戦争は儲かる。アメリカが戦争を始めるたびに日本は経済的な発展を遂げてきた。
・アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー
高度経済成長(1954-1973年)からバブルの絶頂(1990年)を迎えようとしたその時、オウム真理教が登場した。地下鉄サリン事件(1995年3月20日)の直前に目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件が起こった(2月28日)が、私は被害者の假谷清志〈かりや・きよし〉さんと同じ町内に住んでいた。
高学歴の若者が新興宗教に取り込まれ、凶悪な犯罪に手を染めた。メディアは色めきたった。誰もが「なぜ?」と口にした。「リアル」という言葉が持てはやされるようになったのは、この頃からだったと記憶している。犯人は宮台真司か。
経済がズタズタになるのと同時に、引きこもり、パラサイト・シングル、ニートが増殖し始めた。当初は現実を拒否する若者たちという括(くく)り方をしていた。
バブルに酔い痴れているうちに人々は生(せい)のリアリティを失っていった。金で手に入るものは全てが虚構であった。ふと気づけば終身雇用が崩壊し、リストラされていた。
資本主義経済というゲームをしているにもかかわらず、日本はいたずらに20年もの歳月を失い続けた。そして東日本大震災に見舞われた。突きつけられたのは「死のリアリティ」であった。
本書は選集である。初心者には不向きだ。翻訳が読みやすいため、何となくわかったような気になるところが危ない。少なくとも10冊以上は読んでから臨みたい。
なぜ私たちは生きているのか?
質問者●私たちは生きていますが、なぜ生きているのかはわかりません。私たちの大多数には、人生は意味をもたないように思われます。私たちの人生の意味と目的を教えていただけませんか?
クリシュナムルティ●今なぜ、あなたはこの質問をされるのですか? なぜあなたは私に人生の意味、人生の目的をたずねているのでしょう? 人生という言葉で何を指しておられるのですか? 人生は意味を、目的をもつのでしょうか? 人生はそれ自体が目的であり、意味なのではありませんか? 私たちはなぜそれ以上のものを求めるのでしょう? 私たちは自分の人生にたいそう不満なので、人生があまりにも空虚なので、あまりに安っぽく、単調で、同じことを繰り返し繰り返し何度もやっているので、何かそれ以上のものが、私たちがしていることを超えるものがほしくなるのです。自分の毎日の生活があまりに空虚で、味けなく、あまりに無意味、退屈で、たえがたいほど馬鹿げているので、私たちは人生はもっと豊かな意味をもたねばならないと言い、それであなたはこういう質問をされるのです。たしかに豊かな生活をしている人、ものごとをありのままに見て、自分がもっているものに満足している人は、混乱していません。彼は明快なので、だから人生の目的とは何かとはたずねません。彼にとっては、生活そのものが始まりであり終わりなのです。
私たちの困難は、ですからこういうことです。生活が空虚なので、私たちは人生に目的を見つけたいと思い、そのために苦闘するのだと。そのような人生の目的は何のリアリティももたない、たんなる頭の先の観念にすぎません。人生の目的が愚かな、鈍い精神、空虚な心によって追い求められるとき、その目的もまた空虚なのです。それゆえ私たちの目的は、どのようにして自分の生活を豊かにするか、お金その他の物によってではなく、内面的に豊かにするかということです。それは何か神秘的なことではありません。あなたが人生の目的は幸福になることだと言うとき、その目的は〔たとえば〕神を見出すことです。が、その神を見出したいという願望は、実は人生からの逃避であり、あなたの神はたんなる既知のものでしかないのです。あなたはあなたが知っている物の方に進めるだけです。もしもあなたが神と呼んでいるものに向かって梯子をかけるなら、たしかにそれは神ではありません。リアリティは逃避の中でではなく、生きることの中でだけ理解されうるのです。人生の目的を追い求めるとき、あなたは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。人生とは関係です。人生とは関係の中における行為です。私が関係を理解しないとき、あるいは関係が混乱しているとき、そのときに私はより豊かな意味を求めるのです。なぜ私たちの人生はこうも空虚なのでしょう? 私たちはなぜこんなにも寂しく、欲求不満なのでしょう? それは私たちが自分自身を深く見つめたことが一度もなく、自分を理解したことがないからです。
【『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2005年)】
原書は『クリシュナムルティ著作集』(邦訳未刊)。「あなたはだれ?」「世界はどこから来たの?」で知られる『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ゴルデル著、NHK出版、1995年)が本国ノルウェーで出版されたのが1991年のこと。日本では一気に自分探し、自己実現ブームが起こり、現在にまで至っている。
クリシュナムルティの言葉は我々を混乱させる。というよりは「混乱している我々の思考」を炙(あぶ)り出す。「なぜ生きるのか?」との問いは、生きるに値せぬ現実から生じる。摩擦、混乱、違和感が孤独へ結びつくと、人は世界から拒絶されたような心境になる。
「周囲から大事にされない」事実が、「いてもいなくてもいい存在」へと追いやる。彼は歩いているのではない。倒れそうになる身体を連続的に支えているだけなのだ。そしてリストラや離婚が子供たちに深刻な影響を与えた。
資本主義経済の競争原理は一切を手段化する。幸福は資本の獲得に収斂(しゅうれん)される。ゲームで問われるのは資本という点数のみである。
少し質問を変えてみよう。「なぜ私たちは働くのか?」。答え――「食うため」。ハッハッハッ(笑)。おわかりだろうか? 我々は「生きるために食べる」のではなくして、「食べるために生きている」のだよ。何という本末転倒であろうか。「なぜ私たちは起床するのか?」「会社へ行くためだ」(笑)。
最後の部分はクリシュナムルティの縁起論といってよい。ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。
最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。
ブッダもクリシュナムルティも「対話の人」であった。つまりコミュニケーションにこそ生の本質があるのだ。「私」という自我意識が消失した瞬間、そこには関係性しか存在しない。
・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
・縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ