表現のなかで、人間がいちばん惹(ひ)かれるのは、その文体、スタイルである。人間を好きになる場合でも、その人のスタイルを好きになるのだ。どう生きているか、といった対他的、対社会的スタイルに共鳴するかしないか、である。
【『書く 言葉・文字・書』石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉(中公新書、2009年)】
挫折本である。読書日記に書くのも忘れていた。多分今年の1月に読んだと記憶する。石川の頑(かたく)なさが、どうも肌に合わない。書字にこだわって主張が勝ちすぎている。相手の話に耳を傾けるゆとりが感じられない。文章は神経質で生硬さを帯び、『一日一書』のような軽やかさに欠ける。主張をすればするほど人間の幅が狭く見えてくる。
それでも尚、この一文は光っている。私の内側でモヤモヤとした疑問が立ちどころに形をなして、そのまま氷解した。我々が物語に感動するのはストーリーや構成よりも、文体や語り口によるところが大きいのだろう。
「歴史とは文体(スタイル)の積畳である」とまで石川は言い切っている。
・人間の表出と表現の積畳が歴史
「生の本質は反応である」という我が持論からすれば、「反応は常に表現的である」と導かれる。これは意図や演出があろうとなかろうと、相手の瞳には「表現」と映ることを意味する。
こう書くと何だか小難しい話に聞こえるかもしれないが、好きなヒーローやヒロインを思い浮かべると腑に落ちる。例えばロバート・B・パーカーが描くスペンサー、例えば私が敬愛してやまないアフマド・シャー・マスードや鹿野武一〈かの・ぶいち〉など。そのスタイルを我々は「生きざま」と呼ぶのだ。
「ざま=様、態」とは「さま」が訛(なま)った言葉で、その意味は次の通りだ。「1.物事や人のありさま。ようす。状態。 2.姿かたち。かっこう。 3.方法。手段。 4.理由。事情。いきさつ。 5.おもむき。趣向。体裁」(「大辞林」による)。
つまり「物」ではなく「事」である。固定ではなく変化。単独ではなく関係性。
思考や性格を支えているのも多分文体である。石川の指摘はそれほど深い。
・香る言葉/『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ
・思想する体/『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・「自己」という幻想/『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク