・世界中の教育は失敗した
・手段と目的
・理想を否定せよ
・創造的少数者=アウトサイダー
・公教育は災いである
・日本に宗教は必要ですか?
・目的は手段の中にある
面白い動画があったので紹介しよう。
問題はこの問いを「誰が」発しているのか、である。番組内ではムスリムとクリスチャンだ。つまり、「宗教が必要だ」と説く人物は宗教者に限られる。
彼らは当然の如く宗教を語る。だが肝心なことが抜け落ちている。宗教の定義が示されていない。ま、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)にとっては聖典ということになるのだろう。すなわち「教義」である。
数千年間にわたって続いたから、それを「正しい」とするのであれば、最も正しい人類の行為は「戦争」ということも可能だ。確かに教義は変わらないかもしれないが、「解釈」は時代によって変わる。そして思想的に袂を分かった人々が分派を形成するのが宗教の歴史であった。
よく考えてみよう。宗教は教義とそれに基づく行為と考えられているが実際は違う。いかなる宗教であれ、人々を支配しているのは教団である。そして教団が勢力の拡張を目指すところにプロパガンダが生じる。布教とはマーケティング、宣伝、顧客開拓の異名だ。教義に基づくはずの信仰が、教団の政治性に取り込まれているのが実態だ。
教義は言葉にすぎない。言葉は人間にとってコミュニケーションの道具であり、翻訳機能として働く。同じ言葉であっても、人によって意味が微妙に異なるものだ。それゆえ対話とは互いに歩み寄りながら、言葉を手掛かりにして心を探る行為といってよい。
我々は衝撃を受けると「言葉を失う」。あるいはモヤモヤした思いや不安は「言葉にならない」。もの凄いありさまは「筆舌に尽くし難い」。結局、言葉は氷山の一角であり、象徴(シンボル)にすぎないのだ。
言葉で織り成されるのは「思考」である。「悟り」から生まれた宗教が思考の範疇(はんちゅう)に収まるわけがない。簡単な例を示そう。美しい夕焼けを見て、何も考えられなくなるほどの感動を覚えたことは誰しもあるだろう。その光景や感動を「言葉で表現する」ことは可能だろうか? ま、不可能だわな。感動を伝えるのは、あなたの興奮の度合いを示す表情や顔つき、身振り手振りであって、言葉ではない。
じゃ、もう一つ例を挙げるよ。あなたは自転車の乗り方を言葉で説明できるだろうか?
・論理ではなく無意識が行動を支えている/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
とすると、悟りを説明することには限界があると考えるべきだろう。これが「教義の限界」だ。
宗教は組織化された信念ではありません。宗教は真理の探究ですが、それはいかなる国のものでも、いかなる組織化された信念のものでもなく、それはいかなる寺院、教会、あるいはモスクの中にもありません。真理の探究なしには、いかなる社会も長くは存続できないのです。そして真理が存在していないかぎり、社会は必然的に災いを起こすのです。
【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】
「組織化された信念」とは教団性と言い換えてよい。教義に依存し、教団に隷属する宗教は、党の方針に従う政治と瓜二つだ。
宗教者は「宗教を疑う」ことを知らない。このため論理的な整合性を無視して「信じる」ことで超越する。破綻する論理を信じることで、人格も破綻してゆく。ここから差別が芽生えるのだ。信じる者と信じない者とを分け隔て、冷酷さや暴力性が瀰漫(びまん)しはじめる。
キリスト教とイスラム教を見よ。彼らは自分たちの歴史を反省することができない。侵略に次ぐ侵略、女性蔑視、性への偏見、同性愛者の抑圧、奴隷制度、魔女狩りなど、その残虐性は類を見ないほどだ。
かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。この事実が宗教の無力さを証明している。歴史的な宗教は権力者にとっては抑圧の道具として効果を発揮した。
真の宗教は自由を目指す。教団に所属することが信仰ではない。単独であることの至福が宗教なのだ。
・ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
・党派性
・偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル