2014-03-30

神経質なキリスト教批判/『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス


宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 ・神経質なキリスト教批判

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
キリスト教を知るための書籍

 この時点で、アメリカの読者に対してとくに一言述べておく必要がある。なぜなら、現在のアメリカ人の信心深さは目を見張るものだからである。弁護士のウェンディ・カミナーはかつて、宗教をからかうのは、米国在郷軍人会館のなかで国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べたが、この言葉は現実をほんのわずかに誇張しているにすぎない。今日(こんにち)のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、50年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。ゲイ・プライド運動のあと、いまでは、同性愛者が公職に選ばれることは、けっして簡単というわけではまだないが、可能である。1999年におこなわれたギャラップ調査では、アメリカ人に対して、その他の点では十分な資格をもつ次のような人物に投票するかどうかが質問された。女性(95%は投票する)、ローマ・カトリック教徒(94%)、ユダヤ人(92%)、黒人(92%)、モルモン教徒(79%)、同性愛者(79%)、無神論者(49%)という結果だった。明らかに道ははるかに遠い。しかし無神論者の数は、多くの人が気づいているよりも、もっとはるかに多く、とくに高い教育を受けたエリートのあいだに多い。この点については、すでに19世紀からそうだったのであり、だからこそジョン・スチュワート・ミルが実際、こう述べているのだ。「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世界は驚愕するだろう」。

【『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス:垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(早川書房、2007年)】

 リチャード・ドーキンスが苦手な上に垂水雄二の訳文が苦手だ。ドーキンスの文章はワンセンテンスが長すぎる。垂水は文体が悪い。

「信心深さは目を見張るものだからである」→信心深さには目を見張るものがある。
「現実をほんのわずかに」→「に」は不要
「けっして簡単というわけではまだないが」→けっして容易ではないが
「その他の点では十分な資格をもつ次のような人物」→政治家としての資質を十分に備えた次の人物
「はるかに」が重複。「に」が多すぎる。ジョン・スチュアート・ミル(本文ではスチュワート)の言葉も実にわかりにくい。はっきりいって悪文だ。


 私は本書を三度読み、三度とも挫けている。ドーキンスの神経質な性格に耐えられないためだ。言いたいことはわかるし、彼の役割が重要だとも思う。だが、どうしてもキリスト教に対する反射的な言動が目立ち、否定の度合いが浅く感じる。

 たとえ本人が「自分は無神論者」であると言っていても、無神論者であるということ自体、宗教の影響を受けているのです。無神論ということの前提には、まず神があるかないかという問いがあるからです。

〈決定版〉 世界の〔宗教と戦争〕講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦(徳間書店、2001年/徳間文庫、2011年)

 この指摘がドーキンスに当てはまる。しかもピッタリと。彼はたぶん意図的に騒ぎ立てることでアメリカを中心とするキリスト社会に風穴を空けようと目論んでいるのだろう。それが上手くいって欲しいとは思う。彼はかつて日本の新聞社によるインタビューで「仏教は宗教ではない」と答えた。もちろんそれは「彼が否定する宗教」との意味合いであろう。ここらあたりが実は難しいところで、無神論=宗教の否定ではないし、無神論が正義だと叫んでしまえばキリスト教と同じ穴に落ちてしまう。私は人類における宗教性は誰も否定することができないと考える。

「神は妄想である」――これはいい。だが「宗教との決別」がまずい。「真の宗教性の追求」にすれば論旨も大きく変わったことだろう。批判や否定は簡単だが、その言葉が信者に届くことは稀だ。相手の心を開かなければ胸を打つこともない。魔女狩り、黒人奴隷、インディアン虐殺という歴史を経ても目を覚ますことがないのがキリスト者なのだ。頭ごなしに否定したところで何かが変わるわけではあるまい。

 尚、併読書籍については「キリスト教を知るための書籍」「宗教とは何か?」に示してある。

神は妄想である―宗教との決別

リチャード・ドーキンスが語る「奇妙な」宇宙
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静


新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン

 ・宗教は人を殺す教え

『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
キリスト教を知るための書籍

 本書は次のような素朴な問いに答えることを目的としている。
〈宗教は人を幸せにするためにあるはずなのに、なにゆえその同じ宗教が宗教の名のもとに平然と人を殺してしまうのか?〉
「幸せ」という曖昧な言葉を用いた。人によって何を幸せと感じるかはさまざまであろうが、宗教が提供しようとする幸せとは、人の〈いのち〉にかかわるようなものである。〈いのち〉とは生物学的な生命を意味するだけでなく、その人の人格、生全体、その人らしく生きること、そういった〈生、生きること〉にかかわる総体を〈いのち〉と呼びたい。宗教は、人が充実した生、安心した、落ちついた生、社会的な地位や身分や役割とは無関係に根元(ママ)的に存在する自立した生の在り方を示し、人がその人らしく、その人自身として〈いのち〉を生きることを可能にする。しかしながら、歴史を少しでも振り返ってみるならば、嫌というほど多くの〈いのち〉が宗教ゆえに殺されている。宗教戦争は歴史年表を埋め尽くしている。文字通り「殺される」ということだけではない。宗教の名のもとに人間としての尊厳を否定されている人は、今も後を絶たない。自らの人生すべてを宗教に献げることは、表面的には信仰深く幸せそうに見えるかもしれないが、実際には自分の生の有り様を他人に依存し、自立した人間として生きることから逃げているに過ぎないという場合も少なくない。信仰熱心な者となることを自らに課す人は、宗教指導者や組織の言いなりになってしまいがちである。それは決してその人に与えられた〈いのち〉を生きているとはいえず、むしろそれを失っているのである。自らの〈いのち〉を生きられない人が、他者の〈いのち〉を奪うことに無頓着になってしまうのは、ある意味当然のことである。自らの〈いのち〉を喪失し、他者の〈いのち〉を殺すことが信仰熱心の証となってしまうという悲劇は、いつの時代にも繰り返されている。しかも、宗教指導者こそが先頭に立って〈いのち〉を奪っているという事態は、決して稀なことではない。一般信徒の方がはるかにまっとうな感覚を具(そな)えているということはよくあることだ。

【『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静〈うえむら・しずか〉(岩波書店、2008年)】

 本書刊行時は東京大学や東海大学で非常勤講師をしていたが現在は著作に専念しているようだ。あっさり味だが出汁(だし)がしっかり出ている塩ラーメンの趣がある。文章にスピード感がないのはそのため。出汁を取るには時間がかかる。ましてキリスト者に対するメッセージであれば慎重に話を進めないと拒否反応を招く。

 冒頭で一般論を掲げてからキリスト世界に入ってゆくわけだが、外野から見るとキリスト教の内部世界を描いているため、そこかしこに「甘さ」を感じる。だが上村の抑制された筆致は清々しく、陰険な性質が見られない。宗教を巡る議論は正義の奪い合いに終始して、主張が誘導の臭いを放つことが多い。上村は自分の足でイエスに接近する。

「宗教は人を幸せにするためにある」というのは一般論としては正しいかもしれないが、科学的に見れば誤っていると思う。宗教は本来、コミュニティ維持のために発生したと考えられる。

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

「幸せ」は元々「仕合わせ」と書いたが、たぶん鎌倉時代にはなかった言葉だと思われる。とすれば概念そのものが中世以降のものだ。まして、「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)ことを踏まえると、「幸せ」は更に遠のく。

 それゆえ宗教は「死を巡る物語」であり、コミュニティを維持する目的で「死を命じる」ことも当然含まれていたことだろう。その意味でコミュニティとは悲しみと怒りを共有する舞台装置といえそうだ。

 一般論としての「幸せ」は人権概念から生まれたものではあるまいか。もちろんそのためには自我の形成が不可欠だ。西洋では「神と相対する自分」から個人が立ち現れる。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 発想を引っくり返してみよう。宗教は人を殺す教えなのだ。そして人間は自分が束縛されることを望む動物なのだ。おお、実にスッキリするではないか(笑)。これが掛け値なしの事実である。積極果敢に幸福を説く宗教の欺瞞を見抜け。彼らが幸せそうな素振りをしてみせるのは布教の時だけだ。胸の内では布教の成果を求めて煩悩の炎が燃え盛っている。布教とはプロパガンダの異名である。声高な主張には必ず嘘がある。真実は黙っていても伝わる。

 私の見地からすれば「宗教の倒錯」ではなくして「宗教は倒錯」ということになる。

宗教の倒錯―ユダヤ教・イエス・キリスト教タルムードの中のイエス旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出)キリスト教の自己批判: 明日の福音のために


エティ・ヒレスムの神/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック

2014-03-29

教団内部の政争/『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也


『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也
『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也

 ・教団内部の政争

 創価学会にまつわる数々の事件で汚れ仕事をやらされてきた著者が赤裸々に舞台裏を綴った手記である。矢野絢也のネゴシエーター振りは国税庁との攻防で見事に発揮されており、政治家としての力量が窺える。

 教団内部の政争が醜悪極まりない。それでも優れた読み物になっているのは著者の筆致が抑制されているからだ。声高に創価学会を糾弾することもなく、事実を淡々と綴っている印象が強い。

 創価学会の体質は巨大企業というよりは暴力団に近い。さしずめ創価一家といったところだろう。組長である池田大作を守るためなら、どの幹部であろうとも鉄砲玉のように扱われるのだ。矢野絢也も結果的にその一人となった。

 マンモス教団の乱脈経理にメスを入れるべく国税庁は池田大作の公私混同を問題視していた。全国の創価学会会館に設置されている池田のプライベートルームや、実質的に池田の別荘と化している各地の研修道場、そして海外要人への高価なプレゼントや公明党議員への報奨金および創価学会員への小遣いなど。


 国税庁との窓口は矢野が担当し、矢野はあらかじめ竹下元首相などに国税庁への働きかけを依頼していた。

 その5日後の4月18日、竹下元首相からの一本の電話は私を狂喜させた。竹下氏のちからをまざまざと見せつけるものだった。竹下氏は、事実上、(※第二次税務調査の)税金をゼロにするよう国税庁首脳部を説き伏せていたのだ。
「国税庁には“心にまで課税できない”と言っておいた。源泉徴収義務を怠った程度の扱いで収める。学会の山崎尚見〈やまざき・ひさみ〉副会長には“矢野さんの力でできたことだ”と話しておく。だが、山崎には、今後も注意するようにと言っておく」
 山崎氏は学会の政治担当で、公明党だけでなく、自民党首脳らとも接触していた。山崎氏は、竹下氏に以前から米などを付け届けしていた。このときはおそらく池田氏と秋谷氏の指示で、私とは別に念押しのために竹下氏と接触していたようだ。
 私は竹下氏に「ありがとうございました。ご恩は忘れません」と繰り返しお礼を言い、電話機に向かって何度も頭を下げた。

【『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2011年)】

 元々創価学会は困ったことがあると自民党代議士に泣きついてきた。言論出版妨害事件の際は田中角栄に仲裁を依頼している。

 ところがあろうことか公明党と創価学会はあっさりと竹下を裏切る。

 世論の激しい批判にさらされた金丸氏は10月14日、遂に議員辞職に追い込まれ、竹下派会長も辞任。竹下派では後任の会長を巡り、会長代行の小沢氏のグループと反小沢の小渕副会長のグループが激しく対立し、年末の竹下派分裂に突き進む。
 一方、皇民党事件に関連して、金丸、竹下両氏の国会証人喚問を求める声が高まり、竹下氏に対して議員辞職を求める声が政界から沸き起こった。
 竹下氏の議員辞職要求の先頭に立ったのは、こともあろうに学会への第二次税務調査潰しを竹下氏に頼んだ公明党の石田委員長だった。
 石田氏は14日の記者会見で「総裁選への暴力団関与は、民主政治の根幹に関わる問題だ」として、竹下、金丸両氏の証人喚問による真相解明に全力を上げることを表明、あわせて竹下氏の進退に言及し「議員辞職に値する」と言い切った。野党党首が竹下氏に議員辞職を求めたのは初めてで、これをきっかけに他の野党や自民党内からも竹下氏の議員辞職を求める声が相次いだ。
「公明党は竹下にきつい」という宮沢首相側近の指摘どおりの展開になったわけで、竹下氏の側近からさっそく私に抗議が来た。
「お宅の石田委員長がいちばん先に竹下辞任の口火を切ったが、どういうつもりか。恩知らずとはこのことを言うんだ」
 私は「マスコミに聞かれて、つい言ってしまったようだ」と苦しい弁明をしたが、私自身も石田氏の発言に腹を立てていた。私はすぐ竹下氏に連絡して謝罪した。石田発言によって追い詰められた竹下氏は不機嫌で「なぜ、よりによって石田に言われなければならないのか」と憮然としていた。(中略)
 しばらくすると竹下氏から電話があった。竹下氏は、懸命に心を静めようとしているらしく、いつもの淡々とした口調に戻っていた。竹下氏は私と話す前に学会の山崎副会長と話したという。
「山崎に私のほうから電話をして、自分の心境を話した。山崎は、石田に事情を聞いて連絡をすると話していた。学会との関係は変えたくないと思っている」
 だが翌日になっても山崎副会長は竹下氏に電話一本かけなかったという。
 山崎氏は、学会の政治担当として、第二次税務調査をはじめ問題があるたびに竹下氏にすがっていた。池田名誉会長個人の脱税問題では、竹下氏の力添えで脱税をもみ消してもらい、山崎氏も竹下氏に感謝していた。
 ところが竹下氏が政治的に追い込まれるや態度を一変させ、助け舟を出すどころか逆に追い落としにかかった。学会・公明党の首脳たちは冷酷、非情と言われても仕方がなかろう。

 創価学会は下衆の勘繰りをし「国税は竹下がけしかけたのではないか」と考えたのが真相のようだ。平然と恩を仇で返すところに創価学会の政治性があり、その後公明党が与党入りをしたことも納得がゆく。

 学会の裏切りを目のあたりして、さすがの竹下氏も「学会もわからないところだ」と憮然たる様子で私に愚痴を言った。
「山崎から連絡が来ない。私は文句を言った訳ではなく心境を話しただけなのになあ」
 私が言葉に窮していると、竹下氏は、国税庁の坂本前本部長が竹下氏のところに押しかけてきたことを明かした。
「坂本が私のところに来た。“我慢して便宜を図ってやったのに学会は許せない”といきりたっていた。私は“宗教は心の問題だから課税しないでいい”となだめておいた」
 それでも坂本氏は収まらず「ルノワール事件は今後、問題になる」と仕返しをほのめかすなど、怒り心頭だったそうだ。

「マムシの坂本」の異名を持つ坂本導聡〈さかもと・みちさと〉国税庁直税部長は竹下の側近であった。

 創価学会内部から国税庁に投書が寄せられているというのだから教団の腐敗ぶりが目に浮かぶ。日本一のマンモス教団が凋落するのも時間の問題だろう。私は戦後から高度経済成長期にかけて創価学会と日本共産党には一定の役割があったと考えているが、既に双方とも役割は果たし終えたものと見ている。

 公明党は大衆福祉を掲げて設立されたわけだが、国民の見えないところで消費税導入にも賛成していた事実が書かれている。政界で魑魅魍魎(ちみもうりょう)に魂を売ってしまった宗教者の成れの果てが哀れだ。権力が腐敗するように、巨大化する組織も腐敗を免れないのだろう。

乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント
矢野 絢也
講談社
売り上げランキング: 142,334

検察庁と国税庁という二大権力/『徴税権力 国税庁の研究』落合博実

目撃された人々 57


すべてが私を支えている/『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ


 あなたの存在を今支えているのが何か知っていますか?
 その表面をちょっと撫でてみるために、例えば、あなたが朝食を終えて、お気に入りの椅子に座り、この本を取り上げたと想像してみましょう。あなたの首と肩が、頭を支えています。胸の骨と筋肉が呼吸を支えています。椅子があなたの身体を支えています。床が椅子を支えています。地球が、あなたの住んでいる建物を支えています。いろいろな恒星や惑星が、地球の軌道を支えています。窓の外では、男性が犬を連れて道を歩いています。この男性があなたを何らかのかたちで支えていないと断言できますか? 彼は、あなたの家に電気を供給している会社で、書類整理の仕事をしているかもしれませんよ。
 道にいる人たちの中で、そして、その背後で働いている、見えない無数の人たちの中で、あなたの存在を支えていない人がいると断言できますか? 同じ質問が、過去に生きていた先祖たちにも、また、朝食と何かの関係があったさまざまな動物や植物にも当てはまります。どれほど多くの起こりそうもない偶然が、今のあなたを作りだしたのでしょうか!

【『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ:水島広子訳(創元社、2007年)以下同】

 バイロン・ケイティの『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』(旧訳は安藤由紀子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ、2003年)に続く2冊目の著作。

バイロン・ケイティは現代のアルハットである/『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

 装丁と訳文が明らかに女性向けとなっている。原書に由来するのかどうかは不明。「訳者あとがき」によれば、バイロン・ケイティは元々重度のうつ病だった。摂食障害の社会復帰センターへ入所したのは彼女の保険がそこしか適用できなかったためだという。「自分はベッドに寝る価値もない」と彼女は床で寝ていた。ある朝、目を覚ますと世界は一変していた。自分を苦しめているものは「現実」ではなく、「自分が信じている考え」であることに気づいたのだ。うつ病というプロセスを経てバイロン・ケイティは悟った。

 私を支えているものに気づくことは現実を知ることでもある。この相依相関の関係性をブッダは縁起と説いた。バイロン・ケイティの目はありのままの縁起世界を見つめている。「支えられた自分」を自覚する時、人は自(おの)ずから「支えよう」とする方向を目指す。「私」という存在は「支えられている重み」を実感する中にあるのだろう。

 グローバリゼーションの時代にあってはテレビに映る外国人すら自分と関係があるかもしれない。その人たちが輸入品の製造や収穫をしている可能性がある。今目の前にあるパソコンも、部品や部材をたどってゆけば数百人、数千人の人々につながっていることだろう。


 すべてのものがあなたを支えているのです。あなたがそれに気づいていようといまいと、考えようと考えまいと、理解しようと理解しまいと、それを好きであれ嫌いであれ、あなたが幸せであろうと悲しかろうと、眠っていようと起きていようと、やる気があろうとなかろうと、支えているのです。お返しに何かを要求することなく、ただひたすら支えているのです。

 これを生きる中で自覚しているのはインディアンだけだろう。彼らは大地に感謝を捧げ、恵みを享受する。インディアンに富という概念はない。彼らは必要最小限を自然から分け与えてもらい、必ず正しい行為に使うことを約束する。ブッダとクリシュナムルティの思想を生きるのはインディアンである。彼らの生は完全に自然と調和している。それゆえ私は密教(日本仏教)のスピリチュアリズムは否定するが、インディアンのスピリチュアリズムは肯定する。ひょっとすると同じ文化がアイヌや沖縄、エスキモーにもあったのかもしれない。

「私」という言葉を、「私の考えは」に置き換えることが、気づきをもたらすこともあります。「私は敗北者だ」は、「私の考えは敗北的だ。特に自分自身についての考えは」となります。(中略)痛みをもたらすのは考えであり、あなたの人生ではありません。

 我々は思考に囚われている。身動きもままならないほどに。ブッダやクリシュナムルティの教えですら我々は思考で受け止める。バイロン・ケイティは思考から離れた。まさに独覚(どっかく=アルハット=阿羅漢)である。世界を変えるためにはブッダの教えを広めるよりも、人類全体がインディアンを目指すべきなのかもしれない。

探すのをやめたとき愛は見つかる―人生を美しく変える四つの質問