2014-01-15
苫米地英人、藤原伊織
2冊読了。
1冊目『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(日本文芸社、2013年)/昨年読んだのだが書き忘れていた。良書。何だかんだ言っても苫米地は知らない事実を教えてくれる。しかも合理的思考で。日本の原発はアメリカの古い技術で事実上、日本の国土が原発の住宅展示場状態になっている。しかも日本が原発をつくり、輸出するごとにパテント料はアメリカがせしめるビジネスモデル。飼い犬ニッポンの現状がよく理解できる。原発本に関しては安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉著『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』、今西憲之+週刊朝日編集部『原子力ムラの陰謀 機密ファイルが暴く闇』を併読せよ。更に深く知りたい人は、村田光平著『原子力と日本病』、ステファニー・クック著『原子力 その隠蔽された真実 人の手に負えない核エネルギーの70年史』を読むこと。
2冊目『雪が降る』藤原伊織(講談社、1998年/講談社文庫、2001年)/20代で読んだ時は何とも思わなかった。30代後半で読んだ時は心を撃ち抜かれた。50になって読むと拙さが目についた。黒川博行の「解説」も薄気味悪い。作家の解説は私(わたくし)を語るものが多すぎる。仲間内の話を公の場でするな。本書を読む場合は心して「大人の童話」であることを弁えよ。
『新訂 字統 [普及版]』白川静(平凡社、2007年)
白川静字書三部作として巷間親しまれている『字統』『字訓』『字通』。第一作の『字統』は、50年におよぶ文字研究の成果を一般に提供することを企図した著者が、6800余の漢字を取り上げて編んだ字源辞典です。初版刊行は1984年8月、著者74歳のときのことでした。それから20年、今回の『字統 第二版』は約200の見出し字を追加し、この間の白川氏の研究成果をあますところなく加筆して、より読みやすく引きやすくなりました。日々の生活の中で、漢字が本来もつ豊かな表現力を発揮するに有用な書となることを願ってやみません。
『常用字解 第二版』を買おうと思っていたのだが、常用漢字2136字に対して、2倍以上の6800余を収録しているのだからコストパフォーマンスは高いだろう。
・字統
2014-01-14
あらゆる事象が記号化される事態/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール
・知の強迫神経症
・あらゆる事象が記号化される事態
・『シミュラークルとシミュレーション』ジャン・ボードリヤール
西欧社会がおこなった大事業は、世界中を金儲けの場にして、すべてを商品の運命に引き渡したことだ、と言われる。国際的な美的演出、世界のイメージ化と記号化による世界中の美化もまた、西欧社会の大事業であったと言えるだろう。現在われわれが、商品レヴェルの唯物論を越えて立ち会っているのは、宣伝とメディアとイメージをつうじてあらゆる事象が記号化される事態だ。もっとも周辺的(マージナル)で、凡庸で、猥褻なものさえもが美化され、文化となり、美術館に入ることができる。あらゆるものが言葉をもち、みずからを表現し、記号としての力あるいは記号の様態を帯びる。システムは、商品の剰余価値によってよりはむしろ、記号の美的剰余価値によって機能する。
【『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール:塚原史〈つかはら・ふみ〉訳(紀伊國屋書店、1991年)】
「メディアはメッセージである」とマーシャル・マクルーハンは書いた(『メディア論 人間の拡張の諸相』原書は1967年)。これに対して小田嶋隆が「メディアは“下水管”に過ぎない」と反論している(『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』1995年)。きっとどちらも正しいのだろう。マクルーハンはメディアを祭壇に仕立てようと試みた。無神論者の小田嶋からすればそれは欲望が排泄(はいせつ)される下水管にすぎないということだ。
メディアは広告メッセージである。元々は信仰メッセージであった。印刷革命はグーテンベルク聖書に始まる。プロテスタントが広まったのも「安価で大量の宣伝パンフレット」(『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』永田諒一)を紙つぶてのように放ったからだ。
メッセージは信仰から広告へと変わった。神は死んだが紙はまだ生き残っている。
「西欧社会がおこなった大事業」の筆頭は奴隷貿易であろう。
・大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔
彼らは人間を商品に変えた。それ以前から労働力が商品であったことを踏まえると「人間の家畜化」(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)に真っ直ぐ進むのは当然だ。
メディアはメッセージである。権力者からの。そう。ビッグ・ブラザーだ。マス(大衆)に向かって開くメディアは視聴する人々に何らかの基準となって行動や判断を促す。子供の時分から「昨日のあれ、見た?」「オー、見た見た。面白かったよなー」というやり取りが普通になっている。
私が幼い頃は一家に一台が標準であった。ブラウン管の前にカーテンや扉がついたテレビも存在した。今思うとあれは確かに祭壇の雰囲気を漂わせていた。そして一家が揃って同じ番組を観ていたのだ。
バブル前夜、価値観は多様化した。今から30年ほど前のことだ。若者は老舗メーカーよりも新興ファッションブランドを選んだ。そして“大衆消費社会は「モノの消費」から「情報の消費」へ”(『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』広井良典)と向かう。
記号や情報というと小難しく思えるが何てことはない。孔雀の羽みたいなもんだ。結局、高度情報化によって人間の情動がセンシティブになるのだろう。
21世紀は人間が記号化される。私は単なるIDと化す。その時、世界はこんなふうになっているだろう。
・Cildo Meireles作「Fontes」は日蓮へのオマージュか?
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