・世界とは自分が認識したもののことである
・フランス人に風鈴の音は聞こえない
・運命か自由意思か~偶然と必然
ある夏の日に、フランス人の女性と和室で会食したときのことです。その部屋には風鈴がかけられ、涼しげな音を奏(かな)でていました。ここで私はそのフランス人の女性に尋ねました。
「あなたはこの装置(風鈴のこと)の存在に、あるいはこの装置が発する音に気付いていましたか?」
案の定、その人はまったく気付いていませんでした。
「これはいったい何ですか?」
「これは言ってみれば『メンタル・エアー・コンディショナー』です。涼しげな音を出すことで、気持ちから涼しくする装置です」
そう説明してからは彼女は珍しそうに見入るようになりましたし、音にも注意を払って聞いていました。
でも、実際には説明する前から風鈴は彼女の視界にあったはずですし、音だって物理的信号としてはちゃんと彼女の鼓膜を振動させていたはずです。にもかかわらず、彼女は風鈴の存在にも音にも気付かなかった。それは彼女が「風鈴」というものを知らなかったからです。人は知らないものは認識できないのです。逆に言えば、認識できる範囲だけがその人にとっての世界ということになります。
【『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(アスコム、2007年)】
前にも紹介しているのだが再掲。
・擬音語・擬態語 英語は350種類、日本語は1200種類/『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』山口仲美
我々は世界を認識しているわけではない。その証拠ともいえるエピソードである。つまり「認識されたもの」が世界なのだ。「世界は五感で構成されている」と言い換えてもよい。
「知らないものは認識できない」という指摘が重い。私が40歳を過ぎてからキリスト教の本を読むようになったのも全く同じ理由からだ。キリスト教を学ぶと世界や歴史の構造がくっきりと見えるようになる。
またこうも言えるだろう。世界とは認識世界であり解釈世界である、と。
西欧列強諸国は有色人種を虫けらと解釈してきた。教室内ではシカト(無視)という解釈もある。解釈が世界を変える。相手を「殺してもよい」「無視しても構わない」存在へと貶(おとし)めるのだ。
教義、法、秩序の根源にあるのはタブーである。すなわちコミュニティとは「タブーを共有する集団」と規定できる。宗教が集団原理と化したところに世界の混乱が生まれたと私は見る。
我々は興味や関心のない情報を無意識の内に切り捨てる。というよりも引っ掛からないのだ。ということは、穴ぼこだらけの世界に住んでいるのだろう。異なる価値観に歩み寄る努力を怠れば、穴はどんどん拡がってゆく。
フランス人に風鈴の音は聞こえなかった。ルワンダの叫び声やパレスチナの悲鳴も世界には届かない。
・日本語が作る脳:虫の音や雨音などを日本人は左脳で受けとめ、西洋人は右脳で聞く!?
・外人には虫の声は聴こえない?
・物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一