その瞳に明日は映らない。No Future。もはや泣くに泣けないのだろう。何度も何度も裏切られ、騙(だま)され、殴られてきたに違いない。あらゆる悲惨を知り尽くした老人のような風貌だ。君が生きる過酷な人生に私は寄り添うことすらできない。だから「許してくれ」という言葉は慎もう。ただ、君を心に抱いて今日から生きてゆこう。
2011-09-19
苦渋に満ちた少年の顔
その瞳に明日は映らない。No Future。もはや泣くに泣けないのだろう。何度も何度も裏切られ、騙(だま)され、殴られてきたに違いない。あらゆる悲惨を知り尽くした老人のような風貌だ。君が生きる過酷な人生に私は寄り添うことすらできない。だから「許してくれ」という言葉は慎もう。ただ、君を心に抱いて今日から生きてゆこう。
双子のパラドックス
ニュートンの運動法則は空間内の絶対的位置という概念にとどめをさしてしまった。一方、相対論は絶対時間を排除してしまった。そこで何が起こるか、双児を例にとって考えてみよう。双児の一方が山の上に移り住んでおり、もう一方は海辺にとどまっているとすれば、前者は後者よりも速く齢をとるだろう。したがって二人が再会することがあれば、そのときには一方が他方よりも老いていることになる。この例では年齢の違いはごくわずかだが、双児の一方が光速にほぼ等しい速さの宇宙船に乗って長い旅に出るとすれば、違いはずっと大きくなる。旅から帰ってきたとき、彼は地球に残っていた兄弟にくらべてずっと若いだろう。この現象は双児のパラドックスと呼ばれているが、これをパラドックスと感じるのは実は、心の底に絶対時間の概念が巣食っているからなのである。相対性理論では唯一の絶対時間なるものは存在しない。そのかわりに、個人はめいめいが独自の時間尺度をもっているが、これはその人がどこにいるか、どのような運動をしているかによって決まるのである。
【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング:林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】
・Wikipedia
・双子のパラドックスについて
2011-09-18
シンボルは真実ではない/『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ
・シンボルは真実ではない
・真実在
・ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト 2
書籍タイトルはクリシュナムルティ・トラップである。ブッダの動執生疑(どうしゅうしょうぎ/執着している心を揺り動かし、疑問を生じさせる化導〈けどう〉方法)と同じ仕掛けだ。
私自身は神の存在をこれっぽっちも信じていないし、いたとしても会いたくはないね。だって、こんな無責任な世界をつくった張本人だよ。植木等にも劣る野郎であることは間違いない。
しかし西洋を中心とする世界は神を中心に動いている。どんなに神と無縁な生活をしていても、西洋的価値観は我が身に降りかかってくる。それが汚染だとしても、現実理解のためにキリスト教を学ぶことは欠かせないのだ。
そして本書は洋の東西を問わず、宗教に関わっている者であれば必読のテキストで何らかの応答を求められる。
永遠不滅なるものを見出すためには、伝統や過去の経験や知識の集積である時間から、自由でなければならない。それは、何を信じるか信じないかといった、未熟でまったく子供じみた質問ではない。そんなことは、本質的な問題とはまったく関係ない。本当に発見したいと願っている真剣な心は、孤立した自己中心的な活動をすっかり放棄し、完全に独りである状態になるだろう。美しさ、永遠なるものの理解が実現されるのは、この、完全な独りである状態においてのみである。
言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではないので、危険なものである。言葉は意味、概念を運ぶが、しかし言葉はそれが指し示すものではない。したがって、わたしが永遠なるものに関して語るとき、もしわたしの言葉に影響されたり、その信仰に囚われたりするだけならば、それはとても子供じみていると理解しなければならない。
永遠なるものが存在するかどうかを発見するためには、時間とは何かを理解する必要がある。時間とは最も厄介な代物だ。年表的時間、時間ではかれる時間のことを言っているのではない。どちらも目に見え、必要なものである。ここで話しているのは、心理的継続としての時間である。この継続性なくして生活できるだろうか? 継続性を与えるものは、まさしく思考である。もし何かを絶えず考えるとすれば、それはひとつの継続性をもつ。もし妻の写真を毎日眺めるとすれば、それにある継続性を与えることになる。
この世で、行動に継続性を与えることなく生き、結果として、すべての行動にあらためて初めて出会うといったことが可能だろうか? すなわち、一日中のすべての行動のたびに精神的に死に、その結果、心は過去をけっして蓄積することも、過去から汚染されることもなく、つねに新しく、新鮮、無垢であることができるだろうか? そのようなことは可能であり、人はそのように生きることができる。しかし、それがあなたにとっても本当だという意味ではない。あなたは、自分自身で発見しなければならない。
【『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ:中川正生〈なかがわ・まさお〉訳(めるくまーる、2007年)以下同】
最初のパラグラフがわかりにくいことだろう。以下の記事を参照されよ。
・ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
「言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではない」――まず、ここが難所である。普通に読めば理解できるはずだ。ところが宗教者は教義(=言葉)に支配されているため納得することができない。
まず大前提として言葉は同じ世界にいる人にしか通用しない。方言や外国語など。
もっとわかりやすいのは赤ん坊だろう。彼らに言葉は通じない。耳の不自由な人に声は届かない。別の形の――読唇術および手話――情報が必要となる。
言葉が示すのはイメージ情報である。「私」という言葉には、69億6420万7416人分(17:05現在)のイメージ情報がある。つまり私がいうところの「私」と、あなたが思うところの「私」は別物なのだ。
とすると人の数だけ神仏が存在していると考えてよかろう。無数のイメージが神仏という言葉に収まる。
次にシンボル。シンボルといえば偶像崇拝である。宗教的な偶像は仏像を始め、十字架、イコン、聖骸布(せいがいふ)、遺骨、マンダラなどがある。イワシの頭も含む。
シンボルは当のものではない。象徴、表象は氷山の一角と考えるべきだろう。ハーケンクロイツはナチス党のシンボルであるがナチス党そのものではない。
悟りの内容を言葉にしたものが経典で、図像化したものがマンダラであるが、それらは悟りそのものではない。しかし宗教者は自ら勇んで言葉の奴隷となる。
宗教は言葉のレベルに転落した。それが証拠に宗教という宗教は皆、教義の古さ、緻密さを競い合っているではないか。たぶん宗教は考古学となったのだろう。
「神」と綴った紙を壁に貼ってみよ。拝む人々が増えれば、そこに神が存在する。これは明らかな幻覚、錯覚である。ま、「始めに言葉ありき」という論法でゆけば、神という言葉をつくった時点で神の勝利なのかもしれない。
時間については以下の各ページを参照されよ。
・時間
すでに話したように、言葉、シンボルは、実在ではない。「木」という言葉は、実際の木ではない。したがって人は、言葉に捕らえられないように十分用心しなければならない。言葉、シンボルから自由なとき、心は驚くほど敏感になり、ものを発見する状態になる。
とすれば、真の宗教を求める者は一度教義から離れることが必要だ。言葉に対するイメージを一掃しなくてはならないからだ。イメージは想起できるゆえに過去なのだ。まったく新しいものはイメージすることができない。そして完全に過去を死なせた時、そこに「新しい生」が流れ始める。
衝撃的な一書である。
・教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン
2011-09-17
世界情勢を読む会、矢野絢也
2冊読了。
63冊目『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会(日本文芸社、2004年)/息抜きのつもりで読んだのだが予想以上に面白かった。確かに裏面史ではあるが内容は硬派。経済的なつながりが浮き彫りにされており、ニュースの裏側がわかる仕組みとなっている。モンサント社に関する記述もあり、もっと早く読むべきであったと反省。
64冊目『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)/前著の『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』と大半が重複した内容。高裁で逆転判決が出て矢野側が勝訴したので出版に至ったのだろう。内容的には前著の方が優れている。公明党OBである大川清幸〈おおかわ・きよゆき〉元参議院議員、伏木和雄〈ふしき・かずお〉元衆議院議員、黒柳明参議院議員の3名が、矢野から100冊を超える手帳を強奪したことが明らかになった。また幾度となく創価学会の幹部複数名が億単位の寄付を強要している。
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