2011-12-07
2011-12-06
怨みはついにやむことがない
3 「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれに打ち勝った。彼はわれから強奪した」という思いを抱く人には、怨みはついにやむことがない(ダンマパダ)
— 仏陀 ブッダ ことば 仏教 (@Buddha_Words) December 6, 2011
・無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二
・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一
・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二
・『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
・『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良
結論を先に言えば、大乗の理論家たちは、三身説を発見することによって、仏伝の永遠反復が内包する不条理を克服した。仏伝の永遠反復説は、三身説の確立によって、より正確にいえば、仏陀の「報身」説の発見によって、消え失せたのである。
仏伝の永遠反復説は、法身と生身という二仏身観を基にしている。この二仏身観は大衆部から初期大乗へと受け継がれた。仏陀を本体としては無時間的存在と見なし、過去仏や未来仏は時間の中に現われた顕現と見なす考えは、神話的思考に基づく二仏身観が支持される限り、常に当然の帰結であった。しかし仏陀を輪廻の世界に降りてきた「法界の顕現」と見做すと、個々の仏陀は個性を失って、単なる反復ということになる。すると個々の【十四】仏陀は修行の結果、仏陀に成った「人間」であるとは考えられなくなる。すると大乗における菩薩思想は崩壊せざるをえない。凡夫が発心して菩薩に成り、十地の階梯を経て仏に成るという道は形而上学の扉で永久に閉じられ、ただ仏陀のみが仏陀として現われてくるにすぎなくなる。菩薩たちすら、実は法身の仏陀が顕現した存在であるということになる。
【岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」】
いくらか参考にはなるが、仏教の素養がない人にはチンプンカンプンなことだろう。専門家の言葉は大衆に届かない。ま、届けるつもりもないのだろう。「だから何なんだ?」「それがどうした?」と言われてしまえばそれまで。
なぜ永遠に反復しなければならないのか、永遠反復する場合としない場合とでは何が違うのか、こういった点が非常にわかりにくい。精読していない立場でいうのも何だが、永劫回帰の焼き直しにしか見えない。
大体、永遠に反復するのであれば、それ自体が六道輪廻の範疇となってしまう。法(真理)を表現する言葉は社会の変遷に伴って変わらざるを得ない。そこに言葉と知性の更新があるのだ。
つまり仏陀を無始なるものとして崇める、新しい仏教の立場と、仏陀を人間がなったものと考える、オーソドックスな仏教の立場は、ここで絶対に矛盾するものとなる。
仏陀観が発達したために必然的に生じた、この矛盾を乗り越えるために、新たに考え出されたのが三身説である。この三身説では、「法身」と「生身」の従来の二仏身の間に、中間的な仏身としての「報身」(受用身)を立てるのである。
「報身」は、修行の結果としての果を所有し、固有の名前をもつ仏陀である点で、無時間的な「法身」とは異なるが、しかし法界に存在して、ほとんど無限の寿命を持ち、多くの化身を地上に下すという点で、従来の「法身」に等しい超越性をもつ。
この「報身」の成立によって、仏陀は八十歳で入滅する歴史的存在(生身)でもなく、何の具象性ももたない非・歴史的な存在(法身)でもなく、歴史を越えながら歴史性を回復した存在となる。(図式2を参照)
この「報身」の理論的な成立は中期の大乗、特に唯識学派においてであるが、しかしそれ以前にも『法華経』などの大乗経典においては、「法身」という言葉で、普遍的で非・歴史的な仏を指すのではなく、久遠釈迦という、「報身」にあたる仏を意味してきた。つまり、二身説らしく見えながら実際は〈法界〉-〈久遠釈迦〉-〈肉【十五】身釈迦〉の三段階になっており、すでにこの時代において、純粋な二身説の仏陀の非歴史性に対して物足りなさを感じる、熱烈な釈迦信仰を持つ人々が、実質的に三身説にあたる仏身観に移行していたと考えられる。
僣越ながら私が一言で述べてしまおう。大日如来も阿弥陀如来も久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身如来(じじゅゆうほうじんにょらい)も全部一緒だ。これらには仏を神格化する目的があったのだろう。仏なのに神を目指すのだから不思議な話だ。人類という種はよほど人格神が好きなのだろう。
では神とは何か? 神とは偶像である。ここ、アンダーライン。キリスト教が偶像崇拝を戒めている(モーゼの十戒)のは、偶像は一つあれば十分だからだ。神が自分に似せて人間を創造したのではない。人間が自分に似せて神という偶像を想像したのだ。
しかもこの作品は目に見えない。会った人もいなければ、言葉を交わした人もいない。啓示とは個々人の脳内に発現した妄想である。「いる」って言い張るのであれば俺の家に連れて来いよ。言いたいことが山ほどあるから(笑)。
結論――人類は神様が大好き。「人智の及ばぬ」という言葉に象徴されているが、一人ひとりは部分情報としての人生を生きるしかない。そこで全体情報という視点として「神」という座標が想定されたのだろう。
・人間は不完全な情報システムである/『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。ブッダ以前にもブッダと呼ばれた人々はいた。そしてブッダはアルハット(阿羅漢/独覚〈どっかく〉=独りで悟りを開いた者)と呼ばれることをよしとした。ティク・ナット・ハンによれば、後年は「タターガタ」(真如から来たりし者=如来)と名乗ったようだ。
日本の仏教は鎌倉時代のドグマに支配されている。だから800年近く経っても何の進歩も深化もない。これ自体、教義が知性を眠らせることを示している。
仏教は小乗から大乗へと移り変わる中で教義を構造化した。寺院建築と似たようなもので、脳のネットワーク機能が進むと必ず様式化されてゆくのだ。情報のフィードバック構造が変化するためだ。そして悟りからどんどん離れてゆく結果となる。
仏教における真理は、空=縁起=諸法無我であり、実相=中道であろう。仏の絶対視は諸法無我に反する。
そんなわけで日本語の「仏」ってえのあ、もうダメだと思う。手垢まみれになっちまって神と見分けがつかないもの。敗戦後の日本では「神も仏もあるものか」と並び称されるようになってしまった。
仏という言葉に隔絶感を覚えるのは、悟った人がいないためである。「仏教は凄い」と語る人は多いが、「仏教で悟った」人を見たことがない。
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