たまたま読んだ二つのブログ記事がバス車内での差別を取り上げていた。一つは日本、もう一つはイギリスでの光景。これを日英の違いとするのは深読みのしすぎだろう。しかし、パーソナルな要素が強いとはいえ、背景の隔絶を見過ごしてはなるまい。
「その席に福島県人が乗ってるぞ! 降ろした方がいいんじゃねーか? 放射能うつるぞ? 運転手さんよー!」
私は言葉が出なかった。
こんな人間いるのか? 本当に苦しんでる我々、福島県民をそう思っているのか?
親父はその怒鳴ってるオヤジに言い返さなかったらしい。
その辺が親父なのだが、酒が入りオレについ愚痴をこぼしたのだろう。
その方は関東圏の方らしい、その原発にかなり依存していたはずである。
【親父の告白……。(口調が厳しいのでスルーでも可)/Ayumu_Creative-Laboratory】
「注意するレベル」を軽々と超えている。かような人物にはリンチが相応(ふさわ)しい。本当の自治にはそれくらいの覚悟が求められると私は思う。
進化論的に考えても、差別主義者やデマを流す人物はコミュニティを危険に陥れる要素が強い。なぜならルールが破壊されてしまうからだ。共同という概念はなし崩しとなる。
正義とは「裁く」ことを意味する。もちろん内容については吟味が必要だ。だが、この男の発言は断じて議論を必要とするものではない。
次に紹介するのはイギリスのエピソードである。
「誰かがそこの真ん中あたりで、不愉快な雑音を発しただろう」
運転手はそう言いながら、その目は明らかにスキンヘッド二人組のほうを見ていた。
運転手から誰が見てもそれとわかるような明瞭な視線を向けられ、二人組は激昂した。
「なに格好つけてんだよ」
と、背の高い方のスキンヘッドが言う。
「ファッキン・チンクはファッキン・チンクだろうが。ちょっとファッキン金の貰えるファッキン仕事をしてるからと言って、人を見下ろすな」
背の低い小太りのスキンヘッドも、ファッキン、ファッキンとリズミカルに怒鳴っている。
「降りろ」
と運転手は言った。
「卑語や他人を蔑む言葉を使う人間は、俺のバスには乗れない。降りろ」
【リトル・アンセムズ 1. Never Mind The Fu**ers/THE BRADY BLOG】
まるで映画のワンシーンを観ているようだ。しかも運転手は紳士的な態度を貫いており、それが民意の合意形成にまで及んでいる。
私はイギリスという国が大嫌いだがこういうイギリス人は大好きだ。運転手は柄の悪そうな白人だった。それでも相手が違えば殴られるか、刺されるか、撃たれる可能性もあった。
彼はそれだけのリスクを引き受けた上で、小さな暴力に目をつぶらなかった。これこそ「フェアの精神」であろう。
この記事は9月20日に書かれている。そして福島の記事は翌日に書かれたものだ。偶然といってしまえばそれまでだ。
世界経済が混乱の度合いを深めている。既に不況から恐慌への段階に差し掛かっている。人々の生活が苦しくなってくると必ずモラルが綻(ほころ)び始める。そして犯罪率が増加する直前に「小さな暴力」が蔓延するのだ。
正義の鏡を磨くためには、自分自身が正しく生きるしかない。
【※読者からの指摘で気づいたのだが、アメリカではなくイギリスであった。9月30日訂正】
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公民権運動の母ローザ・パークスとバス
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クー・クラックス・クラン(KKK)と反ユダヤ主義