私たちのいう「現実」っていうのは、所詮感覚器官から送られてきた信号をもとに脳が作った映像に過ぎないから、それが加工できるということは、現実が加工できることを意味する。そんなことができるようになった社会で、「客観的現実」などというストーリーが果たしてどれほど意味を持てるか
— P-63A5 KingToriniku (@poulet_pensant) 2010, 12月 11
2011-12-09
加工可能な現実
無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
数年前に初めて『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1958年)を飛ばし読みした。「フーン」とは思ったものの、さほど心は動かなかった。その後、クリシュナムルティと遭遇する。私は乾いた砂が水を吸うように貪り読んだ。気がつくとブッダの言葉は激変していた。雷光の如く胸に突き刺さった。
言葉はシンボルだ。仏教では文・義・意という立て分け方がある。経文、教義、真意という意味で、一つの言葉を三重に深めている。
シンボルの究極は数式とマンダラである。詩歌や名言がこれに次ぐ。要は抽象度が高いのだ。
なぜ私はブッダの言葉を理解できなかったのだろう? それは文(もん)だけ読んで、義意に辿りつけなかったためだ。そして今、義意をわかったように思っている。しかし実は違う。もしも義意がわかったとすれば、私はブッダと同じ悟りに達したことになるからだ。
おわかりになっただろうか? 言葉とは翻訳機能にすぎないのだ。我々は日常の対話においてすら言葉というシンボルを手繰り寄せながら、コミュニケーションを図っているのである。ゆえに時折誤解や行き違いが生じる。
・日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
・教育の機能 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
言葉がコミュニケーションのツールであるならば、マンダラも悟りのための道具なのだろう。
前置きが長くなってしまった。シリーズ『人生と仏教』は全12巻となっている。中村元が担当しているのは本巻だけのようだ。温厚な人物だけに時折盛り込まれる手厳しい指摘が鞭のように唸(うな)る。
中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。
【Wikipedia】
前半の初期仏教に対して、後半の鎌倉仏教&その他は失速した観がある。やはり些末な教義が言葉の抽象度を低くしているように感じてならない。中村は初心者にもわかる言葉で、深遠な仏法哲理を自在に語る。
したがって、ゴータマは形而上学的な問題については解答を与えることを拒否した。原始仏教聖典を見ると、「我(=霊魂)および世界は常住であるか?(=時間的に局限されていないか?)あるいは無常であるか?(=時間的に局限されているか?) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか、身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか? 完全な人格者(タターガタ〈「如来」と訳される〉)は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」などの質問が発せられたときに、かれは答えなかったという。このような問いが14あり、それに対してイエスともノーとも答えを記さないから、漢訳仏典では〈十四無記〉という。また返答を与えないで捨てて置くことが、実は一つのはっきりした立場を表明していることになるので、これを〈捨置記〉(しゃちき/『倶舎論』〈くしゃろん〉における訳語)ともいう。(ここではカント哲学などにおけると相似た二律背反〈アンチノミー〉の問題が想起されているのである)。(句点ママ)
では、なぜ答えを与えなかったのかというと、これらの形而上哲学的問題の論議は益の無いことであり、真実の認識(正覚〈しょうがく〉)をもたらさぬからであるという。(ジャイナ教徒は仏教徒を「不可知論者」とみなしていた)。懐疑論者サンジャヤは懐疑論的立場に立って、このような質問に対しては曖昧模糊(あいまいもこ)たる返答をして問題の焦点をはずしたが、ブッダはそれとは異なって、明確な自覚に基づいて返答を拒否した。この点について興味深いのは毒矢の譬喩(ひゆ)である。
【『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元〈なかむら・はじめ〉(佼成出版、1970年)以下同】
以下、無記に関するリンク。
・原始仏教の教理
・無記説の考察
・輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)
・連続ツイート 無記(茂木健一郎)
・茂木健一郎氏の連続ツイート「無記」に関する違和感
続いて「毒矢の喩え」が引用される。
「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友・親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、『わたしを射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷(どれい)であるか、を知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色は黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦(弓づる)や■(竹冠+幹)箭(矢柄)やその羽根の材料は何であったか、その矢の形はどうであったか、こういうことがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない』(カギ括弧ママ)と告げたとする。しからばこの人は、こういうことを知り得ないうちにやがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたくしのために〈世界は常住なものであるか、無常なものであるか〉などということについて、いずれか一方に定めて応えてくれない間は、わたしは尊師のもとで清浄(しょうじょう)行をしないであろうと語ったとしよう。しからば師がそのことを説かれないから、その人はやがて死んでしまうであろう」(MN.I.pp.429-30)
西洋で形而上学が発展したのは、教会がアリストテレスを採用したためだ。多分。キリスト教は砂漠で生まれた。砂漠には何もない。そこに広がっているのは天だけだ。だからキリスト教は自然環境を征服する対象と見なした。これは建築様式にも反映されていて、多くの教会が尖塔(せんとう)となって天を目指している。
「毒矢の喩え」は広く知られているが実に鮮やかな反論である。我々は生まれてから歴史、文化、伝統などの条件づけによって数えきれないほどの小さな毒矢を射(う)たれている。生の本質に暗い理由はそこにある。資本主義が世界を席巻してからというもの、人間の悩みは経済的なものに限定されてしまった。収入、対価、コスト、合理性など、あらゆることが経済的尺度に置き換えられる。
人生で本質的なこと、とりわけ、自らの行動原理にかかわることについて「無記」が大切なのは、言葉に表すことでかえって「動き」が止まってしまうから。
言葉で「こうだ」と決めつけてしまうことは、うごめく生命体をスケッチするようなもの。
【茂木健一郎】
これは卓見だと思う。生は瞬間瞬間とどまることがない。そのダイナミズムを言葉が止めてしまうというのだ。教義に額づく宗教者が愚かであるのも同じ理由だ。生を教義の中に閉じ込めることは本末転倒である。仏教は啓典宗教ではない。
私はやはり「毒矢の喩え」を忠実に読むことが大事であると考える。要はブッダが斥(しりぞ)けたのは「死から目を背け、死から遠ざかる思考」であったといえまいか。
時間は概念であるゆえ、永遠は存在しない。観測者がいなくなった時点で時間は消失する。変化という諸行無常の姿が時間の本質なのかもしれない。
【月並会第1回 「時間」その一】
我々は限定された時間を生きる。その限界性を打ち破るものは思考ではない。なぜなら言葉はシンボルにすぎないからだ。
そもそも言語機能は脳の部分的な働きであり、しかも後天的に獲得されたことを見落としてはなるまい。人間を深いところで支えているのは脳の古い皮質(大脳辺縁系)なのだ。
ブッダが見つめたのは生と死であった。形而上学は生と死を見失わせる。
ブッダは、しばしば良い医者に喩(たと)えられている。
そうして聖典の語るところによると、ゴータマは「わが道は真理である」と主張することなく、また「汝(なんじ)の説は虚妄(もう)である」といって相手を非難することもない(『スッタニパータ』八四三)。他の学説と衝突することもない(同上、八四七)。かれは一つの立場を固守して他の者と争うことがないのである。
したがってブッダの教えは、他の教えと「等しい」とか「勝(すぐ)れている」とか「劣っている」とかいって比較することもできぬものである(『スッタニパータ』、八四二以下、八五五、八六〇参照)。比較ということは、共通の場面の上に立っている者どもの間でのみ可能なのである。次元を異にする者どもの間では、比較は成立し得ない。世の哲人は〈真理の一部分を見る者〉であるが、ブッダは真理そのものを見る者である。この趣意を明かすために群盲が象を評するという譬喩が述べられている(『義足経』巻上。「鏡面王経」第五。大正蔵・四巻、178ページ上-下)。ゴータマ・ブッダは、種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見である、ということを確知して、そのいずれにもとらわれず、みずから省察しつつ、内心の寂静の境地に到着しようとした(『スッタニパータ』、八三七など)。「無争論」というのが根本的立場であった。「世間はわれと争えども、われは世間と争わず」。――このような「争わない」という立場が原始仏教経典のうちの最古層に表明されているのであるから、ゴータマは、当時の諸哲学説と対立する、なんらか特殊な哲学説の立場に立って、新しい宗教を創始しようとする意図もなく、また新しい形而上学を唱導したのでもない。ゴータマは二律背反に陥るような形而上学説を能(あた)うかぎり排除して、真実の実践的認識を教示したのである。
かれは、みずから〈真実のバラモン〉または〈道の人(沙門)〉となる道を説くのだ、ということを標榜していた。かれは徳行の高い昔の聖仙を称賛していた。ゆえにゴータマ・ブッダには、新しい別の宗教の開祖であるという意識は無かったようである。
私はクリシュナムルティを学んでから、ブッダや日蓮などには「教義を説いた自覚がなかったに違いない」と思うようになった。なぜなら一切の束縛から人間を自由にしようとした彼らが「私の教義に従え」と言うわけがないからだ。それが証明された。
例えば自殺についても無記と同様だと思われる。
・仏教は自殺を本当に禁じているのか?
・自殺を止められた釈尊の譬え話
・自殺についての仏教の視点 現実感覚の確立とあの世への連続感(PDF)
・自殺と向き合えない仏教
私も元々は自殺に絶対反対であった。その理由は強い者よりも弱い者を殺す罪は重く、男性よりも女性を殺す罪は重く、大人よりも子供を殺す罪は重く、他人よりも自分を殺す罪は重いというものであった。
もう10年以上前になるが後輩の父親が自殺をした。行方不明になってから半年後に青木ヶ原の樹海で発見された。掛ける言葉が見つからなかった。ただ一緒に泣いた。
もちろん「自殺するのも自由だ」と言うことは困難だ。しかし「自殺はいけない。自殺は悪である」という単純な論理が、どれほど遺族を苦しめることだろう。「自殺を止められなかったのは家族の落ち度だ」と自分たちを責めているにもかかわらず。
また喫煙や飲酒、コーヒーなどの刺激物、甘い物などの嗜好品を好むのは、「緩慢な自殺」と考えることも可能だろう。オートバイの暴走は文字通りの自殺行為である。不摂生、肥満、運動不足、他人の噂話、不勉強、怠惰、鈍感、凡庸……全部自殺行為だよ(笑)。
事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。
先日、「怨みはついにやむことがない」というツイートを紹介した。クリシュナムルティを通すと読めるようになる。縁起とは、「罵る人と罵られる人がいる」「害する人と害される人がいる」という事実を達観することだ。そこに強弱、あるいは上下という人間関係の物語を与えるから、自我が立ち上がるのだ。
我々は過去の物語に生きている。諸法無我とは「私」という連続性から離れることである。なぜなら過去を死なせることなしに、現在を生きることは不可能であるからだ。
・あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
・意識は過去の過程である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
言葉ではなく沈黙の中に無量のものがある。無記という静謐の宇宙を味わう。
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・ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
・死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
・クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ
・自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
・臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説
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