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『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』宏洋
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エホバの証人の輸血拒否
・読後の覚え書き
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子供を虐待するエホバの証人
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『良心の危機 「エホバの証人」組織中枢での葛藤』レイモンド・フランズ
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エホバの証人批判リンク集
私は若い頃からエホバの証人とは幾度となく接してきた。二十歳の時、長老と思しきオッサンを完膚なきまでに論破したのが最初であった。爾来、40人前後のエホバとやり取りしてきた。エホバの書籍も読んだが負けることはなかった。あらゆる宗教はその「信ずる行為」において必ず合理性から飛躍せざるを得ない。そこに致命的な誤りがある。厳密な知的検証に耐えられるのは初期仏教のみであろう。
エホバの証人で活動している多くは女性である。伝道に時間的ノルマを課せられているためだ(詳細は「
エホバの証人の組織構造」を参照せよ)。私は真面目で真摯な彼女たちに対してかなり好感を抱いていた。ただし八王子で接した連中はかなりレベルが低かった。本書によれば地域によっては高齢化が進み、士気の低下が著しいとのこと。そう。いかなる組織も日本社会の縮図であることを避けようがないのだ。
宗教に翻弄される一家の姿が鮮やかに描かれている。徹底した活動と研鑚がやがて懐疑に至る。大多数の信者はアイデンティティの欠如を教団への忠誠心で補っているだけだ。これはどこも一緒だ。彼らの脆弱な自我は「疑う」ことを知らず、安易に世間を批判し、裏切り者を叩くことで歪んだ自己満足を覚えるのだ。
佐藤は懐疑を手放さなかった。自分の頭で考え抜いた。そして知性が感情をリードした瞬間に洗脳は解けた。過去の自分が「見えた」。
それにしても児童虐待の件(くだり)は酷い。親同士は教会で虐待を奨励し合い、具体的な手法まで情報交換するという。この一点を取り上げても邪教といってよいだろう。
神に関わる人間と戦争に関わる人間は妙に似ているな。
【『ブラッド・メリディアン』コーマック・マッカーシー:黒原敏行訳(早川書房、2009年)】
布教は宣教であり形を換えた戦争なのだ。そしてキリスト教の歴史は暴力と血で染まっている。
殆どの教団は憎悪生産装置として作動する。
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大田俊寛と佐藤剛裕の議論から浮かんでくる宗教の危うさ
やはりダニエル・C・デネットがいうように宗教とはウイルスである可能性が高い。以下のページでアリとカタツムリを支配するゾンビのような菌類の動画を紹介しているので参照されよ。
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ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
しかも菌類が寄生することで昆虫たちは「長生き」できるのだ。
佐藤は上品な家庭で育ったせいか、かなり脇が甘い。母親に対して一切の反撃を控えてきた。本書を丹念に読んでゆくと後半にその答えがすべて書かれている。
なかんずく教団離脱後のアイデンティティ・クライシスが象徴的だ。エホバはコミュニティとしての機能はあるが人材を育成する組織的機能を欠く。つまりコミュニケーションによって自分を磨く術(すべ)がないのだ。
だから江原啓之〈えはら・ひろゆき〉の本なんぞに手を出すのだろう。そこで『スッタニパータ』かクリシュナムルティに進めば悩む必要はなかったはずだ。すなわちそれまでの価値観が本の選択をも左右するのだ。
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蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
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宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
懐疑から否定が生まれる。だが実はそこで自分が高みを目指しているのか、それとも単なる逃避に向かうが問われるのだ。佐藤は宗教をプラグマティックに考えているようだがそれは誤りだ。なぜなら効用と合理性は異なるからだ。
佐藤がエホバの証人を批判しつつも、その批判から離れることができればアイデンティティの問題なんぞ雲散霧消するであろう。
などとケチをつけたところで本書が良書である事実に変わりはない。amazonの宗教カテゴリーで1位というのも頷ける。
尚、「
物語の装置」としてはエホバの証人であろうと創価学会であろうと共産党であろうとボランティアであろうと一緒だ。
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ノリブロ - 持論自論ブログ(佐藤典雅)
【付記】佐藤がジョン・コールマン著『300人委員会』を読んでいながら、『
ZEITGEIST(ツァイトガイスト) 時代精神』を知らないのは情報収集の仕方に問題があると言わざるを得ない。私はここからクリシュナムルティに至ったのだ。