2013-11-02
ジェフリー・ディーヴァー、アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム、丸山健二、ネレ・ノイハウス、ユッシ・エーズラ・オールスン
5冊挫折、2冊読了。
『深い疵』ネレ・ノイハウス:酒寄進一〈さかより・しんいち〉訳(創元推理文庫、2012年)/酒寄進一の訳が苦手だ。読み終えた例(ためし)がない。
『風を見たかい?』丸山健二(求龍堂、2013年)/求龍堂というスポンサーに丸山は支えられているのが腑に落ちない。数ページで挫ける。
『人生なんてくそくらえ』丸山健二(朝日新聞出版、2012年)/つい半分以上読んでしまった。昔を懐かしむあまり。若い人は読むといいよ。丸山のメッセージは常に一方的だ。対話性を欠いている。その独善性が小説作品をつまらなくしてしまったのだろう。『メッセージ 告白的青春論』(1980年)、『君の血は騒いでいるか 告白的肉体論』(1981年)を読んだ時の昂奮はどこにもなかった。なんと、『新装版 まだ見ぬ書き手へ』(眞人堂、2013年/朝日文芸文庫、1997年)が出た。これはお薦め。
『時空の歩き方 時間論・宇宙論の最前線』スティーブン・ホーキング、他:林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、2004年)/予想以上に難しかった。
『特捜部Q 檻の中の女』ユッシ・エーズラ・オールスン:吉田奈保子訳(ハヤカワ文庫、2012年)/翻訳がダメ。意味不明な箇所が目立つ。シリーズものだけに残念。
53冊目『追撃の森』ジェフリー・ディーヴァー:土屋晃訳(文春文庫、2012年)/こりゃダメだろう。手抜きとしか思えない。ま、それでも最後まで読んだけどさ。
54冊目『死刑囚』アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム:ヘレンハルメ美穂訳(RHブックス・プラス、2011年)/武田ランダムハウスジャパンの文庫本。これは佳作。ヘレンハルメ美穂とくれば北欧ミステリ。社会派小説かと思いきや、最後に大どんでん返しが待っている。死刑反対の物語でもある。
古代中国では、宇宙=世界を覆う屋根
古代中国、後漢時代(25年~220年)に編纂された最古の部首別辞書『説文解字』(※)によれば、“宇”の文字はもともと建物の屋根の縁を示しており、そこから時間とともに“この世の限りを覆う大屋根”を指すようになっていったという。また、“宙”の文字は、もともと建物の屋根の中心である“棟木”の意味で使われていたが、徐々に“過去・現在・未来の時間の広がり”といった意味を含むようになったことが記されている。
【宇宙という言葉はどこから来たの?:秋山文野】
・我々は闇を見ることができない/『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明
ロン・マッカラム:視覚障害者の読書を可能にした技術革新
ロン・マッカラムは1948年に生まれ、生後数か月後に視力をなくしました。この愛情に溢れた感動的なスピーチにおいて、彼は優れたツールやコンピューターを利用した支援技術の進化によっていかに彼が読めるようになったかをお話しします。親切なボランティア達の協力によって、彼は法律家になっただけでなく、学問の世界で生き 何よりも素晴らしいことに貪欲な読書家になりました。視覚障害者の読書革命へようこそ。(TEDxSydneyで撮影)
巧まざるユーモアが彼の豊かな人生を雄弁に物語っている。録音テープを「聴く」ではなく「読む」と表現しているところに注目。テクノロジーの進化が脳と身体機能の拡張であることがよく理解できる。レイ・カーツワイルの名前も登場する。スピーチ終了時における天衣無縫さが少年のようだ。
ヘルマン・ヘッセ著『シッダルタ』『シッダールタ』翻訳比較
◆美しくて意味明瞭な翻訳
ヘルマン・ヘッセの「シッダルタ」は入手可能な翻訳が何点かあります。そのうち三点から冒頭の数行を抜き出して、比較できるようにしました。
【手塚富雄訳】蔭なす我が家のほとりに、日あたる川岸の小舟のかたわらに、沙羅の森、無花果の木蔭に、婆羅門の美しい子、若き鷹、シッダルタは、彼の友で同じ婆羅門の子であるゴヴィンダとともに育った。川の岸辺で、彼が沐するとき、浄めのすすぎを行うとき、聖なる犠牲を捧げるとき、日はかがやかな肩の肌を褐色に染めた。マンゴーの森で、彼が少年らしい遊びに耽るとき、母の歌にうっとりとするとき、聖なる犠牲を捧げるとき、学識深き彼の父の教えに耳を傾けるとき、賢者の談話の席につらなるとき、木下闇の影は彼の漆黒の目に流れ入った。
【岡田朝雄訳】家の陰で、小舟の浮かぶ日の当たる川岸で、沙羅の森の陰で、無花果の木の陰で、美しいバラモンの子、若い鷹、シッダールタは、彼の友、バラモンの子、ゴーヴィンダとともに生まれ育った。太陽は、川岸で、神聖な沐浴のときに、供犠を行うときに、彼の輝く肩を褐色に焼いた。マンゴーの林で、少年たちと遊ぶときに、母の歌を聞くときに、神聖な供犠を行うときに、学者である父の教えを受けるときに、賢者たちの談話に加わるときに、影は彼の漆黒の目に流れ込んだ。
【高橋健二訳】家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、サラの木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタは、バラモンの美しい男の子、若いタカは、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダとともに、生い立った。太陽が彼の輝く肩をトビ色に焼いた。川岸で、水浴の折りに、神聖な水浴の折りに、神聖ないけにえの折りに。……影が彼の黒い目に流れこんだ。マンゴーの森で、少年の遊戯の折りに、母の歌を聞くときに、神聖ないけにえの折りに、学者なる父の教えを聞くときに、賢者たちの談話の折りに。
手塚富雄の翻訳が、日本語として最も美しく、流麗で、上品なのは一目瞭然ですが、少し検討すると最も意味明瞭なのも手塚の訳だと判ります。
他の二点には状況描写で曖昧な箇所がいくつかあります。例えば、シッダルタの目に流れ込んだ影はマンゴーの木陰だということが不明。
高橋健二訳は残念ながら、配慮が行き届いた翻訳とは言えないように思います。文を途中で切断したために「日がシッダルタの肩を焼いたのは、川岸でのこと」だと分からないし、「何をしているときに、シッダルタの目に影が流れ込んだのか」が不明です(意味を保存せず文や句を切断して訳すのは彼の通常の傾向のようです)。また、同一の文の中で「シッダールタは…」「バラモンの美しい子、若いタカは…」と続けて、二重に主語があるような混乱した印象を与えます。さらに外国小説でいきなりカタカナ表記で「若いタカ」とあるので、人名か鳥名か一旦は迷います。
高橋訳「シッダールタ」は新潮文庫の一冊で、入手容易であったため多くの読者を獲得し、アマゾンの投稿数にも反映されています(現在39件)。一方どういうわけか手塚訳は長らく入手困難で、ようやく昨年(2011年)岩波文庫から復刊されました。
これだけの傑作ならばどのように翻訳しても伝わるものがあるでしょうから、高橋や岡田の「シッダルタ」がアマゾンで高評価を受けたのは、あながち間違いでもないと思います。でも、これからは手塚富雄の「シッダルタ」がもっと評価されるよう願っています。この文庫本は1953年刊の翻訳を底本にしていますが、私が最初に読んだのは1972年刊の筑摩世界文学大系の翻訳でした(図書館で借りた)。両者を比較すると微細な言い回しの異同があちこちにあって、翻訳家としての彼の誠実さがうかがえます。
【立山太郎 2012-07-18】
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