本来であれば、ひたすら抜き書きをしたいのだ(笑)。書写の快楽に浸(ひた)りたい。しかしながら、それでは私の味覚が伝わらない。それゆえ仕方なしに所感を綴っているのである。
だから、江口はそこかの「引用せずにはいられない」というキャッチフレーズは死ぬほど共感できる。
そして致命的な問題も発生した。実は数年前からキーボードの打ち過ぎで腱鞘炎(けんしょうえん)になってしまったのだ。始めのうちは肘に痛みを覚えたのだが、一昨年あたりから十本指の全関節が痛み出した。ピアニストなどに見られる症状のようで、放置しておくと指の関節が拘縮するケースもあると知り、さすがの私も青ざめた。
で、音声入力ソフトを試したのだが、如何せん変換率が悪い。そんなこんながあって昨年からはデジカメ撮影で保存するようになった。でもさ、画像で保存すると殆ど見ることがないんだよね(笑)。
そもそも、ひたすら書写するという研鑚方法に問題がある。初めてパソコンを買った当初、テキスト入力でキー操作を練習し、数ヶ月かけて4万文字を入力した頃タッチタイピングができるようになっていた。
今は桁が違う。クリシュナムルティの『子供たちとの対話 考えてごらん』に至っては9万5000字ほど入力したが、これを3~4日間で行っている。更に悪いことは、クリシュナムルティを読むようになってから感受性が鋭さを増し、さほど変哲のない文章にも感動を覚えるようになってしまった。
過去に入力した分だけ見返しても、とても発信できる量ではない。
そこで、やはり基本スタンスを確認する必要に迫られている。私は明年で50歳になるのだ。うかうかしているうちに介護保険のお世話になってもおかしくない年代だ。ライフワークの「ライフ」があと20年くらいしかないのだ。ちょっと背伸びしただけでゴールが見える位置にいるのだ。人生のハーフタイムは既に過ぎている。あな恐ろしや。
「ブッダの初期経典とクリシュナムルティを結びつけ、大乗仏教から政治性・世俗性を抜き去る」というのが個人的なテーマである。
ただし私は学識者ではないし哲学者でもない。具体的な立場としては「キャッチャー」なのだ。
“民謡研究者”という立派な呼称もあるもの(ママ)、一般には“ソング・キャッチャー”と呼ばれている。
【『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳(文藝春秋、2008年/文春文庫、2011年)】
豪速球を受け止め、受けたボールを軽く投げ返すのがキャッチャーの仕事である。目指すは書評家ではなくブック・キャッチャーだ。
私は3000冊ほどの本を読んできたが、本格的に集中して読むようになったのはここ数年のことである。それらがやっと、つながるようになってきた。これがまた実にスリリングなんだ。知識の光が合わせ鏡のように反射する時、縁起が少しだけ実感できる。
というわけで、2012年も宜しくお願い申し上げます。
◎カルト教団のリーダーvsキネシクス/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー
◎「なぜ入力するのか?」「そこに活字の山があるからだ」