2011-10-16

国連総会のテロ非難決議に反対したアメリカとイスラエル(1987年)


 第一次対テロ戦争は大きな支持を得た。レーガンがテロリズムを弾劾してから2ヶ月後、国連総会は国際テロリズムを非難し、1987年には、再び、さらに強くはっきりと国際テロリズムを非難した〔国連総会決議第40/61、1985年12月9日及び決議42/159、1987年12月7日〕。けれども、これらの決議は満場一致ではなかった。1987年の決議は賛成153、反対2で採択された。ホンジュラスは棄権した。米国とイスラエルは、反対票を投じた理由を説明して、決議には致命的欠陥があったと述べた。すなわち、「本決議のいかなる部分もいかなるかたちでも、国連憲章で保障された自決の権利、自由の権利、独立の権利を強制的に剥奪された人々……特に植民地体制下および人種主義体制下、そして外国による占領下の人々……がこれら権利を備えていることに偏見を与えるものではない」という文言である。この部分は、南アフリカのアパルトヘイト政権(米国の同盟者。一方、米国政府はANCを公式に「テロリスト組織」としていた)に対するアフリカ民族会議(ANC)の闘争、及び、米国一国が事実上国際的に孤立しながら続けた軍事・外交支援により20年にわたり維持されていたイスラエルによる軍事占領に適用されるものと理解されていた。恐らくは米国の反対のため、このテロリズムに反対する国連決議は無視された。

「誰がグローバル・テロリストか?」ノーム・チョムスキー

 アフリカ民族会議(ANC)のシンボルがネルソン・マンデラであった。彼がアメリカのテロ監視リストから除外されたのは2008年のことである。

マンデラがテロ監視リストの大恥

 ただし一度はびこった暴力の根は複雑に絡む。

写真館 20 南アフリカ部族対立

 驚くべきことだが以下の写真は、スパイの疑いをかけられたズールー族の男性がアフリカ民族会議の支持者によって殺害された写真である(1991年)。

人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害してきた

 いずれにせよ、世界平和の足を引っ張っている最大の犯人がアメリカとイスラエルであることは確かだ。

アメリカとイスラエルの共通点
パレスチナ人女性を中傷するイスラエルの若者たち

ノーム・チョムスキー

flickrから削除された画像もtumblrには保存されているって知ってた?


 いやあ、たまげた。よそ様のflickrからアップした画像の一枚が表示されていなかったので、ジャンプしてみるとアカウントを削除したようだった。仕方がないので私は画像のコードを削除した。ところが自分のtumblrを眺めていたところ、件(くだん)の写真が残っているではないか!

 flickrからtumblrへのアップロードはボタン一つで可能なわけだが、どういう仕組みになっているかは知らなかった。tumblrは画像URLの指定も可能なため、直リンクを貼っているのだろうとばかり思い込んでいた。ところが違ったようだ。真相についてはいまだ藪(やぶ)の中だ。

 私はブログで紹介したflickr画像については、速攻でtumblrにアップしていたので助かった。こうなりゃ、flickrのお気に入りに登録してある数百枚の画像もtumblrに上げた方がよさそうだ。

 霊験(れいげん)あらたかなtumblrであった。

死ぬのもよし、生きるのもよし

死ぬのもよし、生きるのもよし。ただし、その瞬間にベストを尽くすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。
Nov 02 10 via 縄文時代FavoriteRetweetReply


生きるとは
『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』、『自分の中に毒を持て』岡本太郎

家路に着く人

Crossing...

 一瞬で心を奪われた。暮れなずむ空の下、しっかりとした足取りで横断歩道を渡る男性。よく見ると2羽の鳥が戯(たわむ)れるように舞っている。たぶん巣に帰るのだろう。そんなふうに思わせてしまうだけの確かな物語力がある。時々見返す写真の一枚だ。絶妙な構成の理由がしばらくわからなかった。真ん中に何も写っていないためだ。後になってやっと理解できた。信号の三角形を中心に据(す)えているのだ。結果的に坂道と木陰の暗い部分が縦横の3分の1をきれいに占めている。そこに思い当たると、フィボナッチ数的な要素すら感じる。そして電線は「つながり」のメタファーと化す。

2011-10-15

島田紳助監督『風、スローダウン』/主題歌「季節のない季節」BORO


 僕と島田紳助が出逢ったのは、1979年の冬である。僕たちは大阪の大学の学園祭に出演していた。その大学の仮設楽屋で二人は出逢った。体育系大学のその控え室は、青春を­やり始めたばかりの男子生徒の汗と土の匂いでむせかえるようだった。紳助は相棒の竜介と漫才をやっていた。それはツッパリ漫才と呼ばれ、その大学に通う連中達のような若い­層に、絶対的な支持を受けていた。僕はバンドのメンバーとその年の夏に発表した「大阪で生まれた女」をひっさげ、全国をツアーしていた。その曲はその冬の、その大学祭の時­期には、大ヒットの兆しが見え始めていた。楽屋で年かっこうの似た二人が、打ち解けるのは早かった。僕が鏡の前でポマードをぬっていると、横で紳助もポマードをぬっている­。お互いのポマードを見せ合い、どこのメーカーなのか、そんなことを話したのが一番最初の会話だった。島田紳助にとっても、僕にとっても、芸能界が、この世のすべてだった­頃の話である。

 その日のステージも熱狂的な、夢と愛と希望と、そして幸せに満ちたステージだった。ステージ終了後の、仮設楽屋は狂喜に満ちていた。学生スタッフ達のキラキラ輝く瞳には熱­い青春の涙がいっぱい溢れていて、口々にそれぞれの夢を語っていた。戦い続ける男達は、今も変わらないでいてくれるだろうか……。そして、あの日の、涙や汗や土の匂いは­、今も僕の体にしみついて離れない。

 紳助と竜介と僕は、大阪のABCラジオのDJをやり始めた。その番組は一年半続いた。番組での3人のテーマは、青春と夢だった。大阪中のラジオのスピーカーに向かって僕達­はアジテートしていた。「夢をもて」「勇気を出せ」「強く生きろ」「あの"うさんくさい権力"にだまされるな」言いたい放題のあの番組が、一年半も続いたのは、奇跡だった­のかも知れない。その番組の中で、紳助はリスナーに叫んだ。「僕たちは映画を作るぞ。これが本当の青春映画と言うものを作るぞ。小手先やない。魂からほとばしる青春映画を­……」

 そして、僕もスピーカーの前のリスナー達に誓った。「その映画は、俺が音楽を作る、感動のあまり、泣けて泣けてしょうがないような歌を、俺が歌う」。オーバーに表現してい­るのではなく、本当に、そんなふうに話すDJだった。そして、10年が過ぎ、多くの夢のひとつが叶った。紳助と僕が朝まで語り明かした、夢の一つが叶った。1991.7.6、本当の正しい青春映画『風スローダウン』は、完成した。

「季節のない季節」の詩は、紳助が納得するまで書き変えた。レコードに録音された歌詞は、その中の5コーラスで、本当は11コーラス作った。あの歌は紳助が僕に、創造させ­てくれたと思っている。だからあの歌は、彼だけの為に作ったのかも知れない。(BORO)





30周年記念ベスト・アルバム風、スローダウン-Deluxe Version- [DVD]

 基本的に動画は「斧チャン」で紹介しているが、どうしてもこれはというものについてはアップせざるを得ない。このアルバム(『季節のない季節』)が最後に買ったBOROのCDだった。全体の出来はよくなかった。この曲も音域が狭いため山場がないように聴こえる。だが、それでも尚、彼の声が発するビブラートは長い余韻を残す。若き日に抱いた理想を生涯堅持することは難しい。だからこそ道を誤った時には友が必要となる。二人の友情が続いていることを信じたい。

歌詞