・宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
・神経質なキリスト教批判
・ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
・キリスト教を知るための書籍
この時点で、アメリカの読者に対してとくに一言述べておく必要がある。なぜなら、現在のアメリカ人の信心深さは目を見張るものだからである。弁護士のウェンディ・カミナーはかつて、宗教をからかうのは、米国在郷軍人会館のなかで国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べたが、この言葉は現実をほんのわずかに誇張しているにすぎない。今日(こんにち)のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、50年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。ゲイ・プライド運動のあと、いまでは、同性愛者が公職に選ばれることは、けっして簡単というわけではまだないが、可能である。1999年におこなわれたギャラップ調査では、アメリカ人に対して、その他の点では十分な資格をもつ次のような人物に投票するかどうかが質問された。女性(95%は投票する)、ローマ・カトリック教徒(94%)、ユダヤ人(92%)、黒人(92%)、モルモン教徒(79%)、同性愛者(79%)、無神論者(49%)という結果だった。明らかに道ははるかに遠い。しかし無神論者の数は、多くの人が気づいているよりも、もっとはるかに多く、とくに高い教育を受けたエリートのあいだに多い。この点については、すでに19世紀からそうだったのであり、だからこそジョン・スチュワート・ミルが実際、こう述べているのだ。「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世界は驚愕するだろう」。
【『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス:垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(早川書房、2007年)】
リチャード・ドーキンスが苦手な上に垂水雄二の訳文が苦手だ。ドーキンスの文章はワンセンテンスが長すぎる。垂水は文体が悪い。
「信心深さは目を見張るものだからである」→信心深さには目を見張るものがある。
「現実をほんのわずかに」→「に」は不要
「けっして簡単というわけではまだないが」→けっして容易ではないが
「その他の点では十分な資格をもつ次のような人物」→政治家としての資質を十分に備えた次の人物
「はるかに」が重複。「に」が多すぎる。ジョン・スチュアート・ミル(本文ではスチュワート)の言葉も実にわかりにくい。はっきりいって悪文だ。
私は本書を三度読み、三度とも挫けている。ドーキンスの神経質な性格に耐えられないためだ。言いたいことはわかるし、彼の役割が重要だとも思う。だが、どうしてもキリスト教に対する反射的な言動が目立ち、否定の度合いが浅く感じる。
たとえ本人が「自分は無神論者」であると言っていても、無神論者であるということ自体、宗教の影響を受けているのです。無神論ということの前提には、まず神があるかないかという問いがあるからです。
『〈決定版〉 世界の〔宗教と戦争〕講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦(徳間書店、2001年/徳間文庫、2011年)
この指摘がドーキンスに当てはまる。しかもピッタリと。彼はたぶん意図的に騒ぎ立てることでアメリカを中心とするキリスト社会に風穴を空けようと目論んでいるのだろう。それが上手くいって欲しいとは思う。彼はかつて日本の新聞社によるインタビューで「仏教は宗教ではない」と答えた。もちろんそれは「彼が否定する宗教」との意味合いであろう。ここらあたりが実は難しいところで、無神論=宗教の否定ではないし、無神論が正義だと叫んでしまえばキリスト教と同じ穴に落ちてしまう。私は人類における宗教性は誰も否定することができないと考える。
「神は妄想である」――これはいい。だが「宗教との決別」がまずい。「真の宗教性の追求」にすれば論旨も大きく変わったことだろう。批判や否定は簡単だが、その言葉が信者に届くことは稀だ。相手の心を開かなければ胸を打つこともない。魔女狩り、黒人奴隷、インディアン虐殺という歴史を経ても目を覚ますことがないのがキリスト者なのだ。頭ごなしに否定したところで何かが変わるわけではあるまい。
尚、併読書籍については「キリスト教を知るための書籍」「宗教とは何か?」に示してある。
・リチャード・ドーキンスが語る「奇妙な」宇宙
・デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
・宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道