2014-01-09

現実の入り混じったフィクション/『スリー・カップス・オブ・ティー 1杯目はよそ者、2杯目はお客、3杯目は家族』グレッグ・モーテンソン、デイヴィッド・オリヴァー・レーリン


・現実の入り混じったフィクション
無学であることは愚かを意味しない

 アメリカで360万部を売り上げたベストセラーである。著者のグレッグ・モーテンソンはK2から下山する途中で遭難しかける。パキスタンの山間部であった。彼は地元の村人に救われる。その村には学校がなかった。無名のアメリカ人青年は村の子供たちのために学校をつくることを約束する。

 無謀な夢が3年後に実現する。しかも立て続けに3校がつくられた。後に財団を設立し、本書が刊行された時点で何と53校も建設している。

 異なる文化が摩擦を生む。だが手探りしながら共通の価値観を見出し、互いが互いに寄り添う努力をしながら学校は建った。アフマド・シャー・マスードを知り、中村哲〈なかむら・てつ〉を読んだ私は迷うことなく本書を「必読書」リストに入れた。

 内容を確認しようと思い検索したところ、本書に捏造疑惑があるとの記事を見つけた。

『スリー・カップス・オブ・ティ』の大嘘 | 葉巻のけむり 高田直樹ブログ
米軍必読のベストセラーに捏造疑惑 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 ウーーーム、疑惑は濃厚だ。著者は更に学校をつくるべく、過剰な演出・行き過ぎたマーケティング・結果オーライ志向の創作を行ったのだろう。もっと言ってしまえば、たとえ嘘をついてカネを集めようと、目的が正しければ構わないとまで考えたのかもしれない。

 私からグレッグ・モーテンソンにクリシュナムルティの言葉を送ろう。

 間違った手段はけっして正しい目的をもたらすことはできません。目的は手段の中にあるからです。

【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

 ひょっとすると彼の目的は学校をつくることから、学校をつくる自分を宣揚することに変質した可能性がある。活字による嘘は読者を騙すとか自分を偽るという次元ではなく、平然と自然に生まれるものだと私は考える。書く営みはいつだって自分に正確さを強いる。私はツイッターですら嘘は書けない。それどころか言葉づかいや知識の正誤を確認すべく検索するのが常である。

 嘘つきは病気だ。馬鹿と嘘つきにつける薬はない。

 先ほど必読書から外した。だがそれでも本書は一読の価値がある。最初から「現実の入り混じったフィクション」と思って読めばよい。

 各章に配されたエピグラフが秀逸だ。長くなってしまったので、これだけ紹介しておく。

 暗いときには星が見える。
(ペルシアのことわざ)

【『スリー・カップス・オブ・ティー 1杯目はよそ者、2杯目はお客、3杯目は家族』グレッグ・モーテンソン、デイヴィッド・オリヴァー・レーリン:藤村奈緒美訳(サンクチュアリ出版、2010年)以下同】

「あなたの村に、何かお手伝いできることはありませんか?」
「教わることは何もありません。あなた方が持っているものも、たいしてうらやましくないです。どこをとっても、私たちの方が幸せそうだと思います。ただ、学校だけは欲しい。子どもたちを学校に通わせたいのです」
エドマンド・ヒラリー卿とウルキエン・シェルパの対話 『雲の中の学校』より)

 偉大さは、つねに次のものを基礎とする。
 ごく平凡な人間の姿と言動である。
(シャムス・ウッディーン・ムハンマド・ハーフィズ)

 心に哀しき憧れを抱け。
 決してあきらめず、決して希望を失うな。
 アラーいわく「我は打ちのめされた者を愛する」。
 傷つくがいい。打ちのめされるがいい。
(シャイフ・アブ・サイード・アビル・ヘイル またの名を、名も無き者の息子)

 アラーを信ぜよ。
 だが、自分のラクダはしっかりつないでおけ。
(スカルドゥの第5飛行団基地の入り口にあった注意書き)

 諸君、
 美しい女の瞳はなぜ許可制でないのか?
 弾丸のように勇気をつらぬくし、刃のようにするどいのに。
(バルティスタンのサトパラ渓谷にある、現存する世界最古の仏様にスプレーで書かれた落書き)

 ヒマラヤの原始的な暮らしが、工業化の進んだ私たちの社会に教えてくれる。ばかげた考えだと思うかもしれない。しかし、きちんと機能する未来の姿を求めれば、めぐりめぐって、人間と大地とが共存する暮らしに必ず回帰する。昔ながらの文化は、悠久の大地を絶対に無視しない。
(ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ)

 打ちおろされるかなづちではなく、たわむれる水こそが
 小石を完全なるものに歌いあげる。
ラビンドラナート・タゴール

 算数や詩の時代は終わった。兄弟たちよ、今は機関銃(カラシニコフ)や手榴弾から学ぶ時代だ。
(コルフェ小学校の壁にスプレーで書かれた落書き)

スリー・カップス・オブ・ティー (Sanctuary books)クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性

2014-01-08

怒りは害を生む/『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳


『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵訳

 ・怒りは害を生む

『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳

必読書リスト その五

 ノバトゥスの兄上、あなたは私を動かして、一体どうすれば怒りは静められるかについて書くように求めたが、あらゆる感情のうちで取りわけ疎(うと)ましく気狂いじみたこの感情を、特にあなたが恐れているのは無理からぬことと思う。なぜかと言えば、これ以外の感情には何らかの安らかさ・静かさも含まれているが、この感情だけは全く激烈であって、憎しみの衝動に駆(か)られて、武器や流血や拷問(ごうもん)という最も非人間的な欲望に猛り狂い、他人に害を加えている間に自分を見失い、相手の剣にさえも飛びかかり、復讐者(ふくしゅうしゃ)を引きずり回して、是が非でも復讐を遂げさせようとするからである。それゆえ或る賢者たちは、怒りを短期の気狂いだと言っている。

【「怒りについて」/『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)】

 昨年暮れに兼利琢也〈かねとし・たくや〉訳(岩波文庫、2008年)を中ほどまで読んだ。セネカの崇高な精神が降りしきる雨のように私を打った。本を閉じて目をつぶった。「襟を正して最初から読み直すべきだ」と思わざるを得なかった。ブッダとクリシュナムルティを除けば、これほど心を揺さぶられたことはない。セネカは生きる姿勢や態度を教えてくれる。

 勢いあまった私は茂手木元蔵訳から取り組むことにした。正解であった。実は内容が異なるのだ。茂手木訳の他一篇は「神慮について」で、兼利訳の他二篇は「摂理について」と「賢者の恒心について」となっている。もちろん2冊とも「必読書」に入れた。

 翻訳比較も行う予定なので冒頭のテキストから紹介する。尚、まだ読了していないことを付記しておく。

「気狂い」はルビを振っていないが「きちがい」と読んで差し支えないだろう。怒りは害を生む。怒りはすべてを忘れさせ、相手を傷つけ、自分を損なう。セネカはあらゆる角度から怒りを論じ、数多くの絶妙な比喩を示して怒りを解明する。賢明さが理性とセットであれば、怒りは愚かとセットなのだろう。

 直情径行で怒りやすい性格の私であるがゆえにわかるのだが、怒りは常に殺意を伴っている。人を殺すことは簡単だ。「殺すことが正しい」と思えば。あるいはそう「思い込ませれば」よいのだ。その瞬間、理性はどこかへ去っている。相手の家族や友人を思うほどの余裕もない。怒りは崩壊の音色を奏でる。あらゆる暴力は怒りに支えられていることを知るべきだろう。

 セネカの前では三木清の言葉も色褪せる。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 三木は弱い人間であったのだろう。だからこそ怒りにしがみついたのだ。

 おお、ルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年頃-65年)よ、私はブッダとクリシュナムルティを父と恃(たの)み、あなたを兄と慕う。

 もうひとつ付言しておくと、『人生の短さについて 他二篇』茂手木元蔵訳(岩波文庫、1980年)と『生の短さについて 他二篇』大西英文訳(岩波文庫、2010年)は茂手木訳の方が断然よい。



今日、ルワンダの悲劇から20年/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

2014-01-07

2014-01-06

社稷を主とす/『晏子』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光

言葉の正しさ
正(まさ)しき道理
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事
・社稷を主とす

『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 社稷(しゃしょく)というのは、もともと王朝の守護神のことで、社は夏王朝の、稷は穀物の神である。こまかなことをいえば、社は土地の神ではなく、じつは水の神であり、稷は穀物の神であるが、周王室が合祀して、地の実りの神にしてしまった。周王室が社稷を第一の神とするかぎり、周王室に属する国々の公室も社稷をあがめた。ということは国家の存立は社稷にかかっているといえなくはない。そこから社稷といえば国家を指すようになった。晏嬰〈あんえい〉のいう社稷もその意味である。
 一国にとって最も大切なのは、君主であるのか、社稷であるのか。晏嬰はそれについて、
「君主というものは、民の上に立っているが、民をあなどるべきではなく、社稷に仕えるものである。臣下というものは、俸禄のために君主に仕えているわけではなく、社稷を養う者である」
 と、ここで明言した。
 さらに晏嬰は、君主が社稷のために死んだのであれば、臣下も社稷のために死ぬ。君主が社稷のために亡命すれば、臣下も社稷のために亡命する。と言葉を継いだ。
 君主が自分のために死んだり、亡命したのであれば、君主に寵愛された臣でなければ、たれが行動をともにしよう。

【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)】

 老子(?/紀元前6世紀とされる)曰く「国の垢を受くる、是れを社稷の主と謂ふ。国の不祥を受くる、是れを天下の王と謂う」(語訳、解説)と。また『礼記』(らいき)には「社稷之臣」と。

 人類の脳が一変した様子が見てとれる。重んじるべきは祭壇(宗教)からシステム(組織、国家)にスライドしたのだ。これ以降、物語の主役は政治となった。

 晏嬰〈あんえい〉の言葉は「大文字の物語」(ジャン=フランソワ・リオタールポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム』)を紡ぎだした。人類の脳は家族や地域を超えてつながることが可能となった。だがその一方で人は権力を巡る動物と化した。

 古代中国ではその後、呂不韋〈りょふい〉(?-紀元前235/『奇貨居くべし』)が登場し民主主義という壮大な理想に向かう。

 軸の時代(紀元前800年頃-紀元前200年)は絢爛(けんらん)たる人材群を輩出し、人類の精神を調(ととの)えた。だがどうしたことか。スポーク(軸)はあるのに回転すべき車輪がない。人類史は停滞したまま淀(よど)んでいる。西洋では社稷が強大な権力を握るキリスト教会となってしまう。

 軸の時代と比べればルネサンス(14-16世紀)やナポレオンも精彩を欠く。巨視的に見ればその後の最も大きな変化は科学と金融経済であろう。だが大きな物語は終焉した。残されたのは小人物のみだ。

 あるいはこう考えることも可能だ。既に人類が一つになる鍋(インフラ)は整備された。あとは人類の存亡を揺るがす出来事が強火となって鍋のスープを完成させることだろう。末法ハルマゲドンの真意はそこにあるのかもしれない。

 来たれ、人類の春秋時代よ。


2014-01-05

不当に富むとそれが不幸のもとになる/『晏子』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光

言葉の正しさ
正(まさ)しき道理
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事
・不当に富むとそれが不幸のもとになる
社稷を主とす

『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

「不当に富むと、それが不幸のもとになる。名誉だけをさずかれば、それは人に奪われぬ」
 と、いい、湿りのない笑声を放った。
 実際、晏弱〈あんじゃく〉の心底には、暗さも湿りもなかった。

【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)】

 高厚〈こうこう〉という人物によって莱国(らいこく)攻略の報酬が怪しくなった。領地が増えないことを懸念した配下にかけた晏弱の言葉である。

 誰しも富を愛する。当今は富んでいないにもかかわらず富んだふりをするほどだ。身の丈を超えた家・クルマ・衣服、そして言葉。

 富は人々の心を揺らす。カネがあるとわかれば誰もが親切に扱ってくれる。お世辞・阿諛追従(あゆついしょう)で酒食にありつくことができれば安いものだ、とでも考えているのだろう。富者をさもしい連中が取り巻く。

 実際に求められているのは富ではなく心の余裕だろう。カネ=余裕となっているところに現代人の不幸がある。

 内面のものを熱望する者は  すでに偉大で富んでいる。(「エピメニデスの目ざめ」1814年、から)

【『ゲーテ格言集』ゲーテ:高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】

 我々の悲しい錯覚は外の富が内なる富を引き出してくれると固く信じていることだ。

 貧者から奪われたもの――それが富だ。だが真の富は奪えない。赤ん坊を見よ、彼らはただそこに存在するだけで既に富んでいる。満たされない心の穴を金品が埋めてくれると思ったら大間違いだ。



無である人は幸いなるかな!/『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ