2011-10-28

人の一生は重荷を負(おひ)て遠き道をゆくが如し


「人の一生は重荷を負(おひ)て遠き道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし」――家康の言として伝えられるが実は後世の作。

 半世紀近く生きていると、知らず知らずのうちに余計な荷物が増えている。書籍、ビデオテープ、カセットテープ、CD、MD、賞状、記念品、書類、写真、手紙、衣類……。ま、長く使用しているパソコンの不要ファイルみたいなもんだ。さしたる必要性も愛着もないのだが何となく放置したままになっている。

 意外と侮れないのが結婚式の引き出物だ。とっくに離婚したカップルの引き出物が未開封のままだった。願わくは返品したいところだ。片っ端から手当たり次第に包装紙を破ったところ、大半がタオルの類いであとは食器だった。

「私」とは一体何なのか? 「私」を証明するものは立場と所持品である。だから荷物が増えてゆくのだろう。私=私の思い出、だ。あやふやな記憶の手掛かりとして記念品や写真、手紙は機能するのだ。サイン、シンボル、マンダラと似ている。

 不思議なもので、どんなに大切なものであっても手放した瞬間にゴミと化す。「執着から離れる」とはその程度のことなのだ。離れてしまえばどうってことはない。実はここに自由の意味合いや味わいがある。自由とは「軽やかさ」の異名だ。

 幸か不幸か私には子がいない。子供がいれば人生最大の執着となるに違いない。いなくてよかった(笑)。

 無一物となることが本当の自由だ。最終的には妻を捨て、自分をも捨てる予定である。

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