つまり、連合型失認の患者は、視覚体験は問題ないが、その体験に意味を付与することができない。これがどのようなものかを想像するには、ふつうの西洋人が漢字を前にしてどう感じるかを考えてみてほしい。
【『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー:鈴木光太郎、工藤信雄訳(新曜社、2008年)】
とすると「見る」行為は「読み解く」能力を意味する。連合型視覚失認と関連性があるかどうかはわからないが、長期間にわたって眼の不自由な人が手術で見えるようになると様々な視覚障害が報告されている。彼らは錯視画像を見ても錯覚することがない。また顔の表情も認知できない。
失認は心理レベルにおいて数多く見受けられる。先入観や差別意識に染まった人は物事を正しく見ることが極めて困難である。
同じ本を読んでも感じ取るものは人によって千差万別である。感受性の乏しい人は意味の浅い世界で生きているのだろう。
「悟る」とは「見える」ようになることである。ウロコだらけの目に真実は映らない。