2011-07-23

死刑と殺戮の覚え書き


米国で20年ぶり死刑執行をビデオ撮影、残虐性検証のため

 米ジョージア(Georgia)州で21日夜、死刑囚の刑の執行が約20年ぶりにビデオ録画された。
 地元メディアによると、両親と妹を殺害したとして有罪となったアンドルー・デヤング(Andrew Grant DeYoung)死刑囚は、現地時間午後8時4分(日本時間22日午前9時4分)に薬物注射による刑を執行された。
 ビデオ撮影を求めたのは、やはり同州で死刑判決を受けたグレゴリー・ウォーカー(Gregory Walker)死刑囚の弁護団。
 米国の一部の州では、死刑執行に使用する薬物として、入手が困難なチオペンタールナトリウムの代わりに、動物の安楽死に使われるペントバルビタールの使用を認めている。しかし、ペントバルビタールの使用には残虐だとの批判があり、ウォーカー死刑囚の弁護団は残虐性の検証のため撮影を要請し、州最高裁の許可を得ていた。
 米死刑情報センター(Death Penalty Information Center)代表は、「死刑執行の際に何が起きているのか、公開される情報は非常に限られている。ビデオ撮影によって、一般の人も何らかの知識が得られると思う」と語っている。

AFP 2011-07-22



米国の死刑、執行失敗例では中世並みの悶絶

※この記事はショッキングな表現を含んでいますのでご注意ください

 米国の死刑といえば、医学処置による人道面にも配慮したものだと思われているが、ときに中世の拷問とも違わぬ陰惨な最期を悶絶しながら遂げる死刑囚もいる。
 絶叫、体が焦げる匂い、あまりの残酷さに立会人たちは気絶する……「犬猫の殺処分のほうがもっと人道的です」。1992年にアリゾナ(Arizona)州で死刑に立ち会った記者カーラ・マックレーン(Carla McClain)は語った。このとき刑を執行されたドナルド・ユージーン・ハーディング(Donald Eugene Harding)死刑囚は、ガス室のなかで死ぬまで10分以上、のたうちまわり、もがき苦しんだ。

◆針刺し18回、2時間かけても注射できず

 9月、ローメル・ブラウン(Romell Brown)死刑囚の刑執行では、致死薬注射が試みられたが、針を刺すのに連続18回失敗し、ブラウン死刑囚は執行室から生還した米史上2番目の死刑囚となった。執行官らが2時間かけてもうまく注射できず、オハイオ(Ohio)州当局が執行中止を命じたのだった。
 過去25年間、米国で死刑に処された者のうち、執行の失敗で苦しんだ者は少なくない。肉を焦がされた者、血でシャツが真っ赤に染まった者。立ち会った人びとが、苦悶する死刑囚を目撃することもしばしばだ。
 1999年、フロリダ(Florida)州最高裁のリーンダー・ショー(Leander Shaw)判事は、電気椅子で処刑されたアレン・リー・デービス(Allen Lee Davis)死刑囚の写真を見ておののき、「そのカラー写真には、どこから見ても、フロリダ州民に残酷な拷問を受け、死に至った男の姿が映っていた」と書いた。
 デービス死刑囚は、約160キロの彼の体躯(たいく)にあわせてしつらえられた特製の電気椅子にくくりつけられていた。処刑が執行され死を宣告されるまでに、口からあふれ出した血が白いシャツにぐっしょりとこぼれ、電気椅子に彼を縛り付けていたストラップのバックルの穴からもしたたっていた。

◆電気椅子ではなく火あぶり? ガス室の執行官は酔っ払い

 コロラド大学のマイケル・ラデレット(Michael Radelet)教授は、米死刑情報センター(Death Penalty Information Center)と共同で、執行に立ち会いを求められた目撃者らから40件以上の失敗例に関する証言を集めた。
 恐怖の失敗例は、現在米国で執行に使用されている一般的な方法、つまり電気椅子、薬剤注射、ガス殺のすべてに確認でき、そうした失敗のほとんどが人為的ミスによるものだった。
 1983年にはアラバマ(Alabama)州で、電気椅子の発火事故があった。ジョン・エバンス(John Evans)死刑囚の足に取り付けられた電極が燃えあがったのだ。左のこめかみ近くに取り付けた電極もトラブルを生じ、顔を覆っていたフードの下から煙と火花がもれ出た。執行はやり直されたが、煙と体の焦げた匂いがたちこめるなか、エバンス死刑囚の心臓はまだ動いていた。3度目のスイッチが入れられたが、エバンス死刑囚がようやく息絶えたのは、それから14分後だった。
 電気椅子による執行の失敗はその後も各地で続いた。
 ガス殺では1983年ミシシッピ(Mississippi)州で、ジミー・リー・グレー(Jimmy Lee Gray)死刑囚が恐ろしくもだえ苦しんだため、当局が立会人室から人払いするほどだった。後に、グレー死刑囚の処刑の担当執行官は、酔っていたことを明らかにした。

◆死刑囚最後の言葉「これは処刑じゃない、殺人だ」

 近年では薬剤注射は残酷だとして起こされている訴訟もいくつかあるが、全米の州では致死薬注射が最も一般的に使われており、最高裁も2008年に薬剤注射は合憲と判断している。
 しかし、33分間を苦悶したベニー・デンプス(Bennie Demps)死刑囚にとって、薬剤注射による刑は激痛をともなった。執行官らが点滴注射が失敗した場合の予備にと別の静脈を探そうとしたのだ。デンプス死刑囚は最後の言葉で「わたしはここで切り刻まれた。ものすごい痛さだ。彼らはももに切り込みを入れ、足に切り込みを入れ、血は吹き出まくっている。こんなのは処刑じゃない。殺人だ」と言い遺した。
 最近の失敗例のいくつかは、冒頭のブルーム死刑囚が処刑されたオハイオ州で起こっている。
「それじゃ、効かないよ! 効かないって」。ジョセフ・クラーク(Joseph Clark)死刑囚は2006年5月、執行官が22分かけて探し出した静脈が、注射が始まったとたんに破裂すると、すすり泣きながら叫んだ。
 1年後も、オハイオ当局はクリストファー・ニュートン(Christopher Newton)死刑囚の静脈に針を刺すのに2時間かかった。あまりに長くかかったので、ニュートン死刑囚は途中でトイレ休憩を許可された。
 米史上、死刑場から生きて戻った最初の人物は1940年代、ルイジアナ(Louisiana)州で電気椅子に座った若い黒人の男、ウィリー・フランシス(Willie Francis)死刑囚。彼は2度目、やり直された刑で死んだ。

AFP 2009-10-18

 世界一残虐な国アメリカが自国民の人権や他国の動物に配慮をするのが何とも摩訶不思議。彼らが行ってきたことを振り返ってみる必要がある。

 猟奇殺人を犯した大半はベトナム帰りの米兵だと思われる。

米兵は拷問、惨殺、虐殺の限りを尽くした/『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

魔女は生木でゆっくりと焼かれた/『魔女狩り』森島恒雄

『奴隷とは』ジュリアス・レスター

 家畜文化が奴隷を生んだ。

動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人

米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人

 人間は考える葦である。では何を考えるのか? 神の存在と神の意志だ。これを彼らは理性と名づけた。つまり、彼らの神を信じない者=異教徒は人間として認められないことになる。

 古来、西洋ではヨーロッパの外側には化け物が棲んでいると考えられていた。

コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 アフリカで黒人と遭遇し、アメリカで先住民を見つけたヨーロッパ人はヴァチカンに手紙で問い合わせた。「彼らは人間なんでしょうか?」と。回答は「ノー」であった。異教徒を殺戮するのは彼らにとって正義である。ヨシュア記で「殺せ」と命じられているからだ。

 映画『猿の惑星』の猿は日本人に模していたという。それは単なる暗喩の類いではない。

「欧米人が仕掛ける罠」武田邦彦、高山正之

 キリスト教における神と人間の絶対的な差別が、神の僕と異教徒の間に差別を形成している。我々が蝿や蚊を平然と殺すように、彼らは有色人種を殺戮してきた。白人は同じ人間だから殺すのはまずいよな、という認識でつくられたのがEUである。

Executions 1995

2011-07-22

ラマヌジャンの『ノート』


 ラマヌジャンの(※『ノート』の)結果には誤まっているものがままあった。また、彼が期待したほどの深みはないものもあったし、西欧の数学者によって50年、100年、いや200年も前に発見されていたことを知らずに再発見していたのにすぎないものもあった。しかし、その多く――ハーディのみたところ約3分の1、後の数学者の評価によれば3分の2――は、息詰まるほどの新奇性に満ちたものであった。ハーディは知った。ラマヌジャンから送られた厚い、数式だらけの手紙は、この10年にわたって『ノート』に蓄積されてきたもののごくごく一部、そう、氷山の一角にすぎなかったのだ、と。3000、いや、4000もの定理、系、例題が証明や解説のほとんどないままにページからページへ行進してゆく。まるで枝葉を切りとった人生訓のように、一行か二行の数式に数学的真実が秘められているのだ。

【『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル:田中靖夫訳(工作舎、1994年)】

ラマヌジャンの『ノート』
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン


2011-07-21

意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

 1990年、アメリカ連邦議会は「脳の10年」を採択した。ゲノムプロジェクトも同年開始。10年後にはほぼ全ての遺伝子配列が明らかになった。計画は予想よりも短期間で成し遂げられた。コンピュータ技術が劇的に進化したためだ。

 脳が作ったコンピュータが脳を解明するというのだから面白い。デジタル化によってコンピュータは並列処理を行えるようになった。計算機は一足飛びで脳に近づいた。

 脳科学は飛躍した。だが、「なぜ意識があるのか?」はまだわかっていない。そもそも「意識とは何か」も不明のままだ。「私」という現象を支えているのは意識の反応であり、それをパターン化したものが「自我」だ。

 世界は五感で構成されている。世界は「在る」のではない。ただ世界を「感じて」いるだけだ。世界は快不快、喜怒哀楽、幸不幸によって異なる。人の数だけ世界があると考えてよかろう。

 では脳は何を感受し、意識を発動するのか?

 物質系や生命系の世界の複雑さは、「深さ」、つまり処分された情報量として記述できる。最大の情報量を持つもの、それゆえに最長の記述を要するようなものには、私たちは関心を抱かない。それは、無秩序や乱雑さや混沌と同じだからだ。また、あまりに規則正しく先の読めるものにも心を引かれない。そこにはなんの驚きもないからだ。
 私たちの興味をそそるのは、歴史を持つもの、つまり、閉じて動かぬことによってではなく、外界と相互作用を行ない、途中で大量の情報を処分することによって長い間、存続してきたものだ。だから、複雑さや深さは、〈熱力学深度〉(処分された情報の量)またはそれと密接に関連した〈論理深度〉(情報の処分に要した計算時間)で測定できる。
 会話には情報交換が伴う。しかし、そのこと自体が重要なのではない。交わされる言葉にはわずかな情報しか含まれていない。肝心なのは、言葉になる前に行なわれる情報の処分だ。メッセージの送り手は大量の情報を圧縮し、情報量をごく小さくしてからそれを口にする。受け手はコンテクストから判断し、実際に処分された大量の情報を引き出す。こうして送り手は、情報を捨てることで〈外情報〉を作り出し、その結果生まれた情報を伝達し、相応量の〈外情報〉を受け手の頭によみがえらせることができる。
 つまり、言語の帯域幅(毎秒伝達できるビット数)はいたって小さい。毎秒せいぜい50ビット程度だ。言語や思考で意識はいっぱいになるのだから、意識の容量が言語より大きいはずはない。1950年代に実施された一連の心理物理学実験から、意識の容量は非常に小さいことが判明した。毎秒40ビット以下、おそらくは16ビットを下回る。
 感覚器官をを通じて取り込む情報量が毎秒約1100万ビットであることを思うと、この数字は桁外れに小さい。意識は、五感経由で間断なく入ってくる情報のほんの一部を経験するにすぎない。
 とすれば、私たちの行動は、感覚器官を通して取り込まれながら意識には上らない大量の情報に基づいているはずだ。毎秒数ビットの意識だけでは、人間行動の多様性は説明できない。事実、心理学者は閾下知覚の存在を確認している。(ただし、このテーマに関する研究の歴史には奇妙な空白期間があり、その背景には、そうした研究から得られた知識が商業目的に悪用されることへの具体的懸念と、人間の得体の知れなさに対する獏とした恐れがあるようだ)。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳(原書、1991年/紀伊國屋書店、2002年)以下同】

 何と毎秒1100万ビットの情報量の99.99%を切り捨てていることになる。謡曲「求塚」(もとめづか/観阿弥作)に「されば人、一日一夜を経(ふ)るにだに、八億四千の思ひあり」とある。人は一日に八億四千万もの念慮を為すというのだ。この時代の億が10万であるとしても、84万ってことになりますな。ちなみに起きている時間を16時間として計算すると、1時間=52500、1秒=14.58という数字が導かれる。何となく16ビット以下に近づいているような気がする(笑)。

 たぶん生存に関わらない情報は捨象(しゃしょう)されるのだろう。家が火事になった場合に求められるのは分析することではなく逃げることだ。そう考えると生きるためには、理性よりも情動を発揮する方が有利なのだろう。

ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ

 なお外情報とはトール・ノーレットランダーシュが命名した概念で、発した言葉に表されていない情報のこと。沈黙が雄弁と化す場合もある。人の心をつかむのも大抵の場合一言である。もっとわかりやすいのは音楽だ。言葉を介さずにメッセージを伝えるのだから。

 膨大な情報を切り捨て、最小限の情報を知覚した脳は意識を発動させる。

 結果に疑問の余地はなかった。〈準備電位〉が動作の0.55秒前に現れ始めたのに対し、意識が始動したのは行為の0.20秒前だった。したがって、決意の意識は〈準備電位〉の発生から0.35秒遅れて生じることになる。言い換えれば、脳の起動後0.35秒が経過してから、決意をする意識的経験が起きたわけだ。
 数字を丸めれば(データの出所が明らかな場合はさしつかえなかろう)、自発的行為を実行しようという意図を意識するのは、脳がその決定を実行し始めてから0.5秒たった後という結論になる。
 つまり、三つの事象が起きている。まず〈準備電位〉が発生し、ついで被験者が行為の開始を意識し、最後に行為が実行される。

 これを読んだ時は腰を抜かした。だってそうだろ、意識する前に脳が動いている(準備電位)というのだから。するってえと、やっぱり自由意志はないものと考えられる。(何度でも紹介するぞ!)

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二

 体の触覚に関連する脳領域に電気刺激を与えると、体に触れられた、という感覚が生まれる。人間には、皮質への刺激を感知する触覚がない。通常は頭蓋骨が刺激から脳を守っているからだ。脳への刺激はけっしてないのだから、それを感知する生物学的な意味がない。頭蓋が開かれているとしたら、ほかにもっと憂慮すべきことがあるわけで、感覚皮質への刺激で爪先がうずくかどうかなど考えていられない。

 頭蓋骨はパンドラの匣(はこ)だったというわけだ。というよりは、むしろ脳が頭蓋骨から飛び出そうとしているのかもしれない。「こんな狭苦しいところに、いられるかってえんだ!」といった具合に。

 意識とそれが基づく脳内の活動に関するリベットの研究は、大きく二つに分けられる。一つは、ファインスタインの患者に対する一連の実験であり、これが、意識が生じるまでには0.5秒の脳活動を要するという、驚くべき発見をもたらした。この研究の後に、さらに驚嘆すべき発見へとつながる。すなわち、意識は時間的な繰り上げ調整を行ない、その結果私たちは、外界からの刺激の自覚が、実際は刺激の0.5秒後に生じるにもかかわらず、あたかも刺激の直後に生じたかのように感じる。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 0.5秒遅れの情報を脳が補正している。凄いよね。現在という瞬間の中で過去と未来が目まぐるしく交錯しているのだから。

 意識はその持ち主に、世界像と、その世界における能動的主体としての自己像を提示する。しかし、いずれの像も徹底的に編集されている。感覚像は大幅に編集されているため、意識が生じる約0.5秒前から、体のほかの部分がその感覚の影響を受けていることを、意識は知らない。意識は、閾下知覚もそれに対する反応も、すべて隠す。同様に、自らの行為について抱くイメージも歪められている。意識は、行為を始めているのが自分であるかのような顔をするが、実際は違う。現実には、意識が生じる前にすでに物事は始まっている。
 意識は、時間という名の本の大胆な改竄(かいざん)を要求するイカサマ師だ。しかし、当然ながら、それでこそ意識の存在意義がある。大量の情報が処分され、ほんとうに重要なものだけが示されている。正常な意識にとっては、意識が生じる0.5秒前に〈準備電位〉が現れようが現れまいが、まったく関係ない。肝心なのは、何を決意したかや、何を皮膚に感じたか、だ。患者の頭蓋骨を開けたり、学生に指を曲げさせたりしたらどうなるかなど、どうでもいい。重要なのは、不要な情報をすべて処分したときに意識が生じるということだ。

「私」とはこれほどあやふやな存在なのだ。トール・ノーレットランダーシュは意識という幻想を「ユーザーイリュージョン」(利用者の錯覚)と名づけた。

 世界が感覚で構成されている以上、我々の経験はシミュレーションとならざるを得ない。つまり脳が世界を規定するのだ。そして意識は「私」をでっち上げ、存在の重力を生み出す。

 華厳経(けごんきょう)に「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く種種の五陰(五蘊)を画(えが)く。一切世間の中に法として造らざること無し」とある。仏教は脳科学だったのだ。

「世界も私も幻想だ」というのは簡単だ。それよりも一番大切なことは、生(せい)の川が刻々と流れている事実を知ることだ。この流動性をブッダは諸行無常と鋭く見抜き、「私」の実体は諸法無我であると喝破した。

 世界と私は何と不思議に満ちていることか。


デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
視覚情報は“解釈”される/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン
知覚系の原理は「濾過」/『唯脳論』養老孟司
「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

人生とは


 人生とは、「私」という単位の時間である。

人間は人間にとって鏡なのである


 人間は人間にとって鏡なのである。鏡というものは、物を光景(スペクタル)に、光景を物に変え、私を他人に、他人を私に変える万能魔術の道具なのだ。これまでもしばしば、画家たちは鏡について思いを凝らしてきた。それというのも、彼らは遠近法というトリックのばあいと同様に、鏡というこの「機械的トリック」のもとでも、〈見る者〉と〈見えるもの〉との転換を認めたからであり、そしてこの転換こそ、ほかならぬわれわれの肉体の定義であり、また画家の使命の定義なのである。

【『眼と精神』M・メルロ=ポンティ:滝浦静雄、木田元〈きだ・げん〉訳(みすず書房、1966年)】

眼と精神