「偶像崇拝」について書こうとしていたのだが、色々と調べているうちにこちらを先に紹介する必要が生じた。ま、人生が旅のようなものであるなら、なにも目的地を目指して最短距離をゆくこともあるまい。寄り道こそが旅を豊かにするのだから。
岡本浩一の著作には注意を要する。極めて説明能力が高いにもかかわらず、低俗な結論に着地する悪い癖があるからだ。たぶん野心に燃えている人物なのだろう。社会秩序に寄り添うような考え方が目立つ。だから、批判力を欠いた人には不向きだ。読書会のテキストなどに向いていると思われる。
本書の中で属人主義と属事主義というキーワードが出てくる。
最後に、とくに日本の職場風土の問題として顕在性が高いと著者が判断する、二つのトピックを「無責任の構造」の病理としてとりあげる。権威主義と属人主義である。権威主義は、社会心理学で多くの研究がなされて熟した用語であり、属人主義は、著者が評論などで用いている著者の造語である。権威主義は、国籍、文化に特定されず、広く見られる問題であるが、属人主義は、権威主義の日本的な現れ方の代表的なものだと考えればよいだろう。
この二つは、日本の職場風土において、「無責任の構造」への服従を強いるとき、あるいは、盲従を宣揚するときに、その文法構造として機能する。その文法構造は、会議の発言や政策という具体的な形以外にも、目立たない形でなかば無意図的に用いられていることがある。稟議などの形式や、回覧順、書類の欄の構成、会議の席順、発言順、書類やお茶を配る順など、非言語的で非明示的なところにまで、権威主義、属人主義が紋切り型に浸透していることがある。「無責任の構造」を自覚し、そのなかで、良心を維持するということは、このようなところにまで浸透している権威主義や属人主義をも自覚することなのである。
【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)以下同】
つまり、「誰が」言ったか、「誰が」行ったかという視点が属人主義である。
ネーミングとしてはよくない。なぜなら法律用語として別の意味があるからだ。私がアメリカ国内で犯罪をおかしたとする。この場合に日本の法律を適用するのが属人主義で、米国法を適用することを属地主義という。
そもそも属人的視点あるいは価値観というべき性質であって、「主義」とは言いがたい。
「属事主義」とは、私の造語である。ことがらの是非を基本としてものを考えるのを属事主義と呼ぶことにした。
話した「内容」、行った「事柄」に注目するのが属事である。
属人と属事を一言で表せば「人」と「事」ということになる。このどちらに注目するか?
本書は権威について書かれた本なので、当然の如く属事的な判断ができないところに組織崩壊の原因があるとしている。確かにそうなんだが、これでは足し算・引き算程度の計算である。
(※属人主義的情報処理のもとでは)誰かが自分の意見を支持してくれると、意見の正邪による発言とみなさず、「自分の味方をしてくれた」という対人的債務のようにみなす風土が発生することが少なからずある。そうすると、その相手が、今度、間違った意見を言っているときでも、「彼にはこのあいだ自分の意見を支持してもらった借りがある」という理由で、間違ったことがわかっていながら、支持を「返済する」ということが起こる。同様に、自分の意見を支持してくれなかった相手に、不支持による報復をするということも起こるわけである。
「対人的債務」というのは絶妙な例えだ。恩の貸し借り。結局、コミュニティ内部の同調圧力と権威が織り成すハーモニーが「服従」の曲を奏でるのだろう。
私が民主主義を信用できないのは、判断材料が乏しいことと、人間の判断力に疑問を抱いているからである。高度情報化社会となると、メディアから垂れ流される恣意的な情報によって一票を投ずるしかない。現状はといえば、好き嫌いや損得で判断している人が多いのではなかろうか。だからこそ、恩の貸し借り=票の貸し借りみたいな情況がいつまで経ってもなくならないのだ。
そして一番肝心なことは、誰人に対しても「そんな投票の仕方は間違っている」と言う資格はないのだ。いかなる判断を行使しても構わないし、投票へ行かないのも自由だ。
大体、政治に「正しさ」を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。「国益こそ正義」なあんてことになったら大変だ。
私は民主主義に不信感を抱く一方で、政党政治を心の底から嫌悪している。ああ、そうだとも。でえっ嫌いだよ(←江戸っ子下町風)。党議拘束で自由な意見を封ずる政党政治は、属人主義というよりは属党主義である。「何でも党の言いなりになるんじゃ、党の犬と言われても仕方がないよ」と告げたら、彼らは「ワン」と返事をすることだろう。
そう考えると国民は属国主義となりますな(笑)。マイホームパパは属家主義。
でもさ、自我を支えているのって実は帰属意識なんだよね。
属人主義的な感覚の人は、善悪などの判断も、じつはかなりの程度に対人依存していると考えてよい。つまり、もしあなたが属人主義なら、いまの職場に「『無責任の構造』がある」と考えて苛立つあなたの義憤そのものが、職場でかつて実力派閥だったグループの考え方を受けているだけのものであったり、あるいは、いま、職場を牛耳っているとあなたが感じているグループに対する反感が核になっているだけのものである可能性がある程度以上に高い。
コミュニティ内部の敵味方意識が反対意見を排除する。このため組織というネットワークは必ず人々を隷属させる方向へと進む。ピーターの法則によれば、無責任どころか無能へ至るのだ。
・残酷なまでのユーモアで階層社会の成れの果てを描く/『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル
岡本はあとがきにこう記している。
真摯な判断を目指す人は、自己の選択が「良心的」であるかどうか日々懊悩しては懐疑し、葛藤するものだから、真摯であればあるほど、「自分が良心的だ」という自信からは遠ざかるはずである。
「自分が良心的な人間だ」などと公言できる人は、「良心」の基準がよほど甘いか、現実の複雑な厳しさに気がつかないほど脳天気な人なのだ。この種の公言が、真に良心的たり得ぬ人物の第一条件であるのは、「嘘をついたことがない」という公言がその公言そものを裏切っている無自覚と似ている。
文章は上手いのだが、正義と善を混同している節が窺える。正義は立場に基づいている。泥棒にとっては盗むことが正義だ。資本家にとっての正義は金儲け(搾取)であろう。ビンラディンを殺害することがアメリカの正義で、そのアメリカに報復するのがアルカイダの正義だ。正義は集団の数だけ存在する。一方、善は異なる。善というのは万人にとって望ましい価値を意味するのだ。
属事的判断は大変重要ではあるが、実践するのは至難である。それから、詐欺師だってもっともらしいことを言うのだから言葉を過信するのも危険だ。
・権威主義と属人主義
・脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
・民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル