2011-08-07

人生のハードル


 この世に生まれた時から人は競争を強いられる。大人たちは既に数多くのハードルを用意し、赤ん坊は20年ほど走らされることになる。

「位置について」――入学、進級、卒業は競争の合図だ。

Hurdles

 結果を左右するのは才能や素質であるかもしれない。努力が通用するのは低いレベルの世界だ。山登りを愛する人は多いが、エベレストを制覇できるのはほんの一握りの人々に限られる。

「1位にならなければ意味がない」。本当にそうだろうか? 人生という競争で1位になれなければ、生きている甲斐はないのだろうか?

 私は中学の時に野球をしていた。2年でレギュラーとなり、3年で4番打者となった。札幌で優勝し、全道大会の準々決勝で敗れた。サヨナラ負けであった。

 野球は4番打者だけではできない。ピッチャーだけでもできない。そして何にも増して、相手チームがいなければゲームは成り立たない。

 試合が終わって、審判の下(もと)で両チームが挨拶をし握手を交わす。声を掛けるのは負けたチームだ。「頑張れよ」「次も勝てよ」と、たわいない言葉である。しかしそのわずかな瞬間に二つのチームは完全に一つとなる。全員が味方と化す。

 他人が勝手に用意したハードルを跳ぶ行為は、サーカスで曲芸をさせられる動物と似ている。飴とムチを与えれば一通りのことはできるようになるものだ。社会の順応競争に勝った彼らは省庁や大企業に送り込まれ、高額な報酬を約束される。

2表 都道府県別企業数、常用雇用者・従業者数(民営、非一次産業、2009年)PDFファイル

 企業数の構成比は大企業が0.3%であり、従業員構成比は37.1%となっている。

図録 正規雇用者と非正規雇用者の推移

 非正規雇用者が35.4%(2011年)とすると、労働者人口に占める大企業の社員数は24%となる。

 ここに勝敗の基準を置く人は社会の奴隷といってよい。こんなものは15センチほどの定規で計測可能な価値観である。人生とはもっと複雑なものだ。真っ直ぐな定規で測れない事柄も多い。ゆえに妙味もある。

 ハードルは自分で用意すればいい。それまで跳べなかった高さを跳んだ瞬間に人生の色彩は劇的に変わる。たとえ老いたとしても、そんな光を放っていたい。

2011-08-06

佐藤春夫、池上英洋、ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ、熊谷晋一郎


 4冊挫折。

 挫折50『退屈読本(上)』佐藤春夫(冨山房百科文庫、1978年)/冒頭の解題で丸谷才一が絶賛している。あの小うるさい丸谷が手放しで褒めているのだ。どうしたって読み手は意気込んでしまう。で、直ぐ挫けた。文体から伝わってくる佐藤の繊細さがどうも肌に合わない。たぶん抑制されているから繊細に映るのであって、本当は随分と神経質な人物ではなかったか。鎌倉とか杉並あたりの街並に覚える違和感とよく似たものを感じた。

 挫折51『ダ・ヴィンチの遺言』池上英洋(KAWADE夢新書、2006年)/暑さに負けて読めず。ダ・ヴィンチは仕事が遅かったそうだ。

 挫折52『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ/管啓次郎〈すが・けいじろう〉訳(朝日出版社、1987年/ちくま学芸文庫、1997年)/オートポイエーシスの入門書。これは間違いなく良書だと思われる。あとで読む。

 挫折53『リハビリの夜』熊谷晋一郎〈くまがや・しんいちろう〉(医学書院、2009年)/これも良書だ。第9回新潮ドキュメント賞受賞作。あとで読む。

2011-08-05

流れに任せて漂うことは誰にでもできる


「流れに任せて漂うことは誰にでもできる。死んだ犬にだってな。」と私の父親はよく言っていた。

【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ:小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

2011-08-04

美と暴力、昂奮と残虐


 放置していたtumblrを復活させてからというもの、ウェブ上の画像を数千枚見てきた。そして今日、この写真に辿り着いた。

 私は凍りついた。フォルムと色彩の美しさに。昂奮と残虐が交錯する瞬間に。写真の外側を埋め尽くす人々の欲望に。

 美と暴力は男女の象徴性だ。格闘技のリングには必ず美女が用意される。我々は美を求め、力を欲してやまない。

 罪のない動物が人間の手によって闘わされる。シャッター音は観客の固唾(かたず)と共に呑み込まれたことだろう。なけなしの金を全部賭けている連中だっているはずだ。

 闘鶏は私だ。上司の前では平身低頭しながら一言も抗弁できない私だ。公の場で狼藉を働く若者を注意できない私だ。女房から蔑まれ、子供からは愛想を尽かされた私だ。「いつかケリをつけてやる」と思いながら、勝負を先延ばしにし続ける私だ。

 戦意を20年前に喪失した私は、本当の自分を闘鶏にダブらせる。なりたくてもなれなかった己の姿を投影する。「中途半端に生きるくらいなら、死んだ方がましさ」とさえ思う。

 そんな嘘にまみれた空間でニワトリは闘う。二羽の間に嘘はない。トサカが焔(ほのお)のように燃え盛り、血しぶきのように撥(は)ねている。

 そして我々はニワトリ以下の日常に舞い戻るのだ。

cockfight
(Cockfight : Taken by Jan Sochor.)

闘鶏

自由と不自由


 寝たきりの老人が不自由に見えるのに、這(は)うこともできない赤ん坊が自由に見えるのはなぜか? 植物状態の人が不自由だと、どうして決めつけることができるのか? 自由に動けるのに不自由な人が多いのはなぜか? 相対的自由と絶対的自由。真の自由は、束縛からの自由でもなく不足からの自由でもない。