要なのは愚かしさを理解することだからです。どんなに智慧を得ようとしても愚かしさは残るでしょう。学問の表面的な洗練は獲得するかもしれません。本を引用したり、偉大な著者(ママ)の一節を反復したりはできるかもしれません。しかし、基本的に私は愚かなままでしょう。しかし、日常生活に表現される愚かしさ――私がどのように召使に対して振るまうか、隣の人、貧しい人、豊かな人や会社員をどのようにみなしているのかを見て、理解するなら、そのときはその気づきが愚かしさを断ち切ることになるでしょう。
 やってごらんなさい。自分が召使に話しているのを見つめ、知事と接するときのとうほうもない尊敬や、何も与えてくれるものを持たない人にはどれほど尊敬を示さないのかを観察するのです。そのとき、君は自分がどんなに愚かであるのか、見出しはじめます。その愚かしさを理解するところに、智慧や敏感さはあるのです。敏感に【なる】ことはないのです。何かになろうとしている人は醜く、鈍感です。それが粗野人なのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】



Q――「進歩」という言葉の意味は何でしょう。

 ほとんどの人々のように、あなたも理想を持っていることでしょう。おして、理想は事実や現実ではありません。それはある【べき】ものであり、何か未来のことなのです。そこで、私が言うのはこういうことです。理想は忘れてしまいなさい、そして、自分のありのままに気づいていなさい。あるべきものを追求せずに、【ありのまま】を理解してみなさい。実際のありのままの理解は、あるべきものの追求よりもはるかに重要です。なぜでしょう。なぜなら、ありのままを理解するところから、自然な変革の過程が始まるからです。ところが、自分がこうある【べきだ】と考えるものになっていくとき、そこにはまったく変化がなく、形を変えた同じ古いものの継続だけがあるのです。心が自分は愚かだと知って、その愚かしさを智慧に、すなわちある【べき】ものに変化させようとするなら、それはばかげているし、それでは意味も真実もありません。それはただ自己投影の追及で、ありのままの理解の延期にすぎません。自分の愚かしさを他のものに変化させようとうするかぎり、心は愚かなままなのです。しかし、心が「自分は愚かだと実感しているので、愚かしさとは何かを理解したい。それゆえに、愚かしさに立ち入ろう、それがどのようにして生じてきたのか観察しよう」と言うなら、そのとき、まさにその探究の過程こそが、根本的な変革をもたらします。(中略)
 進歩は時間を意味しているでしょう。というのも、牛車からジェット機に至るには何世紀もかかっています。そこで、私たちは同じように真実や神も時間をかければ見つかると考えます。私たちはここにいて、神を向こう側か、はるか彼方にあると考えて、その距離、間隔を埋めるには時間が必要だと言うのです。しかし、神や真実は固定していないし、私たちも固定していません。固定した出発点もなく、固定した到達点もないのです。私たちは真理的な安全という理由のために、一人一人に固定した点があり、真実もまた固定しているという考えにすがります。しかし、これは幻想です。事実ではありません。内的、精神的に進化したり、進歩する時間を求めたとたんに、私たちのしていることはもはや精神的ではないのです。なぜなら、真理は時間のものではないからです。時間に囚われている心は、真実を見つける時間を必要とします。しかし、真実は時間を超えていて、固定した点を持ちません。心は、意識的にも無意識的にも、すべての蓄積から自由でなくてはなりません。そのときにだけ、真理とは何か、神とは何かを見出すことができるのです。

ブッダの真理のことば・感興のことば (ワイド版 岩波文庫)ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

2012-12-09

我々が弔う人間とそうでない人間、あるいは悼む人間とそうでない人間



2012-12-08

『望郷と海』と『石原吉郎詩文集』の目次


望郷と海 (始まりの本)

I
確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死
ある〈共生〉の経験から
ペシミストの勇気について
オギーダ
沈黙と失語
強制された日常から
終りの未知――強制収容所の日常
望郷と海
弱者の正義――強制収容所内の密告

II
沈黙するための言葉
不思議な場面で立ちどまること
『邂逅』について
棒をのんだ話  Vot tak! (そんなことだと思った)
肉親へあてた手紙――一九五九年一〇月

III
一九五六年から一九五八年までのノートから
一九五九年から一九六二年までのノートから
一九六三年以後のノートから

付・自編年譜
初稿掲載紙誌一覧
解説 問題はつねに、一人の単独者の姿にかかっている――今、石原吉郎を読むということ(岡真理)



石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

詩の定義

I
詩集〈サンチョ・パンサの帰郷〉より
位置
事実
馬と暴動
葬式列車
その朝サマルカンドでは
サンチョ・パンサの帰郷
耳鳴りのうた
夜がやって来る
酒がのみたい夜
自転車にのるクラリモンド
さびしいと いま
伝説
夜の招待

詩集〈いちまいの上衣のうた〉より
霧のなかの犬
いちまいの上衣のうた
シベリヤのけもの
待つ
泣いてわたる橋


詩集〈斧の思想〉より
Frau Komm!
像を移す
泣きたいやつ
居直りりんご
便り
ドア
方向

詩集〈水準原点〉より
いちごつぶしのうた
詩が

詩集〈禮節〉より
神話
構造
世界がほろびる日に

詩集〈北條〉より
痛み
世界より巨きなもの

詩集〈足利〉より
足利

詩集〈満月をしも〉より
膝・2
疲労について


II
ある〈共生〉の経験から
ペシミストの勇気について
望郷と海
失語と沈黙のあいだ
棒をのんだ話

III
一九五六年から一九五八年までのノートから
一九五九年から一九六二年までのノートから
一九六三年以後のノートから

解説 佐々木 幹郎
年譜 小柳 玲子
著書目録 小柳 玲子

『望郷と海』石原吉郎
『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」

シリア情勢 2012年7月15日 ティエリ・メサン

シリア情勢 2012年7月12日 ティエリ・メサン

通貨改革を支持する国際通貨基金IMFの報告

2012-12-05

大川隆法大先生のスピリチュアル偉人対談


 スピリチュアル漫才の間違いではないのか?

盛鶴延、片山一良、馬場紀寿


 2冊挫折。1冊読了。

気功革命 癒す力を呼び覚ます』盛鶴延〈セイ・カクエン〉(太田出版社、1996年/コスモスライブラリー、2004年)/本書は既に紹介済み。呼吸法の参考になるかと思い図書館から借りたのだが、内容が素晴らしいので購入することにした。

パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2012年)/文章に臭みがあって読めず。テーマがよいだけにもったいない。多分この人、坊さんだね。レイ・ブラッドベリと併読していたことも不運であった。

 69冊目『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(春秋社、2008年)/博士論文を改稿したもので気魄のこもった力作だ。馬場紀寿の今後は十分期待できる。上座部大寺派の学僧ブッダゴーサは5世紀初頭の人物。細かい部分に興味はないのだが、最初の経典制作過程がよく理解できる。ブッダの悟りの基本は四諦であり、縁起は後世になって強調された概念であることを初めて知った。私のスタンスとしては大衆部(だいしゅぶ=大乗)から上座部(=小乗)にさかのぼり、更にブッダを辿ることが正しいと考えている。クリシュナムルティを読めば、それほど難しい作業ではない。

2012-12-03

超硬水 コントレックスとクールマイヨール


 藤田紘一郎が近著『50歳からは「炭水化物」をやめなさい。 「病まない」、「ボケない」、「老いない」体をつくる腸健康法』(大和書房、2012年)で、硬度の高いミネラル・ウォーターを勧めているとのこと。私は来年、50歳になるので試してみようと思う。レビューを読む限りではコントレックスからクールマイヨールへ乗り換えている人が多いようだ。

コントレックス 1.5L×12本 [並行輸入品] Courmayeur(クールマイヨール) 1.5L×12本 [並行輸入品]

水の健康法

光と水


 奇蹟としか言いようのない光景だ。水面(みなも)は黄金が溶けているようにも見える。そして反射した光は、観察者の瞳を通して太陽に撥(は)ね返される。光の三角形が完全な縁起を形成する。

Line of Division

ミスコン優勝美女と麻薬組織の危険な関係、メキシコ


 輝くように美しい顔立ちと抜群のスタイルを誇るミスコンテストの優勝者たち。そんな美女たちが、メキシコではしばしば、財力は豊富だが非情な麻薬組織の手に落ちてしまう。

 北西部シナロア(Sinaloa)州のミスコンテストで今年優勝したミス・シナロアのマリア・スサナ・フロレス・ガメス(Maria Susana Flores Gamez)さん(22)の場合、それは死への誘いとなった。

 ガメスさんは前週、麻薬組織と警察との銃撃戦に巻き込まれて死亡したのだ。捜査当局によると、麻薬組織メンバーのものとみられる車にボーイフレンドと共に乗っていたガメスさんは、銃を手にして車から出てきた。「人間の盾」にされた可能性が高いという。

 ガメスさんのボーイフレンドが所属していたのは、指名手配中のホアキン・グスマン(Joaquin Guzman)容疑者が率いる同州最大の麻薬組織の一派とみられる。

 グスマン容疑者は2001年、収監されていた刑務所から洗濯籠に隠れて脱出に成功。その6年後の2007年に、ドゥランゴ(Durango)州のミスコンテストで優勝した当時18歳の少女と結婚している。グスマン容疑者は背後でこの少女の優勝に手を貸したと言われている。

◆ブランド品や宝石につられて…

 ミスコンテストの優勝者たちの中には、高級ブランドの衣服や靴、宝石などに目がくらみ、麻薬組織と付き合い始める者が少なくない。「ギャングたちは、いつも美女をはべらせておきたいのさ」と、メキシコの麻薬カルテルを題材とした小説を幾つも執筆しているエルメル・メンドサ(Elmer Mendoza)氏は言う。「そうして、自分好みに仕立て上げるんだ」

 メキシコで昨年制作された映画『Miss Bala』は、こうした実話に基き、ミスコンテストをめぐり美女が犯罪の道に転落してゆく人生を描いている。表題の「Bala」は銃弾の意味だ。モデルとなったラウラ・スニガ(Laura Zuniga)容疑者は2008年にミスコンテストに優勝したが、同年12月に麻薬組織メンバーと一緒にいるところを逮捕された後、釈放された。

 2011年にはメキシコ市(Mexico City)でコロンビア人モデルの女が、恋人で麻薬組織メンバーのホセ・ホルヘ・バルデラス(Jose Jorge Balderas)容疑者とともに逮捕された。バルデラス容疑者はサッカーの元パラグアイ代表、サルバドル・カバニャス(Salvador Cabanas)選手を射殺しようとした容疑で指名手配されていた。モデルの女性は後に釈放されている。

◆長い因縁の歴史、権力も魅力

 シナロア州では、美女と犯罪組織との因縁の歴史は数十年前にもさかのぼる。1958年のミスコンテストで優勝したケニャさんは6年後、イタリアのシチリア(Sicily)島で殺害された。ケニャさんはマフィアのボスだったイタリア系米国人のおいと結婚していた。

 1990年、マザトラン(Mazatlan)のカーニバルでのミスコンテストで優勝した18歳の少女は、敵対組織の男との結婚を阻止しようとした麻薬組織幹部に拉致された。この幹部は3年後に逮捕された。

 美女と犯罪組織との結び付きについての共著のあるホセ・カルロス・セニセロス(Jose Carlos Ceniceros)氏は、麻薬密売は危険な世界だが、貧しい女性にとっては金持ちになれる機会として魅力的な側面もあるのだろうと指摘する。金だけでなく、犯罪組織が持つ権力も魅力なのだという。

「彼女たちは、ぜいたくな生活に馴れ、危険を顧みなくなっていく。たとえ短い命となろうとも、一瞬でも優雅な人生を生きたがるのだ」と、セニセロス氏は述べている。

AFP 2012-11-30

アフガン15歳少女、喉切られ殺される 結婚断られた腹いせか


 アフガニスタン北部のクンドゥズ(Kunduz)州で28日、15歳の少女が喉を切られて殺害される事件が起きた。地元警察は29日、男2人を殺人の疑いで逮捕したと発表。容疑者の1人は事件前、少女に結婚を申し込んだものの家族に断られていたという。少女は川に水くみに行き、村に帰る途中で襲われて喉を切り裂かれたとされている。

 保守的なイスラム国家のアフガニスタンでは、イスラム原理主義組織タリバン(Taliban)の政権が米軍主導の攻撃で崩壊して10年以上が経過した今も、女性や少女に対する行き過ぎた暴力が大きな問題となっている。英人道支援団体オックスファム(Oxfam)によると、アフガニスタンでは女性の87%が身体的、性的、精神的な暴力を受けたり、強制的に結婚させられた経験があるという。

 先月も西部へラート(Herat)州で、20歳の女性が嫁ぎ先の家族から売春を強要され、拒否したところ首を切断され殺害される事件が起き、男女4人が逮捕されている。

AFP 2012-11-29

2012-12-01

山本太郎氏(新党結成)記者会見


Video streaming by Ustream
ひとり舞台 脱原発-闘う役者の真実-

プラスチックとマーガリンは、分子一つの差しかない







牛久東洋医学クリニック

 正確には「マイク・ドンカーズ」のようだ。以下のサイトで記事が読める。

NaturalNews - 自然健康、栄養、その他についての独立したニュースを報道

読むべき本はやってくる


宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

宗教とは何か?
クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 宗教は人を救い、人を悩ます。教団は人々に希望を与え、そして人々をコントロールする。

 大抵の場合、信仰は知性を眠らせることで維持される。何らかのやり甲斐や張り合いを信者は自己実現と錯覚する。エキストラから端役(はやく)に昇進したようなものだろう。そして懐疑の刀を抜いた者は教団内で居場所を失う。コミュニケーションが拙いためだ。中途半端な視線の高さは背伸びした位置と変わりがない。もどかしい言葉が相手に伝わらないため、懐疑が智慧に至らず疑心暗鬼にとどまることも多い。その孤独に耐えられず再び中途半端な信仰で惰性のレールを歩む。

 そもそも宗教とは何か?

Q――神の崇拝が真の宗教ではないでしょうか。

 最初に、何が宗教では【ない】のかを見出しましょう。それが正しいアプローチではないですか。何が宗教では【ない】のかを理解できるなら、そのときはたぶん他の何かを知覚しはじめるでしょう。それは汚れた窓を拭き清めるのに似ています。そこからとても明確に見えはじめます。では、宗教ではないものを理解して、心から拭き取りましょう。「考えてみよう」とか言って、ただ言葉をもてあそぶだけではいけません。たぶん君にはできるでしょう。しかし、大人たちのほとんどはすでに囚われています。宗教ではないものに安楽に納まって、動揺したくはないのです。
 それで、何が宗教ではないのでしょう。考えたことがありますか。宗教とみなされているもの――神や他のたくさんのものへの信仰については何度も何度も言われてきたでしょう。しかし、何が宗教では【ない】のかを見出すようにとは誰も言ったことがありません。そして、今、君と私は自分自身で見出してゆきましょう。
 私や他の誰かの話を聴くときでも、言われることを単に受け入れないで、よく聴いて、問題の真相を識別するのです。何が宗教でないのかをひとたび自分で知覚できるなら、そのときは宗教家や本も君を生涯欺けないし、恐怖感が幻想を生んで、幻を信じたり、幻に従ったりすることもないでしょう。何が宗教ではないのかを見出すには、日常のレベルから始めなくてはなりません。そこから登ってゆけるのです。千里の道も一歩からです。最初の一歩が最も重要な一歩です。それでは、何が宗教ではないのでしょうか。儀式は宗教でしょうか。何度も何度も礼拝(プージャ)を行う――それが宗教でしょうか。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

 インドは精神大国であり宗教大国でもある。経済発展を遂げる現代にあっても尚、苦行にいそしむ修行者が存在する。インダス文明(紀元前2600年-紀元前1800年)の頃から瞑想が行われ、その後ヒンドゥー教と仏教がせめぎ合い、豊穣なる大地は混沌とした精神のジャングルを形成した。悠久の大河ガンジス川では沐浴する人々と流された遺体が行き交う。

 10代の少年少女が繰り出す質問に対してクリシュナムルティは問い返す。「何が宗教では【ない】のか?」と。背理法的なアプローチといってよい。疑うことは自立に支えられている。幼児は母親を疑うことを知らない。そして大いなる疑問が大いなる答えを導く。ゆえに「最初の一歩が最も重要な一歩」となる。エベレストを目指す一歩と近所を散歩する一歩は、同じ一歩でも中身が違うのだ。覚悟と決意を欠いた一歩は風雨をはねのけることができない。

 クリシュナムルティは問う。「儀式は宗教でしょうか?」。儀式は形式である。形式は宗教ではない。民俗宗教においてはコミュニティを維持する目的で宗教性よりも儀式性が重んじられたと考えられているが、言葉と政治が発達すれば儀式は祭りに格下げされる。宗教と儀式がセットであるのは確かだが、儀式そのものは宗教ではない。

 真実の教育とは、【何を】考えるのかではなく、【どのように】考えるのかを学ぶことなのです。どのように考えるのかを知って、本当にそうする力があるのなら、そのとき君は自由な人間で、教義や迷信や儀式から自由です。したがって、何が宗教かを見出すことができるのです。

 宗教に束縛された精神は宗教を見出せない。何と鋭い指摘であろうか。ここでいう「自由」とは依存の不在をも意味している。

 明らかに、儀式は宗教ではありません。なぜなら、儀式を執り行うときには、受け継がれてきたしきたりを単に反復しているだけですから。儀式を執り行うときには、ある種の楽しみは見つかるでしょう。ちょうど、他の人が酒やタバコにそれを見出すように、です。しかし、それが宗教でしょうか。儀式を執り行うとき、君は何も知らないことをしています。お父さん、おじいんさんがそうします。そのため君もそうします。しなければ彼らは叱りつけるでしょう。それでは宗教ではないでしょう。

 クリシュナムルティの利剣が伝統と常識をバッサリと斬り捨てる。「儀式に込められた精神性」といえば聞こえはよいが、儀式という形式が精神性を失わせることもまた確かなのだ。儀式は過去に依存している。伝統は宗教ではない。芸能である。

 そして、寺院には何があるのでしょう。人間が自分の想像に任せてこしらえた彫像です。その像は象徴なのかもしれません。しかし、それでも単なる像であり、本当のものではありません。象徴や言葉はそれが表現しているものではありません。「ドア」という言葉はドアではないでしょう。言葉はそのものではありません。寺院に行って、礼拝します。何をでしょう。象徴とされる像を、です。しかし、象徴は本当のものではありません。それなら、どうしてそこへ行くのでしょう。これらのことは事実です。私は非難していません。そして、これらが事実である以上、誰が寺院に行くのか、それが不可触民か、バラモンか非バラモンかということでどうして悩むのでしょう。誰が気にするでしょう。大人たちは象徴を宗教にし、そのためにけんかをし、闘って、虐殺しようとしていますね。しかし、そこには神はいないのです。象徴には決して神はありません。それで、象徴や像の崇拝は宗教ではないのです。

 神学論争の瑣末さは微塵もない。骨太のテーマを次々と叩きつけることで、宗教の方が音(ね)を上げるのではないか。そんな気にさえなる。言葉は概念であって実体そのものではない。言葉はコミュニケーションのツールであって、双方が頭の中で翻訳しながら意味をまさぐっているのだ。だから時に誤解が生じる。

 神という言葉は神そのものではなく、マンダラは宇宙そのものではない。ここはビックリマークを100個くらい付けたいところだ。

 そして、信仰は宗教でしょうか。これはもっと複雑です。私たちは近くから始めました。今は、もう少し先に進みましょう。信仰は宗教でしょうか。キリスト教徒はある方法で信じ、ヒンドゥー教徒は他の方法で、イスラム教徒はさらに他の方法で、仏教徒もさらに他の方法で信じていて、みんな自分たちをとても宗教的な人間だとみなしています。みんなおのおのの寺院や神、象徴や信仰を持っています。それが宗教でしょうか。神やラーマ(※古代インドの国民的叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公)やシーター(※前に同じ)やイーシュヴァラ(※自在天・自在主。ヒンドゥー教三大神の一つであるシヴァの異名)やそのようなものを信じているとき、それが宗教でしょうか。なぜそんな信仰を得たのでしょう。お父さんやおじいさんが信じているから、君も信じます。あるいは、シャンカラ(※紀元700-750年頃のインドの宗教哲学者。ヴェーダーンタ学派における不二一元論の開祖。宇宙の根本原理ブラフマンの知識による輪廻からの解脱を説いた)やブッダのような師の言ったとされる言葉を読み、それを信じて、真実だと言います。あなたたちのほとんどはギーター(※『バガヴァッド・ギーター』。古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の一部をなす宗教哲学的詩篇)の言うことを信じているだけで、そのために他のどんな本でもするように、単純明快にそれを検討してみません。何が真実なのかを見出そうとしないのです。

 信仰も宗教ではない。信じる行為が宗教であればマルチ商法も宗教たり得る。「わからない」から「信じる」のだ。大乗仏教では信解(しんげ)、智解(ちげ)などと使い分けているが、こんなものはまやかしだ。そんな専門用語は世間じゃ誰も使っていない。「理解」だけで十分だ。

 1+1=2であることがわからなければ、信じることが正しいのだろうか? 社会機能としては正しいかもしれないが、それでは「反応を強いられる」ことになる。お手をさせられる犬と変わらない。信仰とは犬になることなのだろうか? 御意。神はエサを下さるのだから。

 我々が信仰と考えていることの殆どは伝統と過去に依存するものだ。教義といっても所詮「他人の言葉」にすぎない。虎の威を借る狐と聖書を振りかざす牧師はよく似ている。既に示された通り、言葉が象徴である以上、教義は宗教そのものではあり得ない。真の宗教性はもっと深い位置に存在するのだ。

 儀式は宗教ではなく、寺院に行くことは宗教ではなく、信仰は宗教ではないことはわかりました。信仰は人々を分断します。キリスト教徒は信仰を持ち、そのために他の信仰の人たちからも、自分たちの中でも分裂しています。ヒンドゥー教徒は自分たちをバラモンや非バラモン、ああだ、こうだと信じているために、永久(とわ)に憎しみでいっぱいです。それで、信仰は憎しみや分裂や破壊をもたらします。明らかにこれは宗教ではありません。

 世界中の宗教指導者はクリシュナムルティの前に頭(こうべ)を垂れるべきだ。そして潔く信者の前で謝罪するのが当然ではないか。彼らがやってきたことは修行と称して仕事を与え、寄付金を要求し、他の宗教を憎悪させ、世界をバラバラにしただけだ。

 それでは、宗教とは何なのでしょう。窓を磨き清めたなら、それは儀式を執り行うことを実際にやめ、すべての信仰を捨て、どんな指導者や導師(グル)に従うこともやめたということであり、そのとき心は窓のようにきれいに磨かれ、清らかです。そこから外がとても明確に見えるのです。像や儀式、信仰や象徴、すべての言葉、真言(マントラ)、反復、すべての恐怖心を心から拭き清めるとき、見えるものは本当のもの、時のないもの、永久(とわ)のものでしょう。それは神と呼べるかもしれません。しかし、そのためには非常に大きな洞察と理解と根気が必要です。これは、宗教とは何かを本当に探究し、それを日に日に終わりまで追及する人たちだけのものなのです。このような人たちだけが、真実の宗教とは何かを知るでしょう。残りは単に言葉を口にしているだけであり、彼らの装飾や装身具のすべて、礼拝(プージャ)や鐘を鳴らすこと――すべては何の意義もないただの迷信です。本当のものを見出すのは、いわゆる宗教のすべてに対して心が反逆しているときだけです。

 常識が瞳を曇らせる。我々の思考は「こうあるべきだ」「かくあらねばならない」でいっぱいになっている。反逆とは時代や社会の重力に抗して自らの足で立つことだ。反逆とは単独性(ただひとりあること)の異名であり、「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩む」者である。

 手放した後でつまらない荷物だったことに気づく。今の自分が大切に思っている事柄が実は不要な荷物であったりする。捨てるべきものを全て捨て去って、身も軽やかに自分自身の旅路を歩むことが宗教性に通じる。そして最後に捨てるのは「自分」だ。