2014-02-16

香月泰男のシベリア・シリーズ/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
・香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 もう戦争が終ってから24年、シベリヤから復員して22年になる。
 22年前、私は満州での軍隊生活とシベリヤ抑留生活をモチーフに描きつづけてきた。帰国した翌年に発表した「埋葬」にはじまり、つい最近制作が終ったばかりの「朕」までで、すでに43点になる。いつのまにか“シベリヤ・シリーズ”の名がかぶせられ、私はその作者として多少知られることになった。
 もっとシベリヤを描けという人もいれば、そろそろシベリヤから足を洗ったらどうだとすすめる人もいる。そうはいわないまでも、なぜいつまでもシベリヤを描きつづけるのかという問いを受けることは始終ある。正直の(ママ)ところ、私自身、それがなぜなのかよくわからない。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】


 特筆すべきは本書に香月の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)が収められていることだ。「テキスト部分の復刻」となっているが全部かどうかはまだ確認していない。

 外野はいつだって勝手なものだ。マスメディア、評論家、美術品バイヤー、音楽プロダクション、そして客という名の大衆……。勝手なリクエスト、希望、願望を並べ立てる。本来、批評とは独善と無縁のものであらねばならない。

 ほとんど毎年のように、私はこれが最後の“シベリヤ・シリーズ”だと思いながら絵筆をとってきた。そしてそのたびに描いているうちから、「ああ、あれも描いておかなければ」と早くも次の絵の構想が自然にできあがってくる。描くたびに、こんなものではとてもオレのシベリヤを語りつくしたことにはならない、という気がしてくるのだ。

 香月がシベリアで目撃したものは何だったのか。それを我々は絵を通して見ることができる。真実とは彫琢(ちょうたく)された現実である。個の深き泉が大海に通じる。

 多分ずるずるとこれから先何年もシベリヤを描きつづけることになるのではないかという気がする。もしかしたら私は死ぬまでシベリヤを描くことになるかも知れぬ。

 この言葉通りとなった。否、香月は石原吉郎と同じくシベリアを生き続けたのだろう。描く営みは現在と過去の往還であり、生きることそのものであった。単なる回想から芸術作品は生まれない。創作とは常に現在性を刻印する作業であるからだ。

 私の個展を見にきてくれた戦友がこんなものはみたくないといった。もうシベリヤのことなんか思い出したくもない、といった。私にしたって同じことだ。シベリヤのことなんか思い出したくはない。しかし、白い画布を前に絵具をねるとそこにシベリヤが浮びあがってくる。絵にしようと思って絵にするのではない。絵はすでにそこにある。極端な言い方をすれば私のすることは、ただそこに絵具を添えていくことだけだといってもよい。

 本物の芸術は作為から解脱(げだつ)する。まさに無作(むさ)の境地といってよい。制作が創造へと飛翔する様が見てとれる。


「黒い太陽」に至ってはマンダラと言い切ってよいほどの荘厳さを湛(たた)えている。凡人の苦悩は時間を経ることで達観可能となる。しかし偉大な人物は苦悩した瞬間に苦悩そのものを達観する。悟りとは瞬間を開くものだ。であれば香月の絵は既にシベリアの地で生まれたものと考えてよかろう。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界

2014-02-15

真の人間は地獄の中から誕生する/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ・真の人間は地獄の中から誕生する
 ・香月泰男のシベリア・シリーズ
 ・香月泰男が見たもの
 ・戦争を認める人間を私は許さない

 香月さんのシベリア・シリーズは、いうなれば、絵だけでは伝えきれない情念のかたまりなのである。だから香月さんは、このシリーズの絵に全点「ことば書き」をつけた。シベリア・シリーズは、絵とことばが一体なのである。シベリア・シリーズは、ことばによって付け加えられた情報と情念が一体となってはじめてわかる絵なのである。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)】

 香月泰男〈かづき・やすお〉は死ぬまでシベリアを描き続けた。シベリアとは地名ではない。それは抑留という名の地獄を意味する。

 戦争に翻弄され、国家から見捨てられたシベリア抑留者の数は76万3380人と推定されている。経緯については以下の通りである。

「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 私は『香月泰男のおもちゃ箱』(香月泰男、谷川俊太郎)を読んでいたが、香月が抑留者であることは知らなかった。また彼の絵を見たのも本書を読んでからのこと。ブリキ作品とは打って変わった作風に衝撃を受けた。そこには石原吉郎〈いしはら・よしろう〉が抱える闇が描かれていた。彼らは言葉にし得ぬものや、描き得ぬものを表現しようとした。そして死ぬまでシベリアを生き続けたのだ。

 地獄の焔(ほのお)が特定の人々を精錬する。不信と絶望の底から真の人間が立ち上がるのだ。私の内側で畏敬の念が噴き上がる。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉は帰還から、わずか1年後に心臓病で死んだ。管季治〈かん・すえはる〉は政争に巻き込まれ、鉄路に身を投げた。

 国家と人間の不条理を伝えることができる人物は限られている。香月泰男もその一人だ。初めて画集を開いた時、ページを繰るたびに私は「嗚呼(ああ)――」と声を漏らした。「嗚呼、そうだったのか」と。

 香月が描く太陽は、どことなく石原が渇望した海を思わせる。

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 日の丸は抑留者を見捨てたが香月は太陽を描いた。シベリアの抑留者を決して照らすことのなかった太陽を描いた。

 善き人々に対して神は父親の心を持ち、彼らを強く愛して、こう言われる。「労役や苦痛や損害により彼らを悩ますがよい――彼らが本当の力強さを集中できるように」と。怠惰のために肥満した体は、労働のみならず運動においても動作が鈍く、またそれ自体の重量のために挫折する。無傷の幸福は、いかなる打撃にも堪えられない。しかし、絶えず自己の災いと戦ってきた者は、幾度か受けた災害を通して逞(たくま)しさを身につけ、いかなる災いにも倒れないのみならず、たとえ倒れてもなお膝で立って戦う。(「神慮について」)

【『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳】

 香月は絵筆を振るい、石原はペンを握って戦った。その力はシベリアの地で蓄えられた。真の人間は地獄の中から誕生するのだろう。

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2014-02-14

快楽中枢を刺激する文体/『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳


『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集
『ウパニシャッド』辻直四郎
『はじめてのインド哲学』立川武蔵

 ・快楽中枢を刺激する文体

・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『イスラム教の論理』飯山陽

 アルジュナはたずねた。
クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか」

 聖バガヴァットは告げた。――
 アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。
 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。
 すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。
 亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している。
 断食の人にとって、感官の対象は消滅する。【味】を除いて……。最高の存在を見る時、彼にとって【味】もまた消滅する。
 実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。
 すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。
 人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
 怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。
 愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向いつつ、自己を制した人は平安に達する。
 平安において、彼のすべての苦は滅する。心が静まった人の知性はすみやかに確立するから。
 専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想(修習)はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があるだろうか。
 実に、動きまわる感官に従う意(こころ)は、人の智慧を奪う。風が水上の舟を奪うように。
 それ故、勇士よ、すべて感官をその対象から収めた時、その人の智慧は確立する。
 万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
 海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。
 すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
 アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。

【『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦〈かみむら・かつひこ〉訳(岩波文庫、1992年)】

 クリシュナムルティが常々虚仮(こけ)にしているヒンドゥー教の聖典だ。叙事詩『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている。


(『マハーバーラタ』の場面を描いたオブジェ)

 実際に読んで私は驚嘆した。その華麗なる文体と思想の深さに。はっきりいって私程度のレベルでは仏教と見分けがつかないほどだ。もっと正確に言おう。「それってブッダが説いたんじゃないの?」と吃驚仰天(びっくりぎょうてん)する場面が随所にある。

 ってことはだよ、多分ブッダはヒンドゥー教的価値観の「何か」をスライドさせたのだろう。現代の我々が考えるように画然(かくぜん)と新宗教の旗を振ったわけではなかったのだろう。

 読むほどに陶酔が襲う。この文体(スタイル)が秘める力はアルコールや薬物に近い。快楽中枢(側坐核)を直接刺激する美質に溢れている。

 ブッダの弟子たちが根本分裂(大衆部と上座部に分裂した)に至った背景には、ヒンドゥーイズムの復興があったというのが私の見立てである。それゆえに大衆部(だいしゅぶ)はブッダの教えを理論化する過程でヒンドゥー教を仏教に盛り込んだのだろう。

 そして本当に不思議なことだが中国を経て日本に伝わった仏教は完全に密教化しており、その内容はヒンドゥー教と酷似している。和製仏教で世界的に評価されているのは座禅(瞑想の様式化)くらいのものだろう。マントラを仏教と見なすことは難しい。

 ま、バラモン教を安易に否定する仏教徒は一度読む必要がある。

 尚、余談ではあるがクリシュナムルティの名前は第8子であったため、8番目の神であるクリシュナ神に由来している。

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

岩波書店
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2014-02-13

タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男


【大乗】人間は誰でも釈尊と同じ仏となれると考えられている。
【小乗(部派)】人間は釈尊にはほど遠く、修行してもとてもおよばないと考えられている。

【大乗】最終的に仏となり、自覚・覚他円満の自己を実現する。
【小乗】最後に阿羅漢となり、身と智とを灰滅して静的な涅槃に入る。

【大乗】一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視する。
【小乗】自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。

【大乗】みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、生死【への】自由がある。
【小乗】業に基づく苦の果報から離れようとするのみで、生死【からの】自由しかない。

【大乗】釈尊の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようとした。
【小乗】釈尊の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始する傾向があった(【声聞】といわれる。なお、声聞は本来、弟子の意である)。

【大乗】在家仏教の可能性を示唆した。
【小乗】明確な出家主義。

【『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男(講談社学術文庫、2004年)】

 実際の本文はページの上下に分けて一覧表記されている。テーブルタグの挿入が面倒であるため、このような書き方となった。

 竹村は大乗【主義者】である。そもそも今時「大乗」「小乗」などと表現すること自体が疑問だ。素人の私ですら「大衆部」(だいしゅぶ)「上座部」(じょうざぶ)と称しているのだ(尚、厳密には大乗=大衆部と言い切れないのだが、小乗というネーミングが大乗側のつけた貶称〈へんしょう〉である以上、大乗を採用するわけにはいかない。現代的に申せば大衆派と出家派くらいの意味合いで構わないだろう)。

 しかも「大乗」を上に置き、説明そのもので「小乗」を否定的に扱うという愚行を犯している。

 日本の仏教学者はいつまでこんな真似をするつもりなのか? 「天台ルール」(五時八教)という前提すらきちんと示さず、完全に密教化した平安仏教-鎌倉仏教を「大乗」と言い切っているのだ。学問として世界に通用するとは思えない。どちらかといえば文学や古典のレベルであろう。そもそも鎌倉時代に南伝仏教(≒上座部)は正確に伝わっていなかったはずだ。そろそろ文学や民俗学の次元から離れるべきだ。

「大乗仏教」と呼ぶから私の逆鱗(げきりん)に触れるのだ。「大乗思想」であれば構わない。

 あとは面倒なんで竹村宛ての簡単な質問を掲げて終えよう。

・「釈尊と同じ仏」はどこにいるのか?
・「最終的に仏」になった人は誰か?
・自己実現は諸法無我に反するのではないか?
・「宗教的救済」の内容を示せ。また「救済されていない」人が他人を救済することは可能なのか?
・「生死【への】自由」と「生死【からの】自由」の意味が不明。
・ブッダは「本意」を説かなかったということか?

 竹村の主張は思想・哲学を志向しているようでありながら、その実は仏教から派生したスピリチュアリズム(密教)を擁護する思考法となっているように映る。

 日本の仏教界は束になって掛かってもティク・ナット・ハンアルボムッレ・スマナサーラにかなわないことだろう。


インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男

「原発稼働停止」の嘘/『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人


日本の原発はアメリカの核戦略の一環
・「原発稼働停止」の嘘

 しかし、実態は違います。「停止」あるいは「再稼働」という言葉に騙(だま)されてはいけません。
【日本の原発が停止したのは、「発電」だけです。】
 核燃料棒の「発熱」は続いていますし、原子炉を冷やす「冷却運転」も続いています。つまり、発送電が停止したにすぎません。
 原発というのは、「臨界」(りんかい)と呼ばれる核分裂の連鎖反応によって大きな熱を生み出して、発電をする仕組みです。
 制御棒を入れ絵、中性子の動きを止めることによって、核分裂の連鎖反応を止めることはできます。ですが、臨界は起きていなくても、ウランの燃料棒は崩壊熱を出し続けます。冷やさなければ、熱がたまりすぎて、過熱状態になることもあります。
 発熱が続いている状態を「稼働停止」の状態といえるでしょうか。

【『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(日本文芸社、2013年)】

 我々は日々流れてくるニュースに目を奪われ、これほど重要な事実も見失ってしまう。問題は「電気」ではなく「ウラン」なのだ。ここから目を逸らさせることが計画停電の目的であったのだろう。

 苫米地は更に「自動車のエンジンでいえば、空回りしている『アイドリング状態』」であり、「日本の原発は、単に発電を停止しただけであり、『出力ゼロ』になっているだけです」と続ける。そりゃそうだ。廃炉にする場合でも数十年かかるのだから。

 一度点(つ)けた神の火は簡単には消えない。原発を導入した政治家や東京電力にその覚悟があったとは思えない。彼らは夢と理想を語っただけだ。そして繰り返し「安全」を説き、神話のレベルにまで引き上げた。

 政治主導といえば聞えはいいが、民意が熟成するだけの時間は与えられていないし、そもそも情報公開がなされていない。政治のセンセーショナルな決断は常に国民を欺く性質を有する。

 去る東京都知事選では反原発候補二人が敗れた。だが選挙結果=民意ではいだろう。民意にはきちんとした情報開示とまともなジャーナリズムが必要不可欠だ。既に選挙は民意を問うものではなく、感情や感覚に動かされる衆愚のバロメーターと化しつつある。

 権力者は愚かな民を好む。そして愚か者同士が争い始めるのだ。

原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力
苫米地 英人
日本文芸社
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苫米地英人