・『神々の山嶺』夢枕獏
・『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ヨッヘン・ヘムレブ、エリック・R・サイモンスン、ラリー・A・ジョンソン
・【動画】ジョージ・マロリーの遺体発見
そして謎は残った―伝説の登山家マロリー発見記
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ヨッヘン ヘムレブ エリック・R. サイモンスン ラリー・A. ジョンソン
文藝春秋
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社稷(しゃしょく)というのは、もともと王朝の守護神のことで、社は夏王朝の、稷は穀物の神である。こまかなことをいえば、社は土地の神ではなく、じつは水の神であり、稷は穀物の神であるが、周王室が合祀して、地の実りの神にしてしまった。周王室が社稷を第一の神とするかぎり、周王室に属する国々の公室も社稷をあがめた。ということは国家の存立は社稷にかかっているといえなくはない。そこから社稷といえば国家を指すようになった。晏嬰〈あんえい〉のいう社稷もその意味である。
一国にとって最も大切なのは、君主であるのか、社稷であるのか。晏嬰はそれについて、
「君主というものは、民の上に立っているが、民をあなどるべきではなく、社稷に仕えるものである。臣下というものは、俸禄のために君主に仕えているわけではなく、社稷を養う者である」
と、ここで明言した。
さらに晏嬰は、君主が社稷のために死んだのであれば、臣下も社稷のために死ぬ。君主が社稷のために亡命すれば、臣下も社稷のために亡命する。と言葉を継いだ。
君主が自分のために死んだり、亡命したのであれば、君主に寵愛された臣でなければ、たれが行動をともにしよう。
【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)】
「不当に富むと、それが不幸のもとになる。名誉だけをさずかれば、それは人に奪われぬ」
と、いい、湿りのない笑声を放った。
実際、晏弱〈あんじゃく〉の心底には、暗さも湿りもなかった。
【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)】
内面のものを熱望する者は すでに偉大で富んでいる。(「エピメニデスの目ざめ」1814年、から)
【『ゲーテ格言集』ゲーテ:高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】
霊公〈れいこう〉は口調を荒だてた。自分をおさえきれぬらしい。室外の臣は不安げに晏嬰〈あんえい〉をながめている。晏嬰の頭がわずかにあがった。
が、晏嬰の顔をのぞきみることができる者がいたら、このときの表情に凛乎(りんこ)たる信念があることに、おどろいたであろう。晏嬰はむしろこのときを待っていたのである。
「恐れながら申し上げます」
重苦しい空気をやぶるように溌剌(はつらつ)と声があがった。奇妙な明るさをふくんだ声で、それはいかにもこの場における霊公の心の情状にそぐわないものであったので、霊公は春の光をまぶしげにみていたときと同じ目つきをして、晏嬰をみた。
晏嬰の澄明(ちょうめい)な声が霊公の耳にふたたびとどいた。
「丈夫の飾りにつきましては、君はこれを内におゆるしになり、外に禁じておられます。そのことをたとえてみますと、牛首(ぎゅうしゅ)を門にかけて、じつはなかで馬肉を売っているようなものです。なにゆえ君は、内において丈夫の飾りをお禁じになりませぬ。さすれば、外のことは、なんらご心配をなさることはございません」
霊公の眼底が光った。
鮮烈なことばが霊公の胸をよぎった。
――牛首を門にかけて、馬肉を内に売る。
とは、これにまさる皮肉はなく、これにまさる諫言(かんげん)もない。霊公は詐欺(さぎ)をおこなっている肉屋にたとえられたのである。
【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)以下同】
「誠」という漢字は「言」+「成」で、「言」は「言葉」、「成」は「仕上げる・出来上がる・固める」です。自分の言葉を固く守って動くことのない心を「誠」と言います。
「まこと」は、「真」(ま)+「言」「事」(こと)で、「真」実である「事」・「言」葉(とそれを守る事)を意味します。
【「誠・まこと」の意味と語源教えてください】
晏嬰〈あんえい〉は一言にして人情というものをつかんでみせ、霊公の矛盾を衝(つ)いた。
霊公は怒りで全身がふるえたであろう。
が、怒声を発する前に、吸いこんだ空気がさわやかであった。それが晏嬰の気というものであることをさとった霊公は、からりと晴れた口調で、その通りである、といった(中略)
晏嬰のことばは、その日のうちに宮中にひろまり、半月後には国内で知らぬ者がいないほど人口に膾炙(かいしゃ)した。これが晏嬰の歴史への登場のありかたであった。驚嘆すべきあざやかさであった。
「これほどの勇者をみたことがない」
と、賛辞を呈した晏父戎〈あんほじゅう〉は、晏嬰のとなりにすわっている晏弱にむかって表情をくずしてみせ、(後略)
「自分でよくないとおもったことは、君公がなさってもよくない。そうはおもわぬか」
と、押しかえすような大声をあげた。
晏父戎〈あんほじゅう〉は喉(のど)に刃をあてられたごとく、顔をゆがめ、ことばにつまった。
君主の生活と下級貴族の生活とはちがう。君主が美衣美食の生活をおくろうと、下級貴族はそれをまねすることはできない。上は上、下は下である。下の者が上の者を批判することは、つつしむべきである。それをおこなうことを僭越(せんえつ)という。おのれの職責をまっとうすることに専念すればよい。臣下というものはすべからくそうなのである。士分たる者は君主や上司の意にそうように努めよ、晏父戎〈あんほじゅう〉はそう教えられて育ち、そうすることが忠義であるといまもおもっている。
が、晏嬰〈あんえい〉は一家の主になったわけではないのに、大臣たちを批判し、あまつさえ父の晏弱〈あんじゃく〉さえけなしている。僭越といえば、これより大なるものはなく、礼にも考道にも悖(もと)るではないか。
晏父戎〈あんほじゅう〉はそうおもったが、その声は心のなかで小さく湧(わ)いただけで、なぜか、口をついてでてくるほどの勢いをもたなかった。それより、心のどこかで愧(は)じる色が生じた。君主をいさめるのは大臣たちの役目であり、士がおこなうべきでないと思い込んでいたこと、丈夫(じょうぶ)の飾りは風儀の乱れを招き、男どもは迷惑を感じているのに、そんなささいなことに口出しして上の怒りを買うのは愚かなことだと考え、たれもが口をつぐんでいること、などを晏嬰〈あんえい〉に指弾され、心のなかにめぐらしてあった古びた柵が蹴破(けやぶ)られたような気がした。
――真の忠義とはなにか。
と、若年の者につきつけられた問いに、歴戦の勇士がうろたえた。ただしこのうろたえは爽快感(そうかいかん)をともなっていた。
――晏嬰〈あんえい〉のいう通りだ。
と、認める気持ちが強くはたらいたからである。
【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)】
ことわり ※区分割りや割り振りをする際に、理に従って行う。
事割 - 事象を表現し認識する為に、区分割りすること。
言割 - 事象の表現や認識を言葉へ割り振ること。言葉り(ことはり)。
理 - 道理・法則・摂理・倫理・理由。事象の道。宇宙の摂理、自然の摂理、神の摂理、人の摂理のようなもの。ここから、倫理である神道・人道の精神が生じた。理路整然の理(神道=統治者側の道理。人道=人としての道理)。
断り - 本来、何かをする時に入れる理や道理。そこから派生して断る際に理由付をする事 となり、近年では 断る行為のみ に使われている。 また、邪道・邪意・邪気・まがごと を断つ為に理を入れる事もある。
【「ことだま」の例:言霊の幸はふ国(ことだまのさきわうくに) - 美し国(うましくに)】