・恐怖なき教育
・「愛」という言葉
「愛」という言葉は愛ではない。
【『未来の生』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1989年)】
新しいキーボードが届いた。腱鞘炎の痛みをこらえて恐る恐る入力している。
「愛」という言葉は、「愛」を指し示しているが「愛」そのものではない。言葉の本質をたった一言で見事に射抜いている。言葉に基づく思考の欺瞞性もここにあるのだ。言葉はサインでありシンボルだ。当のものではない。
「慈悲」という言葉は慈悲ではないし、「悟り」という言葉も悟りそのものではない。
@taka0316y7 イチローのプレイを見て、少しでも上達しようと練習するか、「自分はイチローにはなれない」と諦めるかの違い。と書きながら気づいたんですが、結局「プレイ」なんですよね。振る舞い、流儀、生きざま。その辺を解く鍵はインディアンにあると思います。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 2月 18
行為を欠いた言葉は観念でしかない。仮想と言い換えてもよい。思考は仮想を現実化する。仮想現実(バーチャルリアリティ)とはインターネットやゲームを指して使われることが多いが、結局は「言葉と刺激」が支配する世界を意味する。
「愛」を言葉で説明することは可能だろうか? 愛の定義は果たして「愛」なのだろうか?
「悟り」もまた同様である。ニルヴァーナ(涅槃)に至ったブッダは真理(法)を説くことをためらう。「きっと誰一人理解する者はいないであろう」と。そこにこの世界を司る梵天(ブラフマー)が訪れ、説法を勧める。「梵天勧請」といわれる故事は、「悟りを言語化することの困難さ」を示したものだろう。私はクリシュナムルティの「プロセス」体験(『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス)を通してそのような理解に至った(『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティも参照せよ)。
瞑想とは「言葉から離れ」「言葉を死なせる」行為である。思考のシャットダウンを行うことによって自我は解体され、新しい生の水脈が流れ通う。そこにしか真の現実(リアリティ)は存在しないのだろう。
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