2012-01-08
天国と地獄と中国
@wwwwww_bot
笑ってはいけない 生前悪い行いをした者は地獄に、 良い行いをした者は天国に、 中くらいの行いをした者は中国に行くという。
Jan 06 via twittbot.netFavoriteRetweetReply
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
・キリスト教を知るための書籍
・宗教とは何か?
・ブッダの教えを学ぶ
・悟りとは
・お腹から悟る
・身体革命
・物語の本質
・権威を知るための書籍
・情報とアルゴリズム
・世界史の教科書
・日本の近代史を学ぶ
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・時間論
・ミステリ&SF
・必読書リスト
氏家〈うじけ〉さんのツイートで青木勇気というライターの存在を知った。
「フラットに読まれるべきものが先に結論付けられてはいないか、このことを問いたいだけだ。そして、その問いに答えられないものは、決して確からしいとは言えない」。多数派か少数派かによって変わる“確からしさ”について - 青木勇気 #BLOGOS http://t.co/FIACdi6W
— 氏家法雄 (@ujikenorio) 2012, 1月 7
・多数派か少数派かによって変わる“確からしさ”について | アゴラ 言論プラットフォーム
BLOGOSは私の趣味に合わないため殆ど見ることがない。何て言うんでしょうな。インチキ臭い(笑)。多分、編集方針がないためだろう。雑多というよりは、まとまりを欠いているというべきか。
早速、本人のブログを読んだ。
・Write Between The Lines.
先の記事もそうだがとにかく文章がいい。読んでいて気持ちがよくなってくる。その上、箴言力(コピーライティングのセンス)があるのだから侮れない。
で、注目に値する記事を発見した。
・「物語」とは何であるか
私の専門分野だ(ニヤリ)。ケチをつけようと思えばどんな角度からもつけることが可能だ(笑)。しかし、私が「物語」に気づいたのは4年前のことである。青木は私より一回り以上も若い。ならば援護射撃をすべきだろう。
私が「物語」を悟ったのは、上杉隆著『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』を読んだことに始まる。それ以前から「思想とは物語である」という持論があったのだが、上杉を通して「物語を編む」営みに初めて気づいた。
私は文筆家ではなく古本屋のため、ここはやはり読書の水先案内としておこう。
その頃、私が吹聴していた「物語論」は、岸田唯幻論の幻想とは違った。世界の構造・結構としての物語性であった。生きることが物語なのではない。我々は物語を生きるのだ。
・唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀
森達也の『A』はカメラの位置をオウム信者側にしただけで物語を反転させてみせた。
・森達也インタビュー
その意味で私の小さな思いつきが完全な形で表現されたのが、野家啓一〈のえ・けいいち〉著『物語の哲学』であった。
・「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
もうね、ぐうの音も出なかったよ。当時は野家啓一が神様に思えたほどだ。きちんと書評を書いていないので一両日中にアップする予定。
ここからが私の本領を発揮する地点だ。まずは歴史。理想的年代記が物語を紡げないのであれば、物語を編むのは歴史家の仕事となる。つまり歴史トピックの取捨選択に物語性が込められているのだ。ここでわかるように物語性の本質とは「因果関係」(=起承転結)である。
そこでまず世界史という物語の枠組みを知る必要がある。
・世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
次に歴史という概念を学ぶ。
・読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
・歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
本気で勉強するなら、ここで野家本を再読するのが望ましい。
で、先ほど申し上げた因果関係を木っ端微塵に粉砕するのがこれ。
・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
ここからの急降下はジェットコースター級となる。諸君、振り落とされるなよ(笑)。
まずは岸田唯幻論を踏まえた上で脳機能を知っておこう。
・唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司
で、「負の物語」ともいうべき迷信・誤信について書かれたのが以下。
・怨霊の祟り/『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎
・誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
人類が創作した最大の物語は「神」であろう。
・脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
ここで振り出しに戻って物語を見つめる。
・必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
次は変化球になってしまうが、「相関関係=因果関係ではない」ことを学ぶのに欠かせない。
・相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
医療や製薬会社を取り巻く「業界の物語」と置き換えることも可能だ。
そろそろ最終コーナーに差し掛かる。
・比較トラップ/『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
更に加速しよう。ラストスパートだ。
・エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
・宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
・『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
これで大体、「物語の本質」は征服できる。あとは止(とど)めの2冊だ。
・服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
・現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
物語の正体は確証バイアスであり、確証バイアスから宗教が生まれた。一言で書いてしまうと身も蓋もないように思えるだろうがそうではない。人間の「錯覚できる能力」が物語を紡ぎ出すのだ。
ゆえに困難や危機が訪れるたびに「人類の物語」を更新してゆくことが正しい。個人においても同様である。
ただし真の宗教性に立てば「物語=主役としての自我」から離れることが唯一の道となる。神という創造物は人類にとっての自我も同然であって、それ自体が物語にすぎない。今のところ真の宗教性として認められるのはブッダの初期経典とクリシュナムルティのみである。
最後に青木の著作を紹介しておく。彼の勁草(けいそう)を思わせる柔らかな感性に期待したい。
・物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
・物語
・虐待による睡眠障害/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
・『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
2012-01-07
気がつけば月の光
昨夜、妙な体験をした。
少し前から深夜のサイクリングにハマっている。深々(しんしん)と冷え込んだ闇こそ、独りゆく者に相応しい。繁華街を過ぎれば人と擦れ違うこともない。車すら滅多に通らない。
15分ほどペダルを漕ぐと身体が温まってくる。南浅川のせせらぎがペダルのリズムと同調する。辺り一面は透明な月光に包まれている。生の象徴が太陽であるならば、月は死を象徴しているのだろう。そして生も死も本質は光なのだ。私はそう思う。
最初のうちはあれやこれやを考えているが、ペダルの単調な動きが思考を抑制し、瞑想状態へ誘(いざな)う。街灯の少ない場所だとびっくりするほど星がよく見える。糸筋のような光が無数に降り注ぐ。
細い刃(やいば)のような三日月が、日を増すに連れどんどん大きくなってゆく。あと2~3日もすれば満月だ。
昨夜もいつもと同じように私は月光に包まれていた。しかし何かが微妙に異なった。フワフワした感触があった。「あ!」と気づき、振り返りざまに空を見上げた。月が私を見守っていた。確かに見守られている感覚があった。月に向かって私は声を発した。「Kよ……」と。
クリシュナムルティはKと呼ばれることを好んだ。多分、人格神として祀(まつ)られることを忌み嫌ったのであろう。「自我など記号にすぎない」というメッセージが伝わってくる。
昨日紹介したテキストの全文を読んで私の脊髄に変化が生じた。脳、ではない。身体全体を司る中枢神経だ。
・死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
「見る」ことは「気づく」ことであり、「気づく」ことは「見る」ことであった。
私は32歳の時に半年間で5人の後輩を喪ったことがある。その後もう一人が逝った。死の理不尽さを呪おうとも思ったが、死という現実を受け容れ、引き摺って生きてゆく道を選んだ。それこそ命の底からブルドーザー並みの馬力を引き出さねばならなかった。
クリシュナムルティは死後の存在については何も語っていない。無記である。だが、「語らない」中に慈悲があるのだ。語られたものは知識となってしまう。知識は死物である。
無記とは沈黙によって欲望を炙(あぶ)り出し、粉砕する行為なのだろう。それを知った瞬間から私は馬力を必要としなくなった。外側から見つめれば悲哀は固体と化しているが、内側に潜り込むことで液状化され、気化してしまった。
単純な昂奮とは違った心臓の高鳴りを覚えた。今までとは別の響きが鼓動に感じられた。静かな感動が脈を通して身体全体に伝わった。
疾走しながら何度も月を見上げた。「本当にKなのか?」と。クリシュナムルティに見守られている感覚が抜けなかった。
しかし私は合理的な人間だ。神はおろか、幽霊や宇宙人の類いは絶対に信用しないし、スピリチュアリズムには唾を吐きかけることを信条としている。幽霊が出てきたら足元で立ち小便をし、神様が登場したら顔にまたがってウンコをすることもやぶさかではない。「ははーん、さては例のテキストに感動したあまり、脳が酔っ払った状態になったのだろう」と自己分析した。
と、その直後である。脚がブルブルと震え出した。手も震え、遂に全身がわなないた。まだ、「そんなバナナ」と言うだけの余裕はあった。
気がつけば月の光があった。月、ではない。ただ月の光が世界を支配していた。そこには私も月も存在していなかった。
家路に就く途中で感じの悪い中年男と擦れ違った。私はいつもの日常に舞い戻っていた。
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