2012-02-17

不思議な物語性


La fotografía chilena está de duelo: A los 81 años murió Sergio Larraín


 強烈なアッパーカットを食らったような気分だ。濃厚な物語性を読み解くことができない。二人の少女は擦れ違ったのか、それとも分離したのか? 手前の少女がやや小さく見える。持っている壜(びん)まで。とすると過去と未来を表現したのだろうか? にもかかわらず、光が当たっている少女は壁に行く手を遮(さえぎ)られている。脳内でシナプスがバチバチと発火しながら収まることがない。

2012-02-15

若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』プリーモ・レーヴィ

 ・若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ
 ・無名の勇者たちは「イタリア万歳」と叫んで死んだ
 ・パルチザンが受けた拷問

『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ファシズムとはムッソリーニ率いるファシスト党(全国ファシスタ党)のイデオロギーであって、厳密にはナチズムと区別する必要がある。

 一緒くたになってしまった理由だが「(ナチズムに)敵対する社会主義・共産主義陣営であるスターリンやコミンテルンは、ナチズムはイタリアのファシスト党のイデオロギー『ファシズム』の一種であると定義し、『ファシズム』と呼んだ」(Wikipedia)ためだ(社会ファシズム論)。

 先に白状しておくが、私はこのあたりの歴史に詳しくない。往々にして独裁者は政治的混乱の中から登場する(Wikipedia)が、黒シャツ隊からファシスト党への流れから見ても、ムッソリーニに対して一定数の国民からの支持があったことは確かだろう。ヒトラーもまた同様である。

 ムッソリーニは抜かりなく、ヴァチカンからの支持も取りつけた。

 本書はイタリア・パルチザンが処刑直前にのこした遺書を集めた作品だ。私は20代で一度開いたのだが読み終えることができなかった。バブル景気の余韻に浸っていたわけではなかったが、自分と同年代の死を正面から見つめることは困難を極めた。20年を経て私は彼らの父親の世代となった。我が子の最期を見届けるような思いで再び重いページを開いた。絶版となることを恐れて購入した3冊の本は真新しいままだった。

 前にも書いたが、キーボードの叩きすぎで数年前から腱鞘炎となり、近頃は右の中指がおかしくなってきた。そんなわけで以前のような入力は難しいので、細切れの書評となることをお許し願いたい。

 若きパルチザンからの鮮烈なメッセージはまず翻訳者を直撃した。今回は河島英昭の「解題」のみを紹介する。

 イタリアの民衆はファシズムの試練に耐えた。その苦しみと、戦い抜いた喜びの上に、今日のイタリアの文化は築かれている。あまりにも重いこの歴史的事実への反省なしに、私たちはイタリアの文化を語ることができない。文学もまた文化の一環である以上、反ファシズム闘争への考察を抜きにしては、それを直接の基盤とする戦後イタリアの文学を、語ることができない。と同時に、イタリアの文学を検討する場合には、敢えて言うが、たとえばルネサンス文学の研究をするときにさえも、この視点をはずすわけにはいかない。ダンテを論ずるときにも、ペトラルカ研究を行なうさいにも、あるいはマンゾーニを紹介するときにも、この視点をはずして、私たちの文学的営為は一歩も前へ進めないだろう。
 なぜならば、ファシズムの試練に耐えた今日のイタリアの文化が、絶えまなく、私たち自身の文化への反省を促すからであり、また他の文化への考察を進めれば進めるほど自国の文化への反省は深まってゆき、ある意味では外国の文化の研究ほど自国の文化の脆弱な基盤を明るみに引きだすものはないからである。その危うい緊張関係において、文学者もまたおのれの研究の基盤を築かねばならないのであり、虚ろな象牙の塔に籠って文化を説くことの滑稽さを、私たちは承知しているつもりだ。
 しかしながら、いつまでも覚えておこうと決意する、永遠の瞬間が、たちまちに日常の雑事の波間に見失われていくように、私たちはとかく歴史的事実のあいだに埋めこまれた真実を忘れがちである。戦後三十数年を経て、日本におけるイタリア文化の研究や紹介も、乏しいながら種は播かれた、と言ってよいであろう。そしてその望ましい種を実らせるためにも、彼我の文化の土壌になるべき反ファシズム闘争の差異を、その貴重な経験の有無を、ここに改めて確認しておく必要がある。そのために、ささやかながら、私たちは本書を訳出した。しかも私たちの意図は、いわば外面から考察を加える、状況や運動の研究あるいは分析に対して、民衆の個々人の心のなかのありさまを内面から少しでも明らかにしたい、という点にある。文学もまた、その固有な方法によって、歴史における文化研究の一端を、担わねばならないであろう。

【『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編:河島英昭、他訳(冨山房百科文庫、1983年)「解題」河島英昭、以下同】

 力のこもった名文である。私は兼ね兼ね冨山房(ふざんぼう)が出版界の良心であると思ってきたが、まったくもって冨山房に相応(ふさわ)しい名調子だ。

 河島の視点はパルチザンをイエスになぞらえる。歴史紀元の基準をパルチザンに合わせよ、というのだから当然だ。それゆえ分水嶺という言葉は正確ではない。パルチザンに至る過去と、パルチザン以降の未来を分かつのだから、それはゼロ地点を意味する。

 それは断じて抵抗ではなかった。ファシズムへの攻撃であった、と「序」のなかでE・E・アニョレッティは書いている。「いまは慣例に従って、イタリアにおける解放運動を〈レジスタンス〉と呼んでおこう。だが、それが抵抗ではなく、あくまでも攻撃であり、主体的な行動であり、理念上の革新であって、何ものかを【保持しようとする試みでなかった】ことだけは、決して忘れないようにしたい」(本書8ページ、傍点は引用者)。この言葉には、みずから立ちあがって戦い抜いた者たちの、自信が漲(みなぎ)っている。そしてその結果の上に、イタリアの民衆は戦後の新しい文化を築いた。政治的にはまず国民投票によって君主制が廃止され、共和制が確立されたのである。

 その意気やよし。ここにイタリア抵抗運動の魂がある。ファシズムやナチズムがスタイリッシュであったのに対し、多くのパルチザンは普段着であった。彼らを歌った作品も朴訥なリズムの曲が大半だ。着の身着のままで立ち上がったところに彼らの強みがある。

 それにしても、イタリアにおいて、なぜ反ファシズム闘争が可能であったのか? 本書の《手紙》の老若男女の書き手たちは、どのようにして個人の苦しみと歴史の苦しみによく耐えたのか? この疑問に対する答えは、掛け替えのないこれらの魂の記録の一篇一篇の行間に、いわば無限の深淵となって、垣間(かいま)見えるであろう。それらを覗(のぞ)きこむたびに、私たちは目の眩(くら)む思いがする。それはあたかもすぐれた詩に出会ったときの衝撃に似ている。一瞬後に、私たちは閉じたおのれの瞼(まぶた)の裏に、永遠の暗い輪を認めるであろう。死が永遠であるがゆえに、それは死から発せられた一つの答えだ。思うに、本書ほど死の影に満ちみちた記録は少ない。しかも個々の戦士は、みずからの意志で、死に立ち向かったのである。

 V・E・フランクルプリーモ・レーヴィは生き延びた。だから彼らが書いた悲惨な経験にはまだ救いがある。しかし本書の手紙はその全てが遺書なのだ。情報の圧縮度が桁違いであることは言うまでもない。「最期の言葉」が400ページ上下二段に渡って綴られているのだ。中途半端な根性で読み終えることができるわけがない。死にゆく彼らの手を握る覚悟が読者に求められるのだ。

 1920年代から40年代にかけて、イタリアの民衆はファシズムから反ファシズムへと、激しい思想の変革を遂げた。もちろん、A・グラムシやP・ゴペッティのように、すぐれた思想家や知識人たちが果たした指導的役割の重要なことは、言うまでもない。しかし、それに劣らず重要なのは、民衆が彼ら自身の生活のなかで、結果的に思想の変革を果たしたという事実である。その変革は日々のなかでの、個々人の精神の軌跡が、そして彼らの共通の理想を支えた叙事詩的クリフが、本書のなかには読みとれるであろう。

 確かにそうであろう。だが歴史を文学的に形容するだけでは物足りない。やはり厳密な情報分析と複雑系的アプローチが必要だ。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 最後に、不幸にしてイタリアの民衆と同じく、困難な状況下におかれた日本人にとって、昭和18(1943)年から昭和20(1945)年にかけて、抵抗運動が、ましてや解放闘争が、ほとんど存在しなかった事実を、確認しておかねばならない。この甚だしく不幸な時期にあって、いわば体制の犠牲者としての魂が、なかったわけではない(たとえば『きけわだつみのこえ』のように)。だが、私たちは苦しい共感をもってそれらの記録に接することがあっても、それらが〈レジスタンス〉の記録で【なかった】ことだけは忘れないでおきたい。なぜならば、彼らの銃口は――たとえば学徒動員された兵士のそれは――【別の方角】へ向けられていたのであるから。本書の手紙本文や略歴から容易に読みとれることだが、イタリア抵抗運動のパルチザン兵のなかには、正規軍からの脱走者が数多く含まれていた。銃口の向きを変えるためには、おのれの肉体の消滅を賭けて、思想の変革を果たさなければならない。

 奇しくも今日のツイートで『きけ わだつみのこえ』を紹介した。

近藤道生と木村久夫/『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編

 苦労というものは固有のものである。他人が軽々しく論じることは避けるべきだろう。しかし河島の指摘は我々日本人の肺腑(はいふ)を貫き、深い自省を促す。我々は罪を問うこともなく、罰を連合軍に委ね、「過ちは 繰返しませぬから」と国民の連帯責任にすることで戦争の罪科を水割りのように薄めてしまった。

 つまり日本におけるファシズムが実はまだ終わっていない可能性がある。河島が「銃口の向きを変える」と書いているのはそのことだ。

 抵抗運動とは何か? それは殺されることを意味する。

画像(※ハングルのためイタリアかどうかは不明)
Partisan:画像検索

 一朝事ある時に私は立ち上がれるだろうか? 「立て!」と若きパルチザンの叱声が耳の中で谺(こだま)する。