2014-04-14
コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝
・コミュニケーションの技法
・カウンセラーのパーソナリティ
・『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス
まず第一に、カウンセリングは「行動の変容」を目標にする。人間が人間を治すとか変えるとかするのは高慢である。われわれにできることは相手に共感し、あるいは理解的態度を示すことであるという人がいるかもしれぬ。しかし、反論したい。何のために共感したり理解的態度を示そうとするのか。それはそのことにより相手を助けることができるからである。助かることができるとは、相手の行動の変容に効果があるということである。「いや、そうではない。効果など計算してはいない。そうせずにおれないからそうするのだ」というならば、それはプロフェッショナルな面接とはいえない。一定時間、一定場所で料金をとって面接するからには何らかの目的がなければならぬ。目的なしに料金をとるわけにはいかない。「治すのではない、非審判的・許容的雰囲気をつくるだけだ。あとは来談者が勝手に自己を変えていくのだ」といったところで、やはり非審判的・許容的な雰囲気をつくる目的を問うならば、それは行動変容の条件として不可欠だからということになろう。それゆえ、カウンセリングは学派の如何を問わず行動の変容を目指すものといえる。では、行動の変容とは何か。反応の仕方に多様性がでてくることである。今まで父にビクビクしていた人が、父に適当に冗談が言えるようになり、上司にビクビクしていた人が、上司に「ハイわかりました」と言うだけでなく、「……ですね」と復唱して確認しておけばよいという具合に、今までとは異なる反応を学習することである。この場合、反応の仕方といっても、たとえば異人種に対する偏見のような心の中の反応と、飲酒・喫煙・麻薬常習・盗みというような外的に観察しうる反応がある。カウンセリングは、この両者の反応の変容を目指すものである。
では、行動の変容を目指すカウンセリングはいかなる手段をとるのか。それは言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションである。つまり、音声言語のやりとりや身体言語のやりとりを通して行動の変容を促進しようとするのである。
【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】
1月にパソコンを新調したのだが、ホームページ作成ソフトのCDが見つからないため更新が滞っている。で、探すのも更新するのも面倒なんで、ブログに「必読書」のカテゴリーを設けた。読書の道標(みちしるべ)になれば幸いである。せっかくなんで心理学の必読書を以下に示しておこう。
・精神科医がたじろぐ「心の闇」/『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック
・『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
・唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』
・現代心理学が垂れ流す害毒/『続 ものぐさ精神分析』
・極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル
・死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
岡田尊司〈おかだ・たかし〉著『マインド・コントロール』を加える予定。
そして本書である。凡百のマネジメント本が100冊束になってもかなわない一書である。「コミュニケーションの技法」として読むことが可能だ。上記テキストからも明らかなように國分は実務家である。たぶんカール・ロジャーズの名を借りて来談者中心療法を悪用するカウンセラーが多かったのだろう。因みに患者をクライアント(来談者)と呼んだのはロジャーズを嚆矢(こうし)とする。
ロジャーズの手法は高度にシステム化されており、カウンセラーの意志力なくして実践は難しい。悪用するつもりがなくても、結果的に患者を野放しにすることも容易に想定できる。ま、閉ざされたスペースで適当に仕事をしている心療内科が多かったのだろう。國分は同業者に対して「仕事をせよ!」と呼びかけたのだ。
具体的なやり取りも紹介されていて、これが大変参考になる。とにかく無駄な理論や理屈がない。どこまでも具体性に基づき、効果を検証する。臨床の鑑(かがみ)だ。
影響を受けた人物として霜田静志〈しもだ・せいし〉を筆頭に挙げている。
私が20代の頃であった。私より年上のクライエントが私の言うとおりに動いてくれて、私も何かえらくなったような気持だという意味のことを言った。「國分君、それはね、君に頭を下げているのではないよ。君の学問に頭を下げているのだよ。それを忘れちゃだめだよ」と霜田静志は私を諭した。
こういうエピソードをさらりと書けるところがまた憎いではないか。
ビジネス、スポーツ、教育で人を育てる機会がある人は必読のこと。テクニックが身につくというよりも、コミュニケーションの幅が広がる。
私は、面接のほかに読書をすすめることがよくある。自分の正当性を主張してやまない母親には霜田静志の『叱らぬ教育の実践』(黎明書房)をすすめる。生徒に好かれない教師にはニイル『問題の教師』(黎明書房)をすすめる。自分の問題点に気づきカウンセリングへの意欲を高めるのがねらいである。簡便法の一つの試みである。効果は今のところ半々である。人生計画もなく留年や登校拒否をしている青年には井上富雄『ライフワークの見つけ方』(主婦と生活社)をすすめる。これは一念発起のきっかけになるようである。
カウンセリングをする場合の著者を支えている本として以下が紹介されている。
・Ph.D國分康孝教授の最終講義
・國分康孝の談話室
全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官
気骨を感じさせる記事だ。/全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社] http://t.co/KMVWsFUTTU
— 小野不一 (@fuitsuono) April 14, 2014
この画像は保存すべし。/img_431d87dd73acdea45e6f090ef9abc03a464017.jpg (695×645) http://t.co/jlVYSwqkig
— 小野不一 (@fuitsuono) April 14, 2014
日米関係の初まりは“強姦”/『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー
岸田●ペリーがきたというのが、アメリカと日本の最初の関係のはじまりなわけですけれども、その最初の事件に関するアメリカ人の見方と日本人の見方に、非常に大きな開きがあって、そこに日米誤解の出発点があるんじゃないかと思います。日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。
バトラー●文化に対する強姦ということは言えるんでしょうかねえ。
岸田●その理論的根拠については僕の書いた本のなかに述べておりますが、僕は、個人と個人の関係について言い得ることは集団と集団との関係についても言い得ると考えているわけです。強姦されたと言ったのは、司馬遼太郎さんですがね。僕はどこかで読んだんですけれども、そのとき、まさにそうだと僕は思ったわけです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じだと。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。
バトラー●そのつもりでしたね。
岸田●アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じ籠もっていた古い日本を近代文明へと拓いた、むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。
バトラー●(省略)
岸田●ああいう形で日米が出会ったのは、やはり不幸な出会いだったんじゃないかと思います。いわばある男と女の関係が強姦ではじまったようなものです。そしてその強姦された女は、その男と仲よくしたいと思うんだけれども、いろいろなことから、どうしてもこだわりがあるわけです。
【『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー(トレヴィル、1986年/青土社、1992年/河出文庫、1994年)】
ケネス・D・バトラーは東洋言語学博士でアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの所長を務めた人物。岸田の対談集はどれも面白いが本書の出来はあまりよくない。
私はペリー強姦説が岸田のオリジナルだと思い込んでいたので司馬遼太郎の名前を見て驚いた。
ペリー来航の意義は、圧倒的な武力による開国の強要だけではなく、また交易の開始でもなかった。政治と経済、文化といったあらゆる面において、日本が近代という巨大なシステムに吸収されるということだったのである。
【『近代の拘束、日本の宿命』福田和也(文春文庫、1998年)】
つまり強姦された挙げ句に、白人の家へ嫁入りさせられてしまったわけだ。そう。先進国一家だ。
憂鬱になってくる。強姦した相手が金持ちであったために結婚生活が何となく幸福に見えてしまう。日本の経済発展の底流にはそういう心理的な誤魔化しがあったのだろう。で、怒りの矛先はアメリカではなく中国や韓国に向かう。まったく捻(ねじ)れている。
しかも、黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。現在、その捕鯨で我が日本は白人どもから叩かれている(有色人捕鯨国だけを攻撃する実態)。
「強姦」は喩えではない。アメリカ人は黒人奴隷やインディアンを実際に強姦しまくっている。ノルマンディー上陸作戦においては白人をも強姦している(「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」)。奴らのフロンティアスピリットとは強姦を意味するのかもしれない。
「世界の警察」を自認するアメリカは強姦魔であった。民主主義が有効であるならば、アメリカは倒されてしかるべき国家だ。
・黒船の強味/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
・泰平のねむりをさますじようきせん たつた四はいで夜るも寝られず/『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典
・意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠
2014-04-13
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
・『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
・無意味と有意味
・『たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する』レナード・ムロディナウ
真実は両者の中間にある。つまり、世界は完全な無意味ではないが、意味のわかる部分は限られている。このため、わたしたちはある方向には行動できるが、他の方向にはどうするべきかまったくわからないのである。
簡単な例を使ってこれを考えてみよう。まず、目や耳、鼻や手を通して脳に送られてくる感覚情報は、つぎのようにビット(0または1)が連なった数列の形にあらわされているとする。
00101000110110……
こんな仮定は奇妙に思われるかもしれないけれど、わたしたちはこの方法を使ってコンピュータと情報のやりとりをしているのである。たとえば、何かの絵をコンピュータの中に取りこむときに、どんなことがおこなわれるかというと、まず、ちょうど新聞紙に印刷された写真のように、絵を小さな点に分解する。それから、各点における色に2進法で番号を付ける。そうしてコンピュータに0と1のビット列を読みこませて、ディスプレイ上に絵を再現するのだ。
つぎにマックスウェルから小さな悪魔を借りてきて、0と1からなる感覚情報をわたしたちの脳の代わりに読んでもらおう。この悪魔が受けとる情報はもっぱら感覚毛色から届くものとし、感覚毛色からは刻一刻と新しいビットが送られ、すでにわかっている数列につけ加えるとする。何しろ彼は悪魔なので永遠に生きられる。ということは、この世の終わりには、0と1が無限につづく数列が彼のもとに届くわけで、そうしたらわたしたちはこの世界に意味があるかどうかを彼にたずねることにしよう。
【『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド:南條郁子訳(創元社、2006年)】
偶然に関する分野はなかなか奥が深い。大雑把にいうと統計学と複雑系科学に分かれるが、本書は北欧神話と数学でアプローチしている。
偶然と必然はただ単に無意味と有意味につながるものではない。キリスト教世界では自由意志の問題と決定論に関わってくる。
脳は時系列を因果関係として認識し、ここに意味が生まれる。ただし意味は解釈によって変わるわけだから、「我々が生きるのは現実世界ではなくして解釈世界である」という私の持論が成立する。そして五感情報がバイアス(歪み)を避けられないため解釈された世界は妄想の色を帯びる。ここに宗教発生のメカニズムがある。
・宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
単なる偶然を必然の物語に変えるのが宗教の仕事だ。偶然とは思えないような出来事は必ず宗教色が滲み出る。
・ユングは偶然の一致を「時間の創造行為」と呼んだ/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
私はどちらかというと複雑系科学に興味があるため、本書はあまりピンとこなかった。アプローチの仕方はユニークなのだが淡白な文章に馴染めなかった。上記テキストもよく読むとちょっとおかしい。ビット化されたデジタル情報は「世界が0と1で構成されている」ことを意味するのではなく、「殆どの情報を0と1に置き換えられる」ことを示しているだけのこと。
置き換えとは翻訳であるから、本来であればここから言語の限界に進むべきだと思われる。ビット列で画像が表示できるわけだから、0と1は既に軽々と言語を超えた。
現実生活の作法としては偶然や必然を思い詰めて考えるべきではない。意味の罠に捕われてしまうと自分で自分を裁く場面が増えるように思う。ブッダが示した因果は必然ではなく、現在性を時間の流れの中で捉え直したものだと思う。必然性というよりは関係性(縁起)に重きを置く。
我々は不幸な出来事が起こると、「なぜ?」と問わずにはいられない。「なぜ私だけがこんな目に遭わないといけないのか?」と。私がアウシュヴィッツやルワンダ、インディアン、パレスチナに関する書籍を読んできたのもこのテーマを探るためだった。
神谷美恵子〈かみや・みえこ〉はハンセン病患者と出会い「何故私たちでなくてあなたが?」と問うた(『人間をみつめて』)。
悲劇には固有の顔がある。人間の残酷さには限りがない。やがて地球は人類の悲しみを支えることができなくなることだろう。
希望を抱くことは悲哀からの逃避に過ぎない。ゆえに、ただ悲しみを手放すことが正しい生き方だ。
・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
・偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
・偶然か、必然か/『“それ”は在る ある御方と探求者の対話』ヘルメス・J・シャンブ
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