僕と島田紳助が出逢ったのは、1979年の冬である。僕たちは大阪の大学の学園祭に出演していた。その大学の仮設楽屋で二人は出逢った。体育系大学のその控え室は、青春をやり始めたばかりの男子生徒の汗と土の匂いでむせかえるようだった。紳助は相棒の竜介と漫才をやっていた。それはツッパリ漫才と呼ばれ、その大学に通う連中達のような若い層に、絶対的な支持を受けていた。僕はバンドのメンバーとその年の夏に発表した「大阪で生まれた女」をひっさげ、全国をツアーしていた。その曲はその冬の、その大学祭の時期には、大ヒットの兆しが見え始めていた。楽屋で年かっこうの似た二人が、打ち解けるのは早かった。僕が鏡の前でポマードをぬっていると、横で紳助もポマードをぬっている。お互いのポマードを見せ合い、どこのメーカーなのか、そんなことを話したのが一番最初の会話だった。島田紳助にとっても、僕にとっても、芸能界が、この世のすべてだった頃の話である。
その日のステージも熱狂的な、夢と愛と希望と、そして幸せに満ちたステージだった。ステージ終了後の、仮設楽屋は狂喜に満ちていた。学生スタッフ達のキラキラ輝く瞳には熱い青春の涙がいっぱい溢れていて、口々にそれぞれの夢を語っていた。戦い続ける男達は、今も変わらないでいてくれるだろうか……。そして、あの日の、涙や汗や土の匂いは、今も僕の体にしみついて離れない。
紳助と竜介と僕は、大阪のABCラジオのDJをやり始めた。その番組は一年半続いた。番組での3人のテーマは、青春と夢だった。大阪中のラジオのスピーカーに向かって僕達はアジテートしていた。「夢をもて」「勇気を出せ」「強く生きろ」「あの"うさんくさい権力"にだまされるな」言いたい放題のあの番組が、一年半も続いたのは、奇跡だったのかも知れない。その番組の中で、紳助はリスナーに叫んだ。「僕たちは映画を作るぞ。これが本当の青春映画と言うものを作るぞ。小手先やない。魂からほとばしる青春映画を……」
そして、僕もスピーカーの前のリスナー達に誓った。「その映画は、俺が音楽を作る、感動のあまり、泣けて泣けてしょうがないような歌を、俺が歌う」。オーバーに表現しているのではなく、本当に、そんなふうに話すDJだった。そして、10年が過ぎ、多くの夢のひとつが叶った。紳助と僕が朝まで語り明かした、夢の一つが叶った。1991.7.6、本当の正しい青春映画『風スローダウン』は、完成した。
「季節のない季節」の詩は、紳助が納得するまで書き変えた。レコードに録音された歌詞は、その中の5コーラスで、本当は11コーラス作った。あの歌は紳助が僕に、創造させてくれたと思っている。だからあの歌は、彼だけの為に作ったのかも知れない。(BORO)
基本的に動画は「斧チャン」で紹介しているが、どうしてもこれはというものについてはアップせざるを得ない。このアルバム(『季節のない季節』)が最後に買ったBOROのCDだった。全体の出来はよくなかった。この曲も音域が狭いため山場がないように聴こえる。だが、それでも尚、彼の声が発するビブラートは長い余韻を残す。若き日に抱いた理想を生涯堅持することは難しい。だからこそ道を誤った時には友が必要となる。二人の友情が続いていることを信じたい。
・歌詞
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