2011-12-16
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
東京の冬は苦手だ。もう人生の半分以上を過ごしているのに慣れることがない。道産子の多くがそうであろう。雪がないのに寒い、という事実が北国育ちの感覚を混乱させる。
冬の月が好きだ。透明な光が静かに冷厳な宇宙を照らす。星々が応じるように揺らめく。人々が寝静まった時間帯に月を見上げると、宇宙に浮かぶ自分を感じることができる。
そしてクリシュナムルティは私にとっての月光である。暗く冷たい世界を照らす智慧の光だ。
これまでの時代を通じてずっと、人間は自分を超えるもの、物質的な幸福以上のもの――私たちが真理とか神、真実在(リアリティ)、不滅の状態と呼ぶもの――環境や思考、人間の腐敗によって妨害されることのないもの、を探し求めてきました。
人はいつも自問してきました。全体どういうことなのか? 人生にそもそも意味などあるのだろうか? 彼は生のひどい混乱を、残虐さ、反抗、戦争を、いつ果てるともない宗教やイデオロギー、国籍による分裂〔不和〕を見て、深い、終わることのない欲求不満の感覚と共にこうたずねるのです。人はどうすればよいのか、私たちが生と呼ぶこのものは何なのか、何かそれを超えるものがあるだろうか、と。
そして自分が探し求めてきた、無数の名をもつこの名づけ得ないものを見つけることができないので、彼は信仰――救世主または何らかの理想への信仰――を培(つちか)ってきのたですが、それは必然的に暴力を生み出すのです。
私たちが生と呼ぶこのたえまない闘争の中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動規範を作ろうとします。私たちは何らかの行動基準を受け入れますが、それはヒンズー教、イスラム教、キリスト教、あるいは何であれ自分がたまたまそこに生まれ合わせたものの伝統の一部をなすものです。私たちは誰かに頼って行動の善悪を、思想のよしあしを教えてもらおうとしますが、こうしたパターンに従ううちに、私たちの思考と行動は機械的になり、反応は自動的なものになります。このことは、自分自身を省みれば容易に理解されることです。
【『既知からの自由』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳、霞ケ関書房、1970年の新訳版)以下同】
今年も様々な出会いがあった。昨今は人や本もさることながら、インターネットを介して遭遇する場面が少なからずある。そして擦れ違うような出会いでも影響を受けることは珍しくない。中でも鈴木傾城〈すずき・けいせい〉氏のブログには衝撃を受けた。
・Darkness
このブログを読破すれば、クリシュナムルティが指摘する「暴力」の現実が理解できる。
私が「暴力」に対して眼を開いたのはルワンダ大虐殺によってであった。
・『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
大乗仏教が説く「因果の物語」が呆気(あっけ)なく吹き飛ばされた。虐殺された子供たちに「過去世の罪」があったなどとは到底考えられない。そんな論法は「暴力の正当化」にさえなり得る。
そしてパレスチナを取り巻く情況を知り、アラブ文学と巡り会った。
・自爆せざるを得ないパレスチナの情況/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
・パレスチナ人の叫び声が轟き渡る/『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー
・暴力が破壊するもの 1/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
それまでに読んできた魔女狩り、奴隷、ナチスなどの知識が全部結びついた。そして脳科学や人類学で解明されつつあるネットワーク構造を知ると、暴力の根元が「集団」にあることがわかってきた。では集団性を支えるものは何か? これこそが宗教なのだ。(詳細は明年の書評で)
残酷極まりない世界の現実を目の当たりにした時、我々の中で何が変化するのだろうか? 多分二つのタイプに分かれることだろう。無力感に打ちひしがれて暴力を回避しようとする人。もしくは自分の周囲に限りなく存在する暴力の芽を鋭く見抜いて戦う人だ。
更に重要なのはニヒリズムから宗教否定に回る人と、既成宗教を超える宗教性を模索する人とに分かれることである。鈴木氏は前者で、私は後者である。
理由を一言で述べよう。科学は知性の次元であって感情を揺さぶることがない。知性とは思考であり、その本質は言葉である。人類は後天的に言語機能を獲得した。すなわち人間を奥深いところで支えているのは感情(情動)なのだ。そして感情を支配しているのが実は宗教なのだ。
・善悪とは
人類には文化という背景がある。そして文化は宗教に基づいている。
過去の宗教は「物語」であった。それゆえ「別の物語」とは戦わざるを得ない。アブラハムの宗教を巡る争いの理由もここにある。ま、コカコーラとペプシみたいなものだ(笑)。
無神論が脆弱なのは、人々がバラバラになることで結果的に種の保存を危うくするためだ。だから「新しい共同」なんてものは、「新しい宗教性」なくして成立しない。
例えば「飢餓」という名の暴力がある。西洋列強の植民地政策が今も尚、第三世界に暗い影を落としている。すなわち「経済」もまた形を変えた暴力なのだ。
・ウガンダの飢餓
・ケビン・カーター「ハゲワシと少女」
最初の動画はソマリアの子供である。「人はどうすればよいのか、私たちが生と呼ぶこのものは何なのか、何かそれを超えるものがあるだろうか」?
あなたと私はそれで、どんな外部の影響もなしに、どんな説得〔persuasion:「確信・信仰」の意味もある〕もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中にもたらすことができるでしょうか――私たちの存在のまさにその精髄の中に、全的な革命、心理的な突然変異を。そうしてもはや残虐冷酷でも、暴力的でも、競争的でも、不安でもなく、恐怖に満ちてもおらず、貪欲でも、嫉妬深くもなくなって、私たちが日々の生活を生きているこの腐った社会を築き上げた、私たちの性質の諸々の現れから自由になれるでしょうか?
真の自由とは「何かからの自由」でもなければ、「マイナスからの自由」でもない。歴史における革命は常に閉塞した社会が自由を求めて起こされたものだが、常に新しい権力者を生んだだけであった。
宗教(=教団)は恐怖というロープで信者を縛り上げる。ご丁寧なことにタブー(禁忌)という猿ぐつわをされ、迷える子羊は「安全」という名の椅子に腰掛けている。椅子を支える脚が「暴力」であるとも知らずに。
上述したように暴力の根元はヒエラルキー構造の集団性にある。つまり上下関係自体が実は暴力なのだ。クリシュナムルティは「どんな説得〔persuasion:「確信・信仰」の意味もある〕もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに」と一言でシンボリックに表現している。
世界を変えるためには、まず自分を変えなければならない。
それこそが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことは可能でしょうか?
そのような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょう? あなたは言うかも知れません。「私は変わりたくない」そして大方の人はそうなのです。とりわけ社会的・経済的に安泰な人たち、ドグマ的な信念をもち、自分自身や事物の現状や、それをほんのわずか加工して満足している人たちの場合には。そのような人々に私たちは関わりません。あるいはあなたはもっと微妙なこういう言い方をするかも知れません。「まあ、それは少しばかり難しすぎるね。私には向かない」と。こういうケースでは、あなたはすでに自分自身をブロックしてしまっているのです。あなたは問うことをやめており、だからもうそれ以上進むことはないのです。
痛烈な批判だ。我々は盲目的な信者を嘲りながら、自分たちが資本主義の奴隷となっている自覚を欠いている。安全、安定、現状維持こそ我々が望むものだ。餓死しつつある幼児が既に立つこともできず地面でクルクル回る姿を見ても、我々は生活を変えようとはしない。おわかりだろうか? 世界の残酷を支えているのはあなたと私なのだ。
先に進む前に、人生におけるあなた方の根本的、永続的な関心は何なのか、おたずねしてみたいと思います。もって回った答はどけて、この問題にまっすぐ誠実に向き合うとすれば、あなたはどう考えますか? それが何かわかりますか?
それはあなた自身ではありませんか? いずれにせよ、正直に答えるとすれば、それが私たちの大部分が言うだろうことです(ママ)。私は自分の進歩に、仕事に、家族に、私が暮している小さな片隅に、自分のためのもっとよい地位、もっと多くの特権、もっと大きな権力を得ることに、他者への支配力を強化すること等々に、関心があるのです。あなた自身に対してそれが自分の第一の関心事だということ――「私」が何より大事なのだということを認めるのは理にかなったことだと思うのですが、いかがでしょう。
自分のことを第一に考えるのは間違ったことだと言う人もいるでしょう。しかし、私たちがきちんと正直に、それを認めることはめったにないということは別として、そのことのどこが悪いのでしょう? もし自分が何より大事だと認めるなら、私たちはそれをかなり恥ずかしく思うでしょう。それで、こういうことになります――人は基本的に自分自身に関心がある。そして様々なイデオロギー的、伝統的理由によって、人はそれを間違ったことだと考えるのだと。しかし人がどう【考える】かは重要ではありません。なぜ「それは間違っている」などという要素(ファクター)を持ち込むのですか? それは考え、観念です。【事実】は、人は根本的・永続的に自分自身に関心がある、ということです。
あなたは言うかも知れません。自分自身のことを考えるより、他の人を助ける方が満たされた気分になると。違いは何ですか? それは依然として自己関心です。他の人たちを助けることがあなたにより大きな満足感を与えるとすれば、あなたは自分により大きな満足を与えてくれるものに関心をもっているのです。なぜそこにイデオロギー的な観念を持ち込むのですか? どうしてこの二重思考があるのでしょう? なぜこう言わないのですか? 「私が本当にほしいのは満足感だ。セックスでも、人助けでも、偉大な聖人、科学者、政治家になるのでも〔それが目当てなのだ〕」と。それは同じプロセスではないでしょうか? あらゆる種類の満足、微妙なものでもあからさまなものでも、それが私たちが欲しているものなのです。私たちが自由になりたいと言うとき、それは私たちが自由は素晴らしい満足感を与えてくれると考えるからです。そしてもちろん、究極の満足は、この自己実現 self-realisation という殊更(ことさら)な考えです。私たちが本当に追い求めているものは、そこにどんな不満もないような満足感なのです。
幸福の意味は満足に転落した。我々は欲望の実現が幸福であると完全に錯覚している。宗教家は自分が満足するために世界平和を唱えているのだ。死にたい、死にたくないというのも欲望だ。賢くなりたい、悟りたいというのも欲望だ。
一方の欲望から別の欲望へと移動したところで、何かが変わるはずもない。
「自己実現」とはマズローの欲求段階説に基づく考え方だ。心理学的な意味はあると思うが、こんなものは「神の国実現」の焼き直しであろう。最大の問題は、現在の自分を否定的な存在と見なしている点だ。宗教的視点からすれば、時間を要するものは「知識」や「技術」にすぎない。人生という時間の有限性を打破することが不可能だ。
世界はエゴ化した。
・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
この暴力に覆われた世界と、欲望にまみれた自分を超脱するためには「諸法無我」しか道はない。クリシュナムルティは「あなたが世界だ」と突きつけた。ならば、私の内側に自由と平和を打ち立てるまで。
クリシュナムルティについては書いても書いても書き足りない。
ジッドゥ クリシュナムルティ
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・すべての戦争に対する責任は、われわれ一人一人が負わなければならない/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ
・人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害してきた
・飢餓に苛まれる子供たち
・なくならない飢餓/『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会
カストロ氏、暗殺企てられた回数世界一 ギネスが認定
「暗殺を命じた国」としてアメリカもギネス認定すべきだろう。
暗殺されそうになった回数が世界一として、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が、ギネスブックに掲載されることになった。複数の同国メディアが伝えた。キューバ政府によると、米中央情報局(CIA)の文書に基づく記録で、暗殺の企ては2006年までに638回に上るという。
暗殺方法は、狙撃、葉巻への毒の注入、野球のボールに仕込まれた爆薬など様々だが、いずれも政府が事前に情報をキャッチし、失敗に終わった。
キューバの情報機関のトップを長年務めたファビアン・エスカランテ氏は昨年、前議長に対する暗殺の試みについての本を出版。最も深刻だったのは、61年にニューヨーク市内で企てられた爆弾計画だったと回想する。ミルクセーキに毒入りカプセルを入れられたこともあったが、幸運にものみ込まなかった。「フィデルは、待ち伏せを直感する能力がある」と話している。
【asahi.com 2011-12-16】
・カストロ暗殺未遂の大半はCIAによるもの
・若きカストロの熱弁
2011-12-15
関岡英之、別冊宝島
2冊挫折。
『別冊宝島 原発の深い闇』(宝島社、2011年)/見出しが過激に踊り、鼻白む。大衆迎合の臭いがプンプンしているよ。好評だったようで続刊も発売されている。『別冊宝島 原発の深い闇 2』。今まで不問に付してきた情況こそ問うべきであろう。
『アメリカの日本改造計画 マスコミが書けない「日米論」』関岡英之+イーストプレス特別取材班編(イーストプレス、2006年)/関岡と佐藤優の対談は面白かった。大川周明、有末精三、陸軍中野学校について。あとは生臭くて手が出ない。
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