2011-12-21

縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ


自由の問題 1
自由の問題 2
自由の問題 3
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
教育の機能 1
教育の機能 2
教育の機能 3
教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
宗教とは何か?
無垢の自信
真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

 ランスケさんとの出会いは、レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』によってであった。一冊の本を通して人と人とが邂逅(かいこう)する。何と不思議なことか。最初にコメントがあり、ランスケさんのブログで私の記事を紹介していただいた。

「ルワンダ大虐殺」及び「ルワンダの涙」

 我がブログは反応らしい反応が乏しいこともあって、大変ありがたかった。また私が綴る諸法無我についても敏感に応じてくださった。感受性の鋭い人は侮れない。彼の文章に私も思うところがあった。

 そこで議論、というよりは私自身の考えを確認する意味でこの一文を書いておこう。

 諸法無我という言葉(キーワード)が、重苦しい閉塞感の先に光明を見出す切っ掛けとなるだろうか?
 自我という実体が幻想なら、私という記号は人やモノとの関係性のなかで常に変化するのなら、
 私は「自我の地獄」から解放される。
 それは地球上のすべての生物種がそうであるように、
 人も生命の循環のなかに組み込まれた一つの生物種であることの証明だろう。
 人だけが自我という主体を持つ別個の存在という発想の方が歪に思えてくる。
 その関係性は「縁起」であり「慈悲」へと辿り着くのなら、これは幸福のかたちではないだろうか?

Landscape diary ランスケ ダイアリー

「自我の地獄」とは言い得て妙である。「地」は最低を意味し、「獄」には束縛の義がある。我々は生命を自我に閉じ込めてしまった。

 欲望を巡って幸不幸が位置する。大衆消費社会における幸福とは欲望の充足である。矢沢永吉は「愛も金で買える」と嘯(うそぶ)いてみせた(『成りあがり』)。

 で、欲望は「私」に基づいている。もう一歩踏み込もう。私とは「私の欲望」である。

 自我は版図(はんと)の拡大を目指す。我々がこれほど所有に執着するのは、所有物をもって自我を延長・拡大するためと考えられる。財産はもとより学歴、家柄、氏素性に至るまで他人との差別化を図れるものは全て自我に収束される。

 人が権力に憧れる理由もここにある。より多くの大衆を「手足のように」コントロールするところに権力の本質がある。男性にメカマニアが多いのも頷ける。機械は正確に応答するからだ。拳銃は機能性や様式美もさることながら、離れた場所に位置する人物の生殺与奪を決定する力が男の本能に強く訴えるのだろう。

 縁起=諸法無我とは具体的にいえば「コントロール性から離れる」ことを意味する。仏典では権力に潜む魔性を「第六天の魔王」と説く。これを略して天魔と称する。第六天とは有頂天のこと。天は人間界の上に位置する。別名を「他化自在天」(たけじざいてん)とも。他人を化すること自在というのが権力現象とってよい。

 これは本能に基づいたコミュニティがヒエラルキー構造を避けられないことを示していると思う。ブッダが生まれる以前からカースト制度は存在した。それゆえ弱肉強食からの超脱と考えることも可能だろう。

 もう一つ付け加えておくと、仏法が理解されにくいのは我々が幸福を求めるのに対して、ブッダは苦からの解放を説くという微妙な擦れ違いがあるためだ。厳密にいえばブッダが教えたのは幸福になる道というよりは、自由への直道(じきどう)であった。

 前置きが長すぎた。本論に入ろう。

 ただし、私は縁起は人との関係性を含むと思います。世界との繋がりは、生けるもの全てを呑みこんだ連綿と続く循環だと信じたい。

Landscape diary ランスケ ダイアリー:コメント欄

 私は次のように書いた。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 また次のようにも書いた。

 最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 大抵の人間関係は自我に基づいている。国家とは自我である。アイデンティティを規定するのは所属である。「私」が空虚であれば、最終的にしがみつくものは国家しかない。すなわち「私は日本人である」ということが自我の規定となる。

 大阪高等学校寮歌に「君が愁いに我は泣き 我が喜びに君は舞う」との美しい一節がある。かくの如き友情でありたいと私も願う。だが醒めた目で見つめると、その同一性、一体性が戦争の原因ともなり得ることに気づく。

 私が32歳の時、わずか半年の間で6人の後輩を喪ったことがある。文字通り涙が涸(か)れるまで泣いた。その後私は泣くことができなくなったほどである。それこそ身体の一部をもぎ取られるような感覚に陥った。ご家族の哀しみは想像にあまりある。私は彼らの死を力任せに引きずって生きてきた。彼らは私の胸で生き続けた。

「生きとし生けるものは必ず死ぬ」――そんな当たり前の真理に目をつぶりながら賃金を得るため身を粉にして働き、どうでもいいものに金をかけ、刺激を求めることに余念がなく、人の役にも立たない趣味にうつつを抜かし、のんべんだらりとブログを綴っているという寸法だ(※最後のは私のことね)。

諸君は永久に生きられるかのように生きている/『人生の短さについて』セネカ

 そして自我に基づいた人間関係は必ず依存へと向かう。

 現在、自由というようなものはないし、私たちはそれがどのようなものかも知りません。自由にはなりたいけれども、気づいてみると、教師、親、弁護士、警察官、軍人、政治家、実業家と、あらゆる人がおのおのの小さな片隅で、その自由を阻むことをしています。自由であるとは単に好きなことをしたり、自分を縛る外の環境を離れるだけではなく、依存の問題全体を理解することなのです。依存とは何か、知っていますか。君たちは親に依存しているのでしょう。先生に依存して、コックさんや、郵便屋さん、牛乳を届けてくれる人に依存しています。このような依存はかなり簡単に理解できるのです。しかし、自由になる前に理解しなくてはならない、はるかに深い種類の依存があるのです。つまり、自分の幸せのための、他の人に対する依存です。自分の幸せのために誰かに依存するとはどういうことか、知っていますか。それほどに人を縛るのは他の人への単なる物理的な依存ではなくて、いわゆる幸せを招来するための、内面の心理的な依存です。というのは、誰かにそのような依存をしているときには、奴隷になってゆくからです。年をとるなかで、親や妻や夫や導師(グル)、ある考えに情緒的に依存しているなら、すでに束縛が始まっているのです。私たちのほとんどは、特に若いときには自由になりたいと思うけれども、このことを理解していないのです。
 自由であるには、内的なすべての依存に対して反逆しなくてはなりません。そして、なぜ依存するのかを理解しなければ、反逆はできないでしょう。内的な依存のすべてを理解して、本当に離れてしまうまで、決して自由にはなれません。なぜなら、その理解の中にだけ自由はありうるからです。しかし、自由は単なる反動ではありません。反動とは何か、知っていますか。もし私が君を傷つけるようなことを言ったり、悪口を言うなら、君は私に対して怒るでしょう。それが反動で、依存から生まれた反動です。自立はさらに進んだ反動です。しかし、自由は反動ではありません。反動を理解して、それを超えるまで、決して自由ではないのです。
 君たちは、人を愛するとはどういうことか、知っていますか。樹や鳥やペットの動物を愛するとはどういうことか、知っていますか。何も報いてくれないかもしれないし、木陰を作ってくれたり、ついてきたり、頼ってくれたりしないかもしれないけれども、世話をし、餌をやり、大事にするのです。私たちのほとんどはそのように愛していないし、私たちの愛はいつも心配や嫉妬や恐怖に閉ざされているために、それがどういうことかもまったく知りません。それは、私たちが内的に人に依存していて、愛されたがっているということを意味しています。私たちはただ愛して、放っておかず、何か報いを求めます。そして、まさにその求めることで、依存するのです。
 それで、自由と愛は伴います。愛は反動ではありません。君が愛してくれるから愛するのでは、単なる取り引きで、市場で買える物なのです。それでは愛ではありません。愛するとは、何の報いも求めないし、与えていることさえも思わないことなのです。そして、自由を知りうるのはそのような愛だけです。しかし、君たちはこのための教育を受けていないでしょう。君たちは数学や化学や地理や歴史の教育を受けて、それで終わりです。なぜなら、親の唯一の関心は、君たちがよい仕事を得て、人生で成功するように助けることですから。親がお金を持っているなら、君たちを外国に行かせてくれるかもしれません。しかし、親のすべての目的は世間と同じで、君が豊かになり、社会の中で立派な地位を得ることなのです。そして、上に昇れば昇るほど、君たちは他の人々にもっと多くの悲惨を引き起こします。なぜなら、そこにたどり着くために競争し、非情にならなくてはならないからです。それで、親は野心と競争があり、まったく愛のない学校に子供を送ります。そのために、私たちのところのように社会は絶えず腐敗してゆき、絶えまない闘いの中にあるわけです。そして、政治家や裁判官、いわゆる土地の貴族が平和について語っても、何の意味もないのです。
 そこで、君と私はこの自由の問題全体を理解しなくてはなりません。愛するとはどういうことかを自分自身で見出さなくてはなりません。なぜなら、愛していなければ、決して思慮深く、注意深くなることはできないからです。決して思いやることができないからです。思いやるとはどういうことか、知っていますか。大勢の素足が歩く道に尖った石が落ちているのを見たら、それをどけるのです。頼まれたからではなく、他の人を気づかうのです。その人が誰であろうと問題ではありません。その人にはまったく会わないかもしれません。木を植えて大事にしたり、河を見て地球の豊かさに歓喜する。飛んでいる鳥を観察し、その飛翔の美しさを見る。この生というとてつもない動きに敏感で、開いている――これらには自由がなくてはなりません。そして、自由であるには、愛さなくてはなりません。愛がなければ自由はありません。愛がなければ自由は単に、まったく価値のない考えにすぎません。それで、自由がありうるのは、内なる依存を理解して離れ、そのために愛とは何かを知る人だけなのです。そして、新しい文明、違う世界をもたらすのは、彼らだけでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 同一化とは依存であり、依存は形を変えた所有である。そして自我は蓄積物でいっぱいになる。

あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 2年前に父が死んだ。まともに会話をするようになったのは私が結婚してからのことだった。「もう少し……」という思いは確かにある。もう少し教えてもらいたかったこともあるし、もう少し親孝行もしたかった。だが父は死んだ。私は生きている。私は父と共に生きている。やがて私も死ぬ。

 我々は自分の周囲の死を嘆き悲しむ一方で、他人の死を深く心にかけることがない。世界が不幸に覆われている原因はその辺りにあるのだろう。



Krishnamurti with Students, Rishi Valley, India.

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

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